夜明けの空を待つ間」の続きです

閑話

「オズワルド」
 退出しようとしたところで名前を呼ばれ、オズワルド・コブルポットは控えていた部下に外で待つよう手を振った。部屋の主に向き直ると、エレベーターのドアが背後で閉まった。
 トーマスに伝えるべき案件は何もない。すべて世は事もなし、というやつだ。とすれば新しい話か。オズワルドはトーマスの執務机ではなくソファに向かい、エスプレッソマシンを稼働させる。人嫌いが緩和することのないトーマスのために冗談半分に導入を薦めたものだが、なかなかどうして悪くない。
「浮かない顔だな。悩みごとか?」
 返ってきた唸り声は悩みというほどではないと不服そうだが、大した話でないならわざわざ呼び止めることはない。お互い暇ではないのだ。入れてやったコーヒーを勧めると、トーマスはソファに座った。
「……若い者は何を好むんだ」
「さぁな。金やっときゃ後は勝手に好きにするさ」
「金は断られた」
「そりゃ面倒臭いな」
 コーヒーを片手に正直な感想を述べると、トーマスは唸った。もてあまして相談したのは事実だが、面倒ではないと言いたいらしい。しかし間違いなく面倒な話だ。部下には確かに若い者も多くいるが、彼らはオズワルドからの信頼こそ欲すれど、心から打ち解けたいわけでない。働きには報酬と言葉、そして次の任務を与えてやれば事足りた。トーマスが必要としているのはそういうのとは別のものだ。相談する相手を間違えている。カジノの入り口で駐車係を捕まえて聞いた方がまだ収穫がありそうだ。
「息子の友人が訪ねてきてな。……少し、世話になった」
「あんた相手に言いたかないが、詐欺じゃないか?」
「違う、彼はそんな男じゃない」
 思わず言ったが、即座に否定される。享年十歳かそこらの息子の友人が、二十年以上経過した今になって訪ねてくる。きっかけはマーサの葬儀と考えるのが妥当だろうが、おばさんに焼いてもらったクッキーがおいしかったからとでも言ったのだろうか。おかしな話だ。訪問先が大富豪のトーマス・ウェインでなく一般家庭だったとしても不審を抱くような相手を、オズワルドに輪をかけて疑り深いトーマスが信用し、あまつさえ喜ばせてやりたいとまで思ったのはなぜなのか。焼きが回ったんじゃないかという目を向けたが、視線が交わることはなかった。詳しい経緯を説明する気はないようだ。
「……金髪の男だな。取り立てて特徴のない体型の」
 葬式で、自分の方を見ていた青年。見られることには慣れていたから無視したが、トーマスを案じていると分かる眼差しに、その割には遠巻きすぎる距離。部下を多く持ち、それ以上に友好面した敵が多い手前、人の顔を覚えることには自信があるが、初めて目にする男だった。なるほど、ブルースが生きていたらあれくらいの年齢だろう。トーマスの唸り声を聞きながらオズワルドは髪を撫で付けた。
「欲しい物が分かるような話はしなかったのか」
「……」
「トーマス?」
「……ああ。コーヒーを入れてやったら、結婚したときにエスプレッソマシンを買うか迷ったと言っていたな。揃ってコーヒーを飲める機会が少ないから結局買わなかったらしいが」
「それでいいじゃないか。五十年分契約してやれ。たまの休日に役に立つだけでもいいだろ。それが駄目なら忙しいお二人さんのために店を予約しろ」
 オズワルドは手を広げ、きゅっと口角を上げた。一件落着。話は終わりだ。カップに残っているコーヒーを飲み干す。少々冷めてもうまい。
「彼は今独身だ」
 立ち上がり去ろうとするオズワルドを、トーマスの言葉が引き止める。
「……まあ、よくあることだ」
 顔を合わせないからこそ上手くいく場合もあるが、そういうタイプではなかったのだろう。結婚生活の維持に必要なものは人によりけりだ。突然失うことだってある。この際何でもいいじゃないか。レストランでもアイスショーでもフットボールでも何でも。座席を手配して、気になる相手か親にでも贈れと渡してやれば。オズワルドは思ったことを口にする前に一息入れようとポケットを探ったが、禁煙したために中は空だった。
「妻と結婚していた事実はなく、彼女は別の男と付き合っているそうだ」
「その男、頭がおかしいんじゃないか?」
「ああ、時々そういうこと言うな」
「笑いごとじゃないだろう、狂人フリークめ」

投稿日:2020年3月2日