温泉

 プシュ、と空気が抜けるような音を立てて、目の前に停まったバスの昇降口が開く。乗らないのかという顔をしている運転手に頷いてみせると、運転手は要領を得たらしい。降りる客も乗る客もいないままドアを閉め、再び走り始めたバスは霧雨の中に溶けるように姿を消した。
 一松はまだだろうか。
 カラ松は吐いた息が白いことに驚きを感じながら簡素な待合の軒先から顔を出した。
 オフシーズンの平日中日で、曇天ということを差し引いても、スキー場近くの温泉地という言葉からは想像できないほど町に落ちた衰退の影は色濃い。バス停のすぐそばにある旅館の植木鉢が倒れたまま起こされていないことがその印象に拍車をかけていた。
 降りる場所を間違ってはいないよな、とカラ松は雨の中に踏み出してバス停の名前を確認する。差し替えられてはいるのだろう、雨ざらしの割に案外クリアな色をした時刻表は、次のバスが来る時刻まで二行分、つまり二時間のスペースが空いている。これでは運転手も乗らないのかと確認するわけだ。
 雨は傘を差すほどではないが、熱だけは着実に奪っていく。元いたベンチに戻って両手を擦り合わせたカラ松は、さらなる温かさを求めて頬に手を当てた。
「カラ松」
 予想に反してひんやりとしていた頬に失望する間もなく、呼び声に顔を上げると一松が立っていた。どてらに、マフラー。そのくせ足元はサンダル履きで、両の手はポケットに突っ込まれている。手首にかけられた見覚えのない傘は旅館のものだろうか。
「行くよ」
 歩いて来られる距離なら直接旅館に行ってもよかったんじゃないのか。
 慌てて立ち上がり鞄を引っ掛け、寒さのせいではなく癖として丸められた背中を見ながらカラ松は思った。


 懐かしい。一松の後について玄関を入ったカラ松は、天井から吊られたシャンデリアを見上げた。黒い腕に金魚鉢のような電灯が五つ。それまでシャンデリアというとヨーロッパの宮廷にあるクリスタルをかき集めたようなものと認識していたカラ松は、中学校のスキー合宿で訪れたこの宿で説明を受けた時、釈然としない思いを抱いたものだった。
 赤い絨毯と、その照り返しなのか赤みを帯びて見える上がりかまち。重厚感だとかレトロだとかを感じるべきなのかもしれないが、通ってきた町の寂れた様子を重ねるとどうしても暗く見える。靴を脱いで用意されたスリッパを履くと、思いの外クッションがなくなっていた。
「ここが部屋」
 無人のフロントを素通りして、通されたのは大きな窓が据えられた普通の部屋だった。一人で泊まるにはかなり広い。予め布団が敷いてあるのはどういうことだと思いながら、カラ松はそれまでろくに話していなかった一松を見た。
「お前はどこで寝るんだ」
「従業員用に部屋があるんだよ」
「俺もそこでいい」
 一松がむっとしたように眉を寄せた。カラ松とて広々と部屋を使うことに憧れがないわけではなかったが、タダ同然の価格で泊まらせてもらっておいてこの扱いは決まりが悪い。タダより高いものはないというのは経験則だ。一松と一緒に清掃の仕事をしてもいいくらいだった。
「お前がここの最後の客なんだよ」
 一松はこの旅館の経営が思わしくなく、譲渡が決まっていることを明かした。顧客に招待状を送ったものの集客は振るわず、今季のスキー場のオープンを待たずに廃業する。一松が入ったバイトは譲渡前の大掃除要員であり、過去に宿泊に訪れた学生だということを知った経営者の好意で一人だけ客として呼べることになったのだという。なぜ自分なのだという今更の疑問をぶつけると、父母のどちらか一人なんて選べないし二人にする金もないし、電話に出たのがお前だったからという答えが返ってきた。父母と同じく、兄弟の中の一人を選ぶこともできなかったのだろう。
「お前も一緒に寝たらどうだ。そうしたら客が二人になる」
 掃除の手間は同じだろうし、一松の部屋から布団を運べば洗濯物の数も変わらない。他に何が変わるかも分からず提案したカラ松は、明確な反論のないまま部屋を出る一松を引き留めようとした。
「聞いてくる。……食事は五時半だから」

 この人々は今までどこにいたのだろうかと疑問に思うほど賑やかな夕食を終え、カラ松は一人湯船に浸かっていた。従業員達と同席ということで出される決して華やかなものではなかったが、家の味付けとはまた違う家庭料理の数々はおふくろの味と呼ぶにふさわしい美味さだった。
 普段の銭湯と違い光量のしぼられた照明は、湯気でもやがかっていることもあり湯船の縁に肩を預けて見上げても眩しくない。結露した大窓から景色は見えないが、時刻を考えれば見えていなくても同じだろう。硫黄臭ではない、しかし温泉と分かるにおいを胸に吸い込み、気分のままに歌い出そうとしたときだった。
 カラカラと音を立てて脱衣所と浴場を隔てる引き戸が開く。喉で止めた息をゆっくり息を吐き、カラ松はちらりと闖入者を見た。
 一松だった。
 カラ松に気づかなかったということはないだろう。声をかけないまま頭を洗い出した一松を見ながら、カラ松はもう一度正面を見た。
 一松なら構うまい。
 気を取り直して歌い出したカラ松に、すぐさま一松から罵声が飛んだ。

投稿日:2018年1月28日