食糞要素があります。

ゆく川の流れは絶えずして

「お前の糞はまずい。量があるだけが取り柄だ」
 そう悪し様に言われても腹は立たなかった。ヘラクレスは糞を頬張るプロメテウスを見ないようにしながら、人間の糞を食いつけないからだろうと返した。嫌なら食うなとか、糞は食い物じゃないとかを口にするほど浅慮ではなかった。ひりだしたばかりの、ヒュドラもかくやというとぐろを巻いた悪臭の塊。皿代わりにと剥いだ木の皮を使ったのがいけなかった。渡すときに感じた重みは、忘れようとするほど強く思い出される。ヘラクレスは両手で強く顔を拭った。そんなことでは消せないほど、プロメテウスの姿は瞼の裏に焼き付いている。
 自由を恐れて抵抗を見せ、鷲と岩の素晴らしさを説いていたプロメテウスは、もうそのことを口にしなくなっている。当然だ。一体誰があの草一本生えない岩山の上に杭打たれ、野禽の糞に養われたいと思うだろう。鷲の死を悼む姿を見たときは流石に気が咎めたが、後悔は一度もしていない。正しいことをしたのだ。たとえそれが父ゼウスの意に背くことだったとしても。
 あの労の報いがこれだとしたら、運命の女神はなんと悪趣味なのだろうか。頬肉を引き伸ばすように手を下ろし、ヘラクレスは茫洋と広がるまばらに草の生えた大地を見る。
 与えられる課題はどれも至難を極めたが、肉体を打ちのめしてくるそれよりも、生まれるささくれが胸を刺す。真に心を砕くべきは狂気のうちに殺めた妻と子だ。エウリュステウスに従う理由、贖罪すべき相手。あちこちでばら撒いていてはきりがない。気がかりであったケイロンも、そろそろアケロンを渡り終えたことだろう。
 ヘラクレスは長く息を吹いて瞑目する。次に目を開けたときには瞳の火が燃え立つようにと。
「俺はもう行く。先に進まなくては」
 感傷を振り切って立ち上がると、折からの風に、纏わりついた悪臭が薄められた気がした。返事を求める必要はなかったが、礼儀の一つとしてヘラクレスはプロメテウスの応えを待つ。物思いが伝播したわけでもあるまいが、ちらと見下ろしたプロメテウスは、遠くを見透かすような目でヘラクレスが目指す先、ヘスペリデスの園へと続く道を見ている。艶をなくした髭に、糞の破片がべたりとついていた。
「お前が求める林檎だが、我が兄アトラスに会うといい」
 いつになくはっきりとした言葉に驚いて、ヘラクレスがプロメテウスに首を向けると、プロメテウスは恥じ入ったように目を伏せた。アトラスのいる方角とその職務――天空を支える役を担っている旨を、言葉少なに口にする。
「ヘスペリデスの園までは、アトラスに行かせるがいいだろう。アトラスに何を言われても、お前の務めを忘れるな」


   ◇


 またぞろ罰でも受けているのか。
 鍬を振るうプロメテウスの姿を見て、ヘラクレスはそう思った。コーカサスを後にして以来の再会だ。用があって訪ったのではなく、足に任せて歩いた末の偶然の邂逅だった。畑の際まで近づくと、かつて嗅いだことのある臭いが鼻先を掠めた。糞の臭いだ。ヘラクレスの体に染み付いた厩の臭いが肉体を焼くまで残っていたように、鷲とプロメテウス自身の糞の臭いもまた、早々消えるものではないらしい。
 どう声をかけたものか考えるまでもなく、気配に気づいたのかしてプロメテウスは顔を上げた。向けられた目に、岩山に縛りつけられていたときのような異様さはなかった。
「俺がいることに驚かないのだな」
「この地は変化に乏しい。異変はすぐに知れる」
 一度はヘラクレスを見たものの、プロメテウスの興味は未だ畑へ向いていた。連絡もなく来た手前、そして物珍しさも手伝って、ヘラクレスはプロメテウスを見守ることにした。
 鍬を置いたプロメテウスは腰につけていた小袋の中身を手のひらに開け、矯めつ眇めつ眺めていたが、思い悩むように眉を寄せると、脇で見ているヘラクレスにずいと差し出した。種らしきそれは、種類が混じっているのか大きさも形も様々だった。
「なんだ」
「選んでくれまいか」
 そう言われても種の良し悪しなど分からない。適当に選んだ一つを渡そうとするが、プロメテウスは受け取らず、しゃがみこんで土を掻き、そこに置くよう促した。
 種を抱き、水をかけられた土が、ふつふつと煮立つような音を立てる。そこからの変化は急速だった。
 土を弾き飛ばすように現れた芽は、めきめきと伸びて小ぶりなりにも木の形を成したかと思うと、たちまちに花を咲かせた。神としての暮らしに慣れてきていたとはいえ、ヘラクレスは目の前で起こったことがにわかには信じられずに目を瞬かせた。やがて実を結んだ果実の白はいかにも食べごろらしい赤に染まっていき、最終的には黒に近い艶やかな色に落ち着いた。
「すごいな」
 ヘラクレスはたわわに実った桑の実に感嘆してから、もしやここでは当たり前であったか、と気づき頬に熱を生じさせた。
 しかしプロメテウスは悲しそうに首を振った。
「やはりうまくいかぬか」
「成功ではないのか?」
 落胆の色を浮かべたプロメテウスは答えずに、小袋の口を大事そうに閉じると、鍬を拾い上げた。種を撒かれるのを待つばかりとなっている畑は、今実をつけた木の他は何も植わっていない。
「もういいのか」
「構わぬ。久方ぶりに会う友をもてなすくらいのことはしよう」

 プロメテウスの住まいに通された時に感じた違和感の正体は懐かしさだった。人間趣味とでも言うべきか、壁には香草の類が吊り干され、棚には甕が置かれている。人の暮らしを知るヘラクレスには見覚えのあるものだったが、生まれながらの神であるプロメテウスの住居としては奇妙さしかない。まさか畑にいたときに言った「うまくいかない」とは、人間のような労を経て作物を得たいという意味ではなかろうか。
 すすめられるままに席に着き、手持ち無沙汰に眺め回したヘラクレスは悪趣味な想像に囚われかけたが、いざ酒器を供されると、舐めた酒の旨さに顔を輝かせた。
「うまいな」
「まだまだある。好きに飲むといい」
 プロメテウスは心なしか嬉しそうに言った。
 酒器はプロメテウスの手にあるとままごとの道具のように見える。聞きはしなかったが、まさか人間の町で買い求めたのではあるまいか。恵まれた体躯を持つヘラクレスを優に上回る上背を持つプロメテウスが、背中をかがめて市の軒先に立つ姿は想像すると笑いを誘った。
 酒を供されたときは思わなかったが、木の実の盛られた器を差し出されたとき、ヘラクレスはプロメテウスが全く自然に食べ物を扱っていることに気がついた。時の流れはあの忌々しい習慣を彼の身から洗い去ったらしい。豆の鞘を割るように胡桃を割っていたプロメテウスは、ヘラクレスの視線をどう解釈したのか、割った一つをヘラクレスに寄越した。
「俺にもできる」
「だが面倒だろう」
 対抗心を燃やしかけたが、そう言われては仕方がない。ヘラクレスは渡された実を口に含み、噛み砕いたそれの甘味を味わいながら、杯を満たした酒をくるりと回した。
「その冠はお前の趣味か?」
 好奇心か、詮索か。ヘラクレスは迷うより先に口にした。プロメテウスを頭上にある冠は、岩山にいたときにはなかったものだ。罰を受けていたのだから装飾品が全て取り上げられていたとしても不自然ではなかったが、元々の彼の持ち物と思うには馴染みが悪い。禍々しいとは言いすぎだろうか。目に映るそれは確かに花輪ではあるが奇妙に重く、見ているだけでざわつくような感覚が肌を覆う。離れて見ていてこれだから、身につけているとどうなのか。そうして考えていくと、胡桃を割る指にはまった鋼の指輪も平時の装身具としては重たげだった。
「いいや」
 プロメテウスは答えてから、言いあぐねるような――少なくともヘラクレスにはそう映った――顔をした。持ち上げた杯は空だったのだろう、酒の入った水差しに伸ばされた手を、ヘラクレスは押さえた。厚みも大きさも差があったが、片手だけで意志を通せる自信はあった。
「コーカサスで、お前は俺が来ることを予見していたと言った。今日俺が訪ねることも知っていたのではないか」
 プロメテウスは顔を上げてヘラクレスを見る。ヘラクレスは今この時になって初めて、今日までプロメテウスが目を合わせていなかったことを知った。
「いずれ知ることだから教えてやろう。この冠はお前の父より賜ったものだ。あの縛めを、裏切りに対する罰を忘れぬようにと」
 ヘラクレスの知る限り、プロメテウスがゼウスを尊ぶ言い方をしたのは初めてのことだった。プロメテウスは力の緩んだヘラクレスの手を跳ね除けるようなことはせず、当初の目的通り水差しを引き寄せるに留めた。杯に酒を注ぐ顔はあくまでも平然としている。受け入れた自由を拒むというのか。それほどにゼウスの庇護下にありたいのか。
「お前の想像は詮無いものだ。天空を父に持つ我らと彼らの間にもはや禍根はなく、取り決めは終わり世界はあるべき姿を得た」
 水差しを置き、杯に口をつける。唇を湿すほどにしか飲まず、プロメテウスは杯を両手で包み込んだ。
「抗せよと言うならば英雄よ。お前はなぜ人間であることをやめたのだ」

投稿日:2016年12月29日