分岐点

 大学にまでやったのに郵便局員とはな。
 差し出した卒業証書を受け取りもせずに父は言った。母は父に遠慮してかその場では何も言わなかったが、オレの部屋に茶を運んできたときには、先の沈黙を取り繕うようにあれこれと話しかけてきた。同じように学問を修めた兄は郷里に戻らず、妹が他国に嫁いだ今、気の弱いところのある母にすれば我が子が手元に残ることは心強かったのだろう。
 いずれこの村なり他所なりから妻を迎え、子を儲け、そして老いていく。郵便局員という職は父が言うとおり立身出世など望めるはずもなく、その分、己のこれからを思い描くことは容易だった。
 だからこそ、オレは筆を執ったのかもしれない。


「おっと失礼」
 紅葉には早いが、木々の緑に陰りが見え始めた日のことだ。オレは勤務先である宇治山田郵便局の通用口で人に出くわした。元々局員しか使わない出入り口である上に、正面玄関の施錠も終えた、正真正銘の業務時間外。口をついて出た言葉がごく軽いものだったとして、誰に咎められるはずもない。
 ボサボサと伸び放題の髪に、今にもずり落ちそうな羽織。町中ならばいざ知らず、静かなこの村にそぐわない荒れた風体の男は、じっと立っていられないほど酔っているらしく、進むでもなく退くでもなく、しきりと敷砂を鳴らしている。
 どうしたものか。迷うオレの顔を見た男は、ぽかんと口を開けた。
「届毛か?」
 酔っぱらい特有の虚空へ投げ放つような声。聞き覚えがある気がしたが、それでもすぐには出てこない。沈黙を肯定と受け止めたのか、男はオレの腕を掴んだ。吐きかけられた熟柿くさい息に、うっと息を詰まらせる。
「久しぶりだなぁ、届毛。喪野垣だよ、覚えてるか?」
「あ……」
 向けられた目はふらふらと落ち着かなかったが、無精髭の中にある笑顔には見覚えがあった。言われた名前と記憶を結びつける。モノガキ――大学時代の先輩、喪野垣文吾だ。
「喪野垣先輩……村に戻られていたんですか」
 杳として消息が知れなかった喪野垣との突然の再会に、オレは驚くばかりだった。
 多産速筆の分筆家。文芸誌に天才的な小説を投稿し続ける彼は、学生の間では名の知れた人物だった。しかし卒業を機に文芸誌への掲載はぴたりと途絶え、文学部だけでなく学内でも上がっていた惜しむ声も、銘々が己の進路に神経を注ぐようになるにつれて聞こえなくなっていった。
「今上がりか? 腹が減ってるんじゃないか?」
 紙面を通した人気はあっても、喪野垣個人と親しい者は多くない。郷里の話題をきっかけにして先輩後輩という関係を築いていたオレも、大学という枠を出てまで付き合いがあったわけではなかった。
 旧交を温めるというほどの仲ではない。そう思っているのはオレだけだったのか、それとも酔っているからなのか、喪野垣の声には親しみが篭っていた。
「ええ、今終えたところです。先輩は……」
「丁度よかった。今からもう一軒行こうと思っていたところだ。奢ってやるから来い」
 既に相当の量を呑んでいると思われる喪野垣は上機嫌で言った。
「飲みに、ですか」
 喪野垣がここまで酔っていなければ二つ返事で誘いに乗ったかもしれない。懐かしい気持ちはあるし、たかが後輩にすぎないオレを覚えていてくれた嬉しさもある。しかし腕を掴む力は支えを求めて縋り付くような加減になっていて、オレに出会わなければ裏戸に頭をぶつけていたはずだった。もう一軒行くなどとんでもないことに思えた。
 迷いを振り切る決定打は頭をよぎった父の顔だった。時間がそうさせたのか、最近は関係改善の兆しが見えている。酒のにおいをさせて帰ったら何と思われるか。
「……いえ、せっかくのお誘いですが家の者が待っていますので」
 酔っぱらいのあしらいには慣れていない。取り付く島もない答えを返すことに不安がないわけではなかったが、他に気の利いた言葉も思いつかず、オレは素直にそう言った。
「……」
 薄暗がりの中、喪野垣が傷ついた顔をしたように見えた。
「また誘ってください。次は必ず行きますから」
 喪野垣が何か言う前に、オレはオレの腕から離れようとする喪野垣の手を逆に掴んで、急き込んで言った。


 夜風の冷たさで程度で醒める酔いではないらしく、それどころか歩くほどに回るらしい。喪野垣の家を知らないままに店から送り出された方向に歩いて行き、道が分かれる所まで来たときには、喪野垣はすっかり正体を失くしていた。
「あの、先輩の家はどちらですか」
「家ぇ……家かぁ…………」
 店の女は喪野垣を担ごうとするオレを手伝いながら店内で寝入ってしまったときの話をしていたから、足腰が立たなくなるまで呑むことは珍しくないのだろう。ツケが利くのだから当然知っているだろう店主に住所を聞いておかなかったことを惜しんでも、人一人を抱えて戻るには距離があったし、この場に喪野垣一人を残して再訪するのも気が引けた。
 冬の気配を強く感じさせる風が、酒に酔うことができなかったオレの体に吹き付ける。
 オレは喪野垣を自分の家に連れ帰ることを決めて、脇の下にぐっと肩を入れ直した。

 だらだらと続く上り坂は案外堪える。オレはようやく目についた石垣の縁に喪野垣を座らせると、その隣に腰を預けた。汗ばんだ背中に涼しさを感じながら、襟をくつろげて風を入れる。見上げて確かめるまでもなく月が明るい。
「…………オレ、小説を書いたんですよ」
 ここに来るまでに人に会わなかったことで気が緩んだのかもしれない。オレは遠くに光るガス灯を眺めながら、村に戻ってからずっと秘していたことを口にした。
 大学時代、後輩だという遠慮から喪野垣に伝えなかったこと、伝えそびれたことを付け加え、再び筆を執るに至ったきっかけをつまむ程度に言う。途中、急速に冷たくなったように感じた手をぐっと握った。
 一方的に言い終えた後、言うべきではなかった、言うにしろ喪野垣が正気を保っているときに話すべきだった、という後悔が浮かんでくる。
「……行きましょうか」
 再び喪野垣を担ぐつもりで石垣から離れたオレは、じっとオレを見ている喪野垣と目が合って危うく叫ぶところだった。
「お、起きていたのなら言ってくださいよ」
 たった今の後悔と矛盾しているが、寝ているとばかり思っていた人間に凝視されていたというのは心臓に悪い。オレは痛いほどに打っている心臓をなだめながら言った。動揺は収まっていなかったが、声を潜めることは忘れなかった。
「……菜園雷太を知っているか」
「は……」
 何の脈絡もなく出た質問に反応が遅れたオレに、喪野垣は題目とあらすじを補足するが、聞くまでもない。知った名前だ。単行本の奥付にすら本名の記載がない覆面作家、菜園雷太――オレが喪野垣ではないかと疑っていた作家だった。
 最初に目にしたのは学友から借りた商業文芸誌。デビュー時期、文体、選ぶ主題――痛みがあるだけで見つからないトゲのような疑念を確信に変えるには決定打に欠け、判断材料を増やそうにも、処女作の連載が終わった後に短編一作を出して以降、掲載はいつかのようにぱったりと途絶えた。卒後の喪野垣の顛末をなぞるように気にかけなくなったのは何の因果か。
「あれな、」
 知りたかった答えは、聞きたくなかった真相と共に明かされた。


「届毛、昨日の話なんだが」
 一晩掛けていた程度ではどうしようもないよれた襟を正した喪野垣は、改まった様子で言った。朝日の中で見る喪野垣の様相は酷いものだったが、それでも昨晩月明かりの下で見せた取り乱した様子からすればしゃんとして見えた。
「はい。用意してあります」
 対面に座り封筒に入れた原稿を差し出すと、喪野垣は喉を詰まらせたように見えた。
「まだ誰にも見せていません。オレが小説を書くことは家の者も知りません」
 夜が明けるまで散々思い描いた損得を測る天秤は、ぴたりと静止していた。小説を書くことを伏せていたのは喪野垣とは全く無関係な理由からだったが、いざ事態が収束に向かうと、このためであったようにも思えてくるから不思議だ。
「……恩に着る」
 封筒を膝の前に据えたまま、喪野垣は深々と頭を下げた。もう顔を上げるだろう、という頃になっても微動だにしない。オレは慌てながら声をかけた。
「やめてくださいよ。それより今から東湯に行きませんか」
 昨日の酒代には足りないだろうが、番台で二人分の湯銭を払うくらいなら気負いなくできるはずだった。東湯に行った帰りに喜之床で髭を当たることができればなおいい。
「ああ……そうしよう」
 書かなければならないという重圧から解放されて安心したのだろう。喪野垣の声は酒で掠れていながらも安堵が感じられた。原稿が入った封筒をまるで大切なもののように持ち上げられ、少し面映い。
「また書けそうな気がするよ」
 ちらりと笑顔を見せた喪野垣に、オレは頷いた。

投稿日:2017年10月29日