ガンヴォルト爪発表前に書いたものです。パンテーラが性別不明の成人という扱いです。

サタデーナイト

 ぱりん、と薄いガラスが割れるような音がした。
 ただならぬ気配。強者のにおい。ターゲットとして指定された能力者を追っていたカレラは、急停止して振り返った。感じた気配は既に消えている。しかし、胸の底を震わせた歓喜の予感、この感覚に間違いはない。その歓びを手中に得るために、皇神グループの面接を受けたのだ。勘違いなどでは、ありえなかった。
 カレラの凝視に耐えかねたように、睨み上げた先の中空が、ぐにゃりと変容した。
「見つかってしまったか」
 何もなかったはずの場所に現れた男は、隆々と盛り上がった装甲を見せつけるようにして、軽い靴音を立てて大地に降り立った。
「どうしてもキミを一目見たかったのだ。気を悪くしないでくれたまえ」
「……パンテーラ、か?」
「おや、ワタシを知っているのか。うれしいね。好きの反対は無関心……興味を持つ、それは愛への第一歩だ」
 芝居がかった口調で言うと、男――パンテーラは変身を解いた。力の余波を受けて舞い上がった髪と服の裾が、ふわりと重力に従い落ちる。光の収束と共に、今の今まで確かにあった“男”という印象は、急速に薄まっていた。
 ネコ科の動物を思わせるしなやかな身のこなしで歩み寄ったパンテーラは、首を妙な角度に傾けて笑みを浮かべた。それは品を作る動作だったが、カレラはそうは受け取らなかった。己に注がれているのは、獲物に狙いを定めた狩人の眼だ。
「別の場で出会う運命をねじ曲げた私の愚かしさが、君の技によって暴かれたのも何かの巡り合わせだろう。しかし、今日の逢瀬はこのくらいにしておこうか。君の獲物はこの先で、私の班が足止めをしている。行きたまえ」
 意識的に作ったものなのだろう、いやに整った笑顔で、パンテーラは言った。
 磁界拳で作り出した磁場に少しでも触れたのならば、第七波動は引き寄せられ、使用不能になるはずだ。こうして自分の意思で姿を現し、そして収めたということは、能力の無効化には至らなかったということ。つまり“彼”はまだ戦闘続行可能だということだ。だが。
 無意識に握りしめていた拳を解いて、カレラは長い息を吐いた。
「……御免!」
 任務。まずは任務だ。未練を振り切るように、カレラは再び走り出した。


 皇神に入るという選択は誤りだったか。
 パンテーラとの邂逅から三日経った今も、カレラの頭にはその思いが渦巻いていた。
 誤りではないにしろ、時期尚早だったかもしれない。能力者狩りを迎え撃ち続けていれば、彼の人のような実力者が訪れるのだとしたのならば、自ら門を叩くべきではなかったのではないか。ベンチに横たわり、一定のリズムでバーベルを上げ下げしながらも、カレラの思考はその一点に囚われている。
「……何用か」
 バーベルをラックに置いて、カレラは身を起こした。
 赤みを帯びた金の髪。見つめる瞳は牡丹色。ずらりと並んだトレーニング器具には見向きもせず、まっすぐに自分の元に歩いてきたパンテーラの姿を見て、カレラは眉を寄せた。正式な顔合わせは先刻済んでいる。用という用はないはずだった。
「一緒に食事などどうかと思ってね」
「食事……」
「もしや食事の時間はトレーニングに合わせて決まっていたかな?」
「いいや、問題ない。しかし食堂はもう閉まっているだろう」
「ああ、外出許可は取ってきた。愛を語らうには食堂では味気ない」


 ◇


 肌に触れる布のさらりとした感触は、夢の中にいるような心地よさだ。寝返りを打ったカレラは、カーテンから漏れる光が浮かび上がらせた部屋の輪郭を見て、跳ね起きた。
 ここはどこだ。
 睡眠中に整理した情報を蹴散らす勢いで、頭が回転を始める。しかしそれは「どうした」「何があった」と、疑問が増殖するだけの空回りだ。知らないもので満ちた部屋は、写真のようにのっぺりとして現実味がない。ぶわりと湧き出した熱が、嫌な汗を伴って首から全身へと広がってゆく。
「もう朝か……」
 背後から知った声が聞こえて、カレラはホッとするどころか心臓を跳ね上がらせた。
「パンテーラ……!?」
「おはよう」
 やけに艶めかしい動作で起き上がったパンテーラは、眠気を隠そうともしない声で言った。長い髪が音もなく滑り落ち、素肌そのままの肩が露わになる。薄明るい中に浮かび上がった肌の白さにギクリとして、カレラは風が起こるほどの速さで顔を背けた。
「これは、何が、あったのだ」
「おや、忘れてしまったのかい?」
「忘れた、とは」
「……」
 聞こえよがしな溜息をつかれて、横目でパンテーラを見ると、非難めいた半眼が向けられていた。うっ、と呻きながら身を引いたカレラは、油が切れたロボットのようにぎこちない動きで、もう一度首ごと目を逸らした。
「……詫びねばならぬようなことを働いたのならば、謝ろう」
「忘れたこと自体は謝らなければならないことではない……と言うのだね?」
「っ! それは!」
 痛いところを突かれた動揺を誤魔化そうと、つい声が大きくなる。パンテーラは我が意を得たりとばかりに満足そうに笑った。伸ばされた手が頬に添えられて、逆側の手で優しく肩を押される。パンテーラにばかり気を取られていたが、己も服を着ていない。
「そう言うのならば思い出させてあげよう」
 まるで秘め事を話すような声音で、パンテーラが囁いた。
 ――君が昨夜、ワタシに何をしたのかをね。

「…………フ……ハハハハ! 期待したかい?」
 さもおかしそうに笑ったパンテーラは、カレラの肩をトンと小突いて、体を離した。
「安心したまえ、謝るような事実は何もない。酔ってしまった君を送ろうにも、寮の門限を過ぎていてね。部屋に空きがあると言うから泊まることにしたのだ」
 言われて薄っすらと、昨晩の記憶が蘇る。共寝の理由を、ダブルベッドの部屋しかなかったからと言われてしまうと、返す言葉はない。元はといえば己の失態が招いたことだ。カレラが深々と頭を下げると、パンテーラは気にすることはないと笑った。
「そうだ、君の服を返さなくては」
 言うなりパンテーラは、ベッドの上を滑るように移動して床に降りた。すれ違いざまに、花のような甘い匂いが香る。何となく背中で揺れる髪を目で追ったカレラは、その下に伸びた脚に裸であることを思い出させられて、うろたえながら視線を彷徨わせた。目に入った時計は、時刻が昼に近いことを告げている。
 少しの間の後に戻ってきたパンテーラは、見覚えのある服をまとっていた。両手に持っているのは、カレラの服が掛かったハンガーだ。
「臭いは取れているはずだ。まだ少し湿気ているかもしれないが、そこは我慢してくれたまえ。非番とはいえ、酒の臭いをさせて帰るのも何だろう?」
「面目ない……」
 ハンガーごと服を受け取ったカレラは、俯いているのか詫びているのか、自分でも分からないままに頭を下げた。いつか聞いたものよりも抑えられた笑い声が聞こえる。
「次は君の意識があるときに脱がしたいものだ」

投稿日:2015年8月7日