幕引き
そろそろ雨が止む。
流し台の脇に伏せていたコップを取り上げたゴローは、窓の外、木立の隙間から覗く灰色をした空を見た。日本にいた頃はなかった空気の変化を読む感覚は、意識せずとも機能するほどに体に馴染んでいた。
日没まで一時間弱。その頃には雲が晴れて、金色の光が部屋を満たす。
ゴローはまだ見えない日差しを思い描きながら、窓に掛かったウッドブラインドを閉ざす。眩しすぎると文句を言う同居人は、椅子に縛り付けずとも部屋から出なくなっていた。
元はコンドミニアムとして貸し出されていた家は、何も手を入れる必要がないほどに物が揃っていた。家との調和が取れたアンティークの家具の数々は、3時曰くハワイの産ではないらしいが、現地に生まれたのではない者が想像するハワイの暮らしに溶け込んでいる。
過不足のないよう丁寧に作られた家だ。それでも、十五年というのは、オーナーの美意識とは関係ないものが増えてしまう長さだった。
手品を見せた後日に届けられたうさぎの人形を3時が取っておいたのは意外だったが、養父に暴力を振るわれていたという出自を疑わしく思うほど物怖じしなかったチャイヌのことを思えば、納得できる気がした。
「これで、ようやく好きに酒が飲めるな」
ブラインドを下ろそうとするゴローを止めて、ベッドに横たわる3時は言った。
ゴローは3時の発言に脈絡を求めるのを諦めている。魔術師を自称する男はゴローに何の情報ももたらさず、芝居がかった口調でくだらない話ばかりをする。あまりの饒舌さに、黙秘を決め込まれた方が楽だと何度も思った。
3時がゴローの返事を受け付けないのは今に始まったことではない。一日の大半を眠って過ごすようになったくせに、何もかもを見透かすような目つきは変わらず、表情を変えないように努めるゴローの顔を観察する。
とはいえ、3時はゴローの思惑に気付けなかったせいでこの地、この時代に縛られることになったのだから、見透かすような顔をしているのはただのフリだ。探って得られるものなど何もない。そのことを互いに分かった上で、観客のいない舞台に立ち続けている。
「私はアルコールを受け付けない体質でね。きみのように飲みたくても飲めないというつらさはなかった。飲み物がコーヒーばかりなことには参ったが、文化というなら仕方あるまい」
「……茶葉は買ってある」
「無駄なことを。週末のフリーマーケットにでも出すといい」
紅茶を飲み慣れないゴローには、自分が淹れた紅茶の良し悪しが分からない。まずい紅茶を飲むくらいならコーヒーの方がマシだと言った3時が、一度もゴローの淹れた紅茶に手を付けなかった理由は、時空警察とクロックハンズが敵対関係にあることと無関係ではないだろう。
「きみの国には、我が子と酒を飲むことを楽しみにするという文化があったろう。わたしの生まれ故郷はまた違う文化だったが、息子が大きくなる前に飲めるようにすると言うと妻に笑われたよ」
繰り出される会話が今までのように煙に巻こうとするものではないと感じるのは、昨日まで伏せていた妻子の情報が含まれているからだろうか。もっとも、3時の妻は母、子は己という、ゴローが想像だにしなかった複雑さを孕んでいて、思い出語りが巻戻士の創設者であるゴローに対する当てこすりの可能性は十分に考えられたが。
十五年だ。手持ち無沙汰を解消したいと思ったときに、指を組み替えようとすることはなくなっていた。
「……他に、チャイヌに伝えることはあるか」
「いいや」
3時は、病床にあっても口髭を整えることをやめない。人に会う予定はないだろうと指摘すれば、3時は馬鹿にするような顔でゴローを見た。それで、ゴローは自分を身内に数えていたことに気が付いた。
「きみの方こそ、わたしに聞いておきたいことはないのか?」
「おまえが答えたことがあったか?」
本心から苛立ちを見せれば、愉快そうに3時は笑った。
日が沈みきる前の赤々とした光。3時が眩しさから逃れようとするようにベッドサイドの水差しに目をやって、その視線をゴローは追う。死に水を取る間柄ではなかったし、そもそも文化が異なるはずだったが、想像せずにはいられない。
「紅茶の淹れ方はチャイヌに聞きなさい」
3時が言った瞬間の表情を、ゴローは確かめ損ねた。
- 投稿日:2025年10月6日