シライがリトライアイを破壊されるより前の話です。

性交不成功

 断られることは考えても、最後まで付き合えない可能性は思いつきもしないのだろう。
 人の気配を感じて目覚めたゴローは、自分の上にまたがったシライの顔を見上げた。
 若さに由来する衝動と、公私の充実から来る万能感。漂白された言葉としてしみじみと思い浮かべてしまえるくらい遠い日の感覚で、シライに上に乗られたときにすぐに意図を察せられなかったくらい、今のゴローは性欲を覚える機会が減っていた。ゴローは深呼吸の後に溜め息をひとつ、あくびの代わりに吐いた。
 酒のせいでも薬のせいでもないのに、後のことを考えない破滅的な行動だ。当のシライの表情に不安が欠片も見られないために、余計に危うさが感じられる。
 シライをこうまで追い詰めた原因が自分にあると分かっているのに、自責の念は全く湧かなかった。行く先が分かっていることで、万事を諦める癖が付いている。何度も時間を巻き戻し、散々足掻かなければ、未来は変えられないのだ。ならば、多少の抵抗をしたところで、結局は同じところに行き着くだろう。上に乗ったシライがジャケットを着ていないことだって、ありふれた結果のひとつに過ぎないのだ。
「シライ、どけ」
 ゴローが寝転んだまま言うと、シライはその言葉を待っていたように口角を上げる。
「どかせたいならどかせりゃいいだろ。いつもみたいにドカッと」
 身体能力のピークを過ぎた後の年齢が、若い頃に想像していたよりも動けることなど、何の慰めにもならない。動けることは年老いた自分から聞いていたし、見せられてもいたから、動けること自体に意外性もない。
 しかし、そちらの機能については単純な体力の問題ではないのだ。
 ゴローは自分の下半身を意識してみる。シライはゴローの体力や可動域を正しく把握しているだろうが、肉欲の在り処までは分かっていない。シライから見れば十分すぎるほどにオッサンだろうに、熱を発散したいという欲求は、自分のそれと変わらないと思い込んでいる。
 それとも、シライの知る中年の男はそういうものだったのだろうか。
 ゴローはシライと出会った路地裏の、掃き溜めじみた薄暗さを思い出す。あの日、あの場所で、シライは誰かを待っていた。ゴローの誘いに躊躇わずに付いてくるくらい、連絡も入れずに置いて行って構わないような誰かを。
 シライは巻戻士本部の人間関係の構築には慎重すぎるきらいがあるのに、ひとたび任務となれば、常人ならばあるはずの柵を簡単に取り払ってしまう。潜入捜査に長けた人間と違い、自分を守るための垣根すら取り除く行動は、遂行力に自信があるからか、それとも。
「ゴロー隊長。おれのことを抱けるか、抱けないかだけ教えてくれねぇ? 常識も良識も抜きで」
「抱ける」
即答かよ。潔さに卒倒しそうだ」
「だが、それと抱くかどうかは別の話だ」
「組織として必要があるなら抱くだろ、隊長は」
「分かっているのなら話は早い」
 大して警戒していない状態のシライは、簡単にひっくり返されてくれる。ベッドに転がってすぐに見せる顔が驚きであるところに、物慣れなさを感じる。それならば、今しがたの想像は杞憂ということだ。
「おれがおまえを抱かなくても、おまえは巻戻士をやめない。それならば答えは一つだ」
 シライは、ゴローにその気がないことは、改めて言葉にせずとも分かっているはずだ。
 ゴローはシライをベッドに残して起き上がり、休憩のために緩めていたネクタイを締め直した。ジャケットは椅子の背に掛けてある。シライに脱いだジャケットはハンガーにかけるように言った過去が思い出されたが、今考えることではない。
「お疲れの隊長に元気出させたら、ごほうびにくれるってのはねぇ?」
「交渉が下手すぎる」
「下手すぎな交渉じゃ性交渉成功しようがねぇってか」
 ゴローはシライに背を向けたまま顔をしかめる。なぜ、シライが自分に抱かれたいのかが分からない。シライの顔を見たとて答えが分かる気もせず、ゴローはジャケットを掴んで羽織った。
 何も得られないと分かっているのにシライの様子を窺ってしまう自分は、つくづく部下に甘いと思う。
 ゴローが振り返ることを見越していたのか、それともずっと見ていたのか、シライと目が合った。シライはゴローが部屋を出ようとしているというのに、まだベッドの上であぐらをかいている。ゴローの視線を悠々と受け止めて、にんまりと笑った。
「それなら練習として付き合ってくれよ。情けねーとこ見せるなら隊長がいい」
 ゴローを待たせているくせに、シライは急ぐ様子もなくベッドの端まで移動して、床にばらばらに転がっているスニーカーを足で引き寄せた。
 シライは大抵の場合ポケットに手を入れ、背を丸めて歩く。パーカーのフードが裏返っていることを気にしない。そのくせ、スニーカーの踵を潰したところや、刀のベルトが緩んでいるところは見せたことがない。ゴローとは異なる、必要についての線引きがある。
「……好きな相手でもできたか」
「なんだよ、柄にもねぇこと聞くじゃねぇか」
「練習が必要なんだろう」
 柄にもないことをしているのはどちらか。ゴローはそう言いたいのを堪えた。
 シライの返答を待つつもりで、ゴローはドアノブをひねらずにいる。ドアを開けさえしなければ、部屋の防音性は保たれる。
 全くいつも通りの歩幅で歩いてきたシライは、ゴローを見上げた。
「任務でいることもあるだろ」
 ないと言い切れないことを詫びるつもりはない。言われて、動揺できる時期もとっくに過ぎている。
 ドアノブを離してシライに向き直ったゴローは、見ようによっては挑発と取れる表情を浮かべたシライの頬に手を添えた。温かい。
 視野の外になるだろうに、シライの左目がゴローの手を追って動く。唇のあたりに微かな緊張が走るのを見ながら、ゴローはシライの眼帯の紐の下に指先をくぐらせる。
「……任務中ではないか」
 露出させた右目は、まだ一度も巻き戻していないことを示す0が表示されていた。
 ゴローはシライの眼帯を元通りに戻した。手放したドアノブを掴んでひねってから、目を白黒させているシライに外に出るよう顎をしゃくって示す。
「出ろ。鍵のことは後だ」
「なんっ……だよ!」
「可能性の一つを確かめただけだ。それに、それはおれの台詞だ」
 明るく、風通しのいい場所。廊下に出したシライはありありと不満を浮かべている。怒りのせいだと理由付けるには赤すぎる顔色には、ゴローは触れないことにした。

投稿日:2026年3月2日