夜明けの空を待つ間
バリーがトーマスの妻マーサの死を知ったのは、新聞の死亡広告からだった。
バットマンらしく重々しい口から、バリーの話の上にしか存在しないブルースのために自分が生きる世界を無に返す決意と、その行いについて妻の同意を得たという話を聞いたのは昨日のことだ。その妻が帰らぬ人となったなんて、トーマスはただの一言も言わなかった。
新聞を放り出して駆け寄ったクローゼットには、父親の葬儀のために買い直したスーツがあった。スーツに触れた瞬間に思い出す、突然の逝去を悲しむ母と、その肩を抱く自分。上書きされる記憶から逃げるように、バリーはトーマスの元へと走った。
「Dr.ウェイン!」
「……丁度いいところに来たな」
往訪を望まれているとは思っていなかった。ケイブにいながらバットマンの格好をしていないとも。
予想外の展開に用意してきた言葉を出しそこねたバリーの手に、平素と変わらず厳めしい顔をしたトーマスが小箱を押し付ける。バリーも持ったことがある、今は記憶の中にしか存在しない箱だ。
「サイズが合わない。直せるか」
バリーの戸惑いを余所に、トーマスは簡潔に用件を伝えた。顎をしゃくって促され、開けた箱の中には予想通り、結婚指輪らしき指輪が収まっていた。傷も曇りも見られない新品同様の状態なのは、医師という職業柄身につけることが少なかったからか。
バリーのかすかな肯首をトーマスは見逃さず、頼んだとばかりに頷き返す。バリーが来なければ自ら作業に当たるつもりだったのだろう。作業台に並んだ工具は手入れが行き届き、また、トーマスの手に馴染んでいるように見えた。
「……この度は」
「君の世界がどうだかは知らないが、この世界にはジョーカーという狂人がいる」
定型句を拒むようにトーマスが言った。
ジョーカーは知っている。見たこともある。この世界で初めてバットケイブを訪ねた日、ジョーカーの手下だと思われ殺されそうになったことは記憶に新しい。
「ジョーカーは指輪をしていた。あの馬鹿げた衣装の下に、それと揃いで誂えたものを」
分かるか? と、初めて見るカウル越しでないトーマスの目に見据えられる。バリーは出かかった声を喉の奥に押し戻した。思考が行き着いた先を口に出したが最後、ブルースから聞いた母親の思い出を失ってしまいそうだった。
「いつもしていたのか、たまたまなのか。屋敷から指輪がなくなったのはいつなのか、私は知らない」
小さな、しかし深い溜め息を吐いたトーマスの姿が、ブルースの部屋に飾ってある写真に重なる。ケープを身に纏っていないからではない。家族を思う男。陰りなく笑う少年の、父親。本人だという確信を得てもなお繋げられないでいた、トーマス・ウェインが年を取ったら、という想像がようやく像を結んだ気がした。
愛息子のブルースを失って以来臥せっているという、かねてより世間に知らせてあった設定をなぞって、マーサは病死として葬られた。直接の死因はともかく、病だったことは間違いないというのはトーマスの言だ。
棺に横たわるマーサの顔は、馬鹿げた疑念を差し挟む余地がないほど穏やかで美しかった。
「お昼ぶりだね。会食のあと何か食べた?」
ブルース以上に普段何を食べているのかが分からないトーマスを相手に、好物を考えるのが面倒になったバリーは、自分の好みで買ったクラムチャウダーを手にバットケイブを訪った。バットマンが休業中で二人分を食べることになっても構わないという心算は、ぽつぽつと電灯が灯る洞窟の中、影が伸びたようなケープの裾を見つけたことで惜しくも散った。
開ける前から揚げ油の匂いがする紙袋を机に置くと、椅子に身を沈めていたトーマスは警戒心も露わに袋を睨む。バリーはそれを無視して隣の房から丸椅子を運び、机を挟んでトーマスの斜め横に据えた。クラムチャウダーの横に並べたフィッシュ&チップスにコーラという追加メニューは、アルフレッドに見られたら蒸し野菜が出されること必至だったが、あの献身的な執事はこの世界のどこにいるのやら、一向に姿を現さない。
「こんなものばかり食べているのか。いい若者が」
「若者だからだよ」
ブルースの食生活は体を作り上げるために計算されていた。きっとトーマスもそうなのだろう。バリーとて体が資本ではあるものの、能力が肉体に依存しない分、過重労働者と若者を合わせた不摂生をしている。明らかに不満そうに唸るトーマスに、バリーは押し付けるようにスプーンを渡した。
表向きの顔をしているときのブルースは過剰なまでに社交的だったが、トーマスはそうでなかったのか、葬儀の参列者からは妻を亡くした男を気遣う以上に、トーマスを敬遠する気配が感じられた。唯一気安い態度でトーマスに話しかけていた小柄な男にバリーは見覚えがある気がしたが、相手がバリーを気にも留めなかったことを思うと、やはり面識がない相手なのだろう。ブルースを見慣れた身からすれば分かりやすい、親しさからくるそっけない態度を取るトーマスの姿は、当然ながら存在する、しかしバリーが今日まで見ることができなかった、トーマスの人としての生をありありと感じさせた。
バリーは黙っていると思い浮かんでしまう、もう何度目かの逡巡を振り払いながら、タラのフライをコーラで飲み下した。見るともなしにトーマスを見て、使い捨てのスプーンを持つことに「似合わない」という判定があることを知る。それで少し気分が上向く。折よく蝙蝠の鳴き声が聞こえたことで、さらに少し楽しくなる。ポテトを食べさせ合えるほど近くにいながら会話のない気まずさが、おかしな風に作用していた。
必要のない話をしよう。バリーがそう決めて息を吸ったところで、トーマスが話し出しそうとするように手を止めた。バリーはそれに気づけたことと、自分を留めるのにスピードフォースがいらなかったことに感謝した。
「好きなものを食べるのはいいが、体に気をつけなさい」
トーマスから与えられた忠告は、バリーの父親でも言うようなことだった。
- 投稿日:2020年2月28日