シライの体臭が馬に似ているという話

「おいクロノやめろ、くすぐってぇ」
「うーん」
 シライが言ったタイミングで、スマートフォンを見ているシライの首筋に鼻先を埋めていたクロノは体を離した。脈絡もなく匂いを、それも警察犬が不審物を発見したような勢いで嗅がれたのだ。なのにシライと同じようにクロノも不思議そうに首を傾げるものだから、なんでおまえがその顔すんだよ、とシライもさらに首を傾げる。ページを開いたばかりの特集記事「日帰りで行ける! 関東マル秘デートスポット7選!」はしばらくお預けだ。
「なんだよいきなり、人のにおいなんか嗅いで」
 シライはクロノの鼻先の感触が残る首筋をさすりながら体ごと向き直る。犬の鼻のように濡れているわけでもあるまいに、クロノの鼻の頭は少し冷たくて、外は寒かったのだろうか、と薄手のシャツを一枚着たきりのクロノをまじまじと見る。幸い、寒そうにしている様子はない。
「おじさん変わった匂いがするんだよな。何か付けてる?」
「加齢臭って言いてえのか? おまえはおじさんって言うけどそこまでじゃ――」
「そうじゃなくて、甘いような香ばしいような……どこかで嗅いだことがある匂いがする。どこだっけな……」
 言われて、シライは自分のパーカーの襟元を引き寄せ中に籠もるにおいを嗅いでみる。無臭とは言わないが、何のにおいと言うほどのものでもない。しかし、自分の体臭を自覚するのは難しいことで、クロノの認識との間の隔たりは相当にあるだろう。シライの頭の中に、日帰り旅行の行き先を決めるよりも先に手を打つべき恐ろしい事実が浮き上がってくる。
 眉間に皺を寄せるシライの懸念を察したか、クロノが言った。
「嫌なにおいじゃないぞ。おれ、おじさんが臭いと思ったことないし」
「……気を遣ってんだよ、デオドラントとか」
 パーカーの襟首を離したシライは、目を逸らしながら勢いなく言った。
 クロノに伝える気はさらさらなかったが、シライが体臭を気遣うようになったきっかけは、クロノがおじさんと呼ぶことではなく、ゴローの存在だった。巻戻士になってから数年経った、まだ今のようにゴローの隣に並び立つ機会などなかった頃。廊下ですれ違ったゴローから、石鹸や柔軟剤とは違う「いい匂い」と思える匂いがしたのだ。
 香水見に行ったこともあったっけな――と、感傷と呼ぶには日が浅く、何も買えずに帰った状態が今も続いているためにもぞもぞと座りの悪い記憶を追い払って、シライはまだシライの体臭について考えているらしいクロノを見る。シライにとってはクロノが部屋を訪ねてくることが予定外。だから今日は何も体に付けていない。けれどもクロノがシライの体臭を気にするきっかけは今日以前にあるはずで、シライはもう一度自分のにおいを確かめたい気がした。
「ところでおじさん、何してたんだ?」
「気にすんの今さらだろ……」
 シライは話題が変わったことに少しばかりホッとしながら、においの根源の探求を中止したクロノに見せるべく、伏せていたスマートフォンを表に返した。
「今度おまえと行くとこ探してた」
 アクティブになっているページのメインイメージは、青空の下で羊が草を食む牧場の写真だ。暑くも寒くもない今の季節にうってつけの行き先だった。
「久しぶりにバイク乗るのも悪くねぇだろ。電車乗り継いでハイクでもいいけど、せっかく面倒な申請済ませてんだ。使わなきゃ損だ」
 出身時代とは異なる時代に籍を置く巻戻士の身分証明は一癖も二癖もある。滅多なことでは照会のお世話にならないが、転ばぬ先の杖というやつで、事前の申請は必須だった。
 画面に見入っていたクロノが、その目つきのままでシライの目をじっと見る。シライはそのあまりの真剣さにどきりとした。
 シライが恋人と呼べる相手を持つのは今回が初めてだ。師匠と弟子としての付き合いの長さは十分あるながら、カップルとしては新米も新米、脱穀も済んでいない。すい、と体を寄せてきたクロノの腰にとりあえずで腕を回して、ここから分岐するルートをシミュレートする。肩口に顔を擦り寄せられたのを「抱きしめてほしいって意味で取っていいのか?」と思いながら両腕に力を込めかけたところで、クロノはぱっと体を離した。
「思い出した、馬の匂いだ!」
「馬ァ!?」
「うん、馬」
 それって臭いってことじゃねぇのか、とシライが眼差しに込めた疑いを的確に受け取ったクロノは「馬は臭くないぞ」と力強く言い切った。
「おれが巻戻士になる前、背負ってくれたことあったろ。おじさんの背中って筋肉がすごくて、馬みたいだなって思ったんだ」
「おまえ……それ、においだけじゃなく全体的に馬じゃねぇか……」
「何言ってるんだ。おじさんは馬じゃない、おじさんだ」
 クロノの中では、今の一言で全ての説明がついたらしい。取り残されているシライを置いて、のんびりと牧場のウェブサイトを見始めてしまった。

投稿日:2025年6月18日
Youtube版の「おじさんはウマだな(当該箇所)」より。馬は甘いものが好きだそうです。