服す
とっさの思いつきで漱石に罪を被せようとしたのは失敗だった。漱石の名が容疑者として上がらなければ村内だけで済ませられたものを、なまじ名の売れた作家であったがために、冤罪の報は真犯人の名と並べて全国に飛んだ。判決を待たずして離籍されているとはいえ、この分では兄や妹にも累が及んでいることだろう。わざわざそのことを口にした看守を睨む代わりに己の膝を睨めつけて、届毛は後悔に歯を噛んだ。収監されている前橋監獄の雑居房は廊下側だけでなく外壁までもが格子状であり、囚人に対してばかり堅牢な木格子は雨風を防ぐ役には立たない。雪が舞うことも珍しくなくなった時節、手指は拳を作ることも難しいほどに腫れ上がっていた。
あるはずもない面会人は突然に現れた。通された部屋で座っている男に見覚えはなかったが、見当はついている。久しく取り戻した正気は垢じみた獄衣と自分が思う以上にひどいだろう体臭を恥じさせた。何と呼びかけるべきか。届毛の胸中を写したように戸惑った顔をしていた男は、立ち会う看守の咳払いに時間が限られていることを思い出したのだろう。決然とした顔で切り出した。
「お初にお目にかかります。菜園雷太先生の担当編集者です」
電話とは声が違う。届毛は声どころか人物すら違う己を棚に上げて思った。
「単刀直入に言います。ぼくは先生の作品を埋もれさせるのは惜しいと思っています」
筆名を変えてデビューしないか、と男は言った。顔を合わせたことすらない者のために監獄に足を運ぶ奇妙さが掻き消えるほど、談判の内容は異様だった。
「……私にはもったいないお話です」
届毛はそこで言葉を切った。テーブル越しでなければ膝を詰めるつもりだったのだろう。前に座る男は居住まいを正した。相手の言葉を引き出そうとする呼吸は、確かに電話越しに触れたことのあるものだった。
「もったいないお話と存じた上で申し上げます。私は届毛文章として小説を世に出したいのです」
男は流石に驚いた様子だった。喪野垣が小説を書けなくなっていたこと、そして自身が己の名前での失敗を恐れていたことは、届毛が喪野垣を殺すに至った経緯として裁判所で供述している。男が裁判を傍聴していたかどうかは定かではないが、反応からすると顛末は知っているのだろう。
「ある人にね、言われたんです」
届毛は漱石の名を伏せた。言葉を交わしたことは学生服に身を包んだ弁護士を前に罪を認めた時が初めてだったが、伝え方を誤れば、漱石が殺人者と親交があったと思われる可能性は十分にある。尊敬する人に、これ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。
- 投稿日:2018年2月2日