十年と二年とその先
「アカバ、あれはやりすぎだ。事実には違いねぇんだから」
「ひとっつも事実じゃない! シライさんをバカにしくさって!」
「遺憾だろうが、どんだけ挑発されようと殴るのはいかん」
廊下を踏みしめ歩いても怒りが収まらないアカバがシライを見上げると、シライは仕方のないやつだと言うように苦笑した。
「いくらおまえから言い出したことだろうが、付き合うのを承諾した時点でおれに罪科が付くんだよ。年の差を気にする人間から見れば特に。ああいう手合いは相手がチャイヌだろうと言うだろうけどな」
「……なんでそこであの女が出てくるんじゃ」
シライの発言とはいえ許容しきれず、アカバは唸るように声を低くした。思惑通りに怒りの矛先が変わったと見たか、シライは笑った。
「共通の知り合いで成人してるってなるとそこだろ。隊長とおれじゃ事情が変わっちまう」
まだ納得いかない顔をしているアカバの頭に、シライはぽんと手を置いた。シライの手のひらに押し下げられた前髪が目元をくすぐったが、アカバは気にせずシライを見続ける。
「おれは白い目で見られるだけの年の差があるって分かった上で返事してんだ。気にすんな」
シライの何もかも織り込み済みだという顔を見たアカバは、シライから目を逸らし、十歳年下の相手との交際というものを考えてみる。そして、自分の年齢から十を引くと、シライと出会った時の年齢になると気づいて眉根を寄せた。
確かに子供だ。付き合うなんてありえない。だが、それは六歳というのがちんちくりんのガキだからであって、今のアカバは巻戻士だ。しかし――。
「アカバ」
思考の堂々巡りを始めたアカバは、シライの柔らかな声に呼び戻された。同時に、シライの手もアカバの頭からどけられる。前髪に塞がれていた視界はわずかに広くなった。
「おれが大丈夫だって言ってんのに不安か?」
足を止めたシライは、首を傾げるようにしてアカバの顔を覗き込んだ。
付き合う前と比べて減りも増えもしないスキンシップ。ほんの少し増えた二人だけで会う時間。シライにとって何のメリットもない、アカバの満足のためだけにあるような関係なのに、シライに向けられる周囲の目という負担は確実に増えている。
アカバの頭をよぎったのは、海のど真ん中で見た憔悴したシライの姿だ。思い出してしまったのは、六歳の自分という記憶の引き出しが開きっぱなしだったせいもある。
巻戻士となったアカバの目から見ても、シライがアカバを救うために取った手段は壮絶なものだった。そのシライが「成人するまでキスから先はなし」と宣言したのだから、ミッションは間違いなく遂行されるだろう。現に、アカバは頬へのキスすらさせてもらえない。
「……わしはシライさんのやせ我慢は嫌いじゃ」
「我慢じゃねーよ。こういうのは楽しみにしてるって言うんだ」
アカバの肩を一つ叩いて、シライは先に歩き出した。
正面から顔を見つめても、きっとシライの真意を知ることはできないのだ。
アカバは緊張とは無縁に思えるシライの肩先を見て、隣に並んで歩くべく床を蹴った。
◇
先週が、アカバの十八歳の誕生日だった。
成長というのは日々の積み重ねで、誕生日などデータ上の年齢が増えるだけで昨日と何が変わるわけでもない。本心からそう思っているものの、口々に祝われると体がむずむずする。クロノとレモンはアカバの反応をからかうような性質ではなく、客観的な事実として「アカバが喜んでくれてよかった」と言うものだから、余計に恥ずかしかった。
そして、今日のアカバはシライの部屋にいる。
手土産に買ってきたマロンチョコレートフラッペは既に飲み干して、中身が氷だけになったカップが座卓の上で汗をかいている。
「なんでシライさんはわしが待ってると思わなかったんじゃ?」
床に押し倒されたシライの驚いた顔を見て、アカバは首を傾げた。
「手に入って、それで満足しとると思っとった?」
不思議だった。アカバは最初からシライのことを好きだと言い続けていたし、シライの方も、お預けという宣言ながら性欲込みの関係を示唆していたのだ。十八歳という条件を満たしたアカバが行動を起こさないと考えるのは、シライらしくもない短絡的な考え方ではないだろうか。
じゃれつきの延長。計画を察知したシライに言葉で躱されないよう周到に仕掛け、望む状態に持ち込んだアカバは、押さえたシライの手首を掴み直した。
身長は、あと一息で並べそうなところまで伸びた。体術を駆使されたならまだしも、腕力だけで抜け出されることはないはずだ。成し遂げた興奮に緊張が加わって、アカバの胸は今にもはち切れてしまいそうだったが、必死で平然とした顔を保つ。
「確かに最近は隠してたかもしれん。シライさんはそういう気がないようじゃったから」
黙り込んでいるシライの言い分は分かっている。アカバが人から秋波を送られているとき、それを見たシライが向けたのは嫉妬に駆られた目ではなく、子供を見守るような柔らかな眼差しだった。そのくせ後で掛けてくる言葉は悪ふざけをたっぷり乗せたからかいで、その度にアカバは「わしはシライさん一筋じゃ」と主張してきた。
シライはアカバが他者に目移りするよう仕向けることはあっても、自分がよそ見をすることはなかった。人の噂も七十五日という言葉の通り、時間が経つにつれてシライが謂れのない中傷を受けることはなくなって、残ったのはシライがアカバと付き合っているという事実のみ。アカバはシライがアカバの存在を理由として交際の申し込みを断ったと知ったとき、自分がシライの恋人の座を占有している喜びを噛み締めた。
ジャケットとパーカーに隔てられていては、シライの脈がどんな風に打っているか分からない。逸る気持ちのせいで、自分の心臓の音ばかりが大きくなっていく。
アカバはシライが自分を恋愛対象として見ているのかどうか、交際して二年が経った今も分かっていない。もっと言えば、自分がシライに抱いている気持ちが恋なのかどうかも判断できていなかった。もしかしたら恋ではなく、世界の全てが自分を中心に存在していると考える、子供じみた独占欲かもしれない。時折頭をもたげる不安をいなしながらの二年間。今のアカバの頭にあるのは、シライの保護者然とした態度を崩して、腹の底まで暴きたいという欲求だ。
「……アカバ、手離せ」
シライの反応があるまでの間に、アカバは一年分の忍耐力を使った気がした。だから、シライの口から出たのが諭すような言葉だったとしてもホッとしてしまった。
「手が使えねえとキスくらいしかできねぇぞ。差し支えねえならいいけどよ」
動かないアカバに向かって、シライはいつものようにおどけて見せた。別段、この状況を危機とは思っていない様子だった。
一度も許さなかった口づけを、シライ自ら受ける気でいる。軽い口調で言われたことながら、その事実だけでかなりの満足感がある。
アカバは自分の頬が緩んでいることに気付いて顔を引き締めようとしたが、アカバが自覚するよりも早く緩みに気付いたシライの愛しさを含んだ視線を受け、虚勢はあえなくしぼんでしまった。望んでいた形ではないなりに、シライから注がれ続けた愛情はすっかりアカバの内側に根ざしていて、張り詰めた心を解して落ち着けてしまう効果があった。
あともう少し。シライがそう思っていることが、何となく分かってしまう。
「おまえがおれを好きだってのは分かってる。でもな、おれはもうおっさんだぞ」
「そんなことない! シライさんは初めて会った時からひとつも変わっとらん!」
「おっさんだって言ってたじゃねぇか」
「ぐ……っ」
過去の失言を蒸し返して揚げ足を取りつつも、アカバの言いたいことを分かってはいるのだろう。シライの目つきは穏やかだ。
「おれから見たおまえも、あの頃のままなんだよ。でかくなったとは思うけどな」
「……嘘じゃ」
「嘘じゃねーよ」
「シライさんにとっての初対面は、十六の時のわしのはずじゃ。あの時のシライさんと変わらん」
「よく気づいたな」
嘘が露見した気まずさなど欠片も見せず、シライはアカバの洞察力を褒める。一本取ったということになるのか、それとも取らせてもらったのか。ムッと口を尖らせたアカバを見るシライはまだ楽しげで、両腕が使えないようには見えない。本当に捕まえられているのか、自分の目で確認したくなる不安をアカバは堪える。
なぁ、とシライは言った。
「おれはおまえと同じ気持ちを返せねぇ。それも分かってるだろ」
アカバはシライを見つめたまま嘘をつける器用さがなかった。俯いて顔を隠したくとも、組み敷いてしまったおかげで、シライの目にはアカバの表情が丸見えだ。
「でもな」
初めて、シライが腕に力を入れる。横車を押せるだけの勢いがなくなったアカバは、大人しくシライの腕を放した。自由になったシライの手は、アカバの頬へと伸ばされる。
「おれはおまえとヤれないわけじゃねぇ」
目に映ったのは、この二年間、シライが見せたことのない表情だった。
言われた言葉の意味を頭で理解するよりも先に、体がぶわりと熱くなる。手も足も、自由に動かせるはずなのに、アカバをからかい遊ぶ顔は何度も見てきたはずなのに、にんまりと笑うシライから目が離せない。頸動脈を流れる血が沸き立って、耳を触ってくるシライの指が冷たく感じる。
「選ばせてやるよ。もう大人だってんなら、選択に責任は持てるよな?」
は、と浅く息を吸ったアカバは、何度も目を瞬かせた。ようやくシライから目を逸らし、うろうろと視線を彷徨わせても、シライの瞳より見たいものなどどこにもなかった。
アカバはぎゅっと眉間に皺を寄せ、意を決してシライを見た。
「わしは、シライさんと……したいです。でも……でも、シライさんが我慢するのは嫌じゃ」
重力に従い流れた黒髪は、押し倒した時とほとんど変わらない。アカバを狼狽えさせた眼差しは、今は凪の海に浮かぶ月のような穏やさでアカバを見つめている。
「我慢はしてねーよ。おれは、アカバとしてもいいと思ってる」
譲歩であって、したいわけではないのだろう。
アカバが喉元まで出掛かった言葉を飲み込むと、全てお見通しだという顔で、シライはくしゃりとアカバの頭を撫でる。性を感じさせないいつもの手つきだ。
「おれは、おまえがしたいことはしてやりてぇの」
やろうぜ、と改めて誘われて、感じるべきはお膳立てを任せてしまった悔しさのはずなのに、アカバは高まる気持ちのままシライを押し潰すように抱きしめた。シライが返してくれた抱擁の柔らかさをもってしても、場違いな興奮は収まらなかった。
- 投稿日:2025年10月9日
- まだキスしてません。