マニゴルドとセージ教皇の体が入れ替わってしまったという話
チェンジ!
「頼むマニゴルド。元に戻る方法は必ず見つける。ほんの少しの間、自由にさせてくれまいか」
「それは構わねぇけどよ……一体何するつもりなんだよ?」
ひどく申し訳なさそうに言うセージ――魂が入れ替わっているのだから、セージは己の姿と声をしているのだが、こんなことがなければ一生縁がなかっただろう様相だ――に言われて、マニゴルドは首を傾げた。普段の自分にはない、さらりと滑る髪の感触が、何やら妙な気分にさせられる。
「組手がしたいのだ」
言ってから、セージはますます済まなそうな顔をした。
「お前の体だと、分かっているのだ。傷付けないとは言えない。だが……」
「そんなことかよ」
マニゴルドは拍子抜けした。思慮深いセージがこれだけ躊躇うのだから、どんなとんでもない申し出が待っているのかと、承諾しながらも内心ヒヤヒヤしていたのだ。
「いいって、お師匠。気にせず好きに使ってくれよ」
「本当か!」
セージは余程嬉しかったらしい。普段の凪いだ湖面のごとき静かな顔はどこへ行ったのやら、子どものように目を輝かせ、弾む声のままに駆け出してしまいそうですらある。自分の顔だということが何とも落ち着かないが、魂の気配は間違いなくセージであるため、どうにか違和感をやり過ごせている状態だ。
「相手はやはり年長者であるしシジフォスがよいだろうか? それとも体術ならばハスガードだろうか?」
「シジフォスはやめてやれよ。万一中身がお師匠だって知ったら自決しそうだぜ」
「そうか……あの子の成長ぶりをこの目で見られる良い機会だと思ったのだが……」
「ちゃんと先のことまで考えてくださいよ、お師匠らしくもない」
「お前の体だからだろうか……」
「バカにしないでくれよ! 俺だって普段、ちゃんと考えてんだからな!?」
「そういう意味ではない。若いというだけで、どうしても気が逸ってしまうようだ。これではもうお前に堪え性がないなどとは言えぬな」
積尸気を通って抜け出すセージを見送ったあとで、マニゴルドはゆったりとした足取りで執務室に向かった。その所作はいかにも教皇らしかったが、ゆっくりとしか向かえなかったというのが本当のところだ。並の年寄りよりはずっとマシなのだろうが、視界の悪さ、それに身体にかかっている負荷はかなり大きい。セージは徐々に現れた衰えだから気にしなかったのかもしれないが、マニゴルドからすればいきなり水に突き落とされたようなものだ。この状態であの動きか、とマニゴルドはセージへの尊敬の念を新たにする。
「しっかし……好きに過ごせって言われてもなぁ……」
執務室に入ったマニゴルドは、ぐるりと室内を見回した。調べ物で部屋に籠もるという設定にしよう、とセージは言っていたが、教皇の執務室には見て楽しいような物は何もない。修行時代に散々入ったから確証があるし、最近来ていなかったからといって目新しい物が増えているということもなさそうだ。
ふと目に止まったものを見て、マニゴルドは口をへの字にした。
「まだ置いてたのかよ……」
使うことなどないだろうに、簡単な星座の本に神話の本、挿絵ばかりで内容の薄いギリシャ語やラテン語の本が、本棚の一角を占めている。本棚の中に部屋を作ったような執務室全体の蔵書量からすれば大した量ではないが、邪魔にしかならないだろうに。
子供が取りやすい低い位置、かつての定位置に置かれたままのそれを手に取るために、マニゴルドはその場に屈み込んだ。
◇
セージの元に巨蟹宮付きの従者がやってきたのは昼前のことだった。ついにコトが露見したか、と思ったが、どうやら事情は違うらしい。従者といえど十二宮詰め、内心をホイホイと表情に出すような未熟さはない。セージだから判るわけであって、組手の相手であるハスガードは何か用があるらしいとしか思わないだろう。拳を下ろしたセージは、ハスガードに「ちょっと待ってくれ」と断って、階段の中途まで駆け上がった。
「おう、どうした?」
「教皇様からの遣いがお見えです。話があるとのことなので、巨蟹宮にお戻りください」
「へぇ。何かあったのかな。――おーい、ハスガード! 悪い、ちょっと戻る!」
「俺のことは気にせず行って来くるといい! 飯はどうする?」
「う! ああー……いい、自分のところで食う!」
黄金聖闘士同士の組手ということで、今はハスガードとセージ(外見はマニゴルドだが)しかいないが、遠巻きに見学している候補生もいる。ハスガードの誘いということは、恐らくきっと彼らも交えての食事だろう。一人で食事することの多いセージにとっては非常に魅力的な誘いだったが、やはりマニゴルドを優先したかった。
◇
「お師匠! 大丈夫か!?」
「……どうしたのだマニゴルド。そんなに急いで」
飛び込んできた己の姿を見て浮かんだのは「なぜ」ということ。形だけ資料を広げた机に向かっていたマニゴルドは、動揺を押し隠して尋ねた。今の自分は教皇セージなのだ。口調も挙動も、それらしく振る舞わなければならない。
「差し出がましいこととは承知しておりましたが、私がお呼びしました」
セージの代わりに答えたのは、先ほど執務室を訪れた教皇宮付きの侍従だ。まさしく「控えている」という姿勢でセージが開け放したドアの向こうで控えていた彼は、マニゴルドの視線に対して、作法に則った礼をする。
「あんまり人を困らせるもんじゃないぜ、お師匠。具合が悪いって、俺には知らせるなとでも言ったんだろう?」
《お前の手などお見通しよ。体調の悪さを告げずに訓練に出て「お師匠には言わないでくれよ」と言っておったのを知っておるぞ》
「……!」
肉声と同時に頭に響いたテレパシーに、思わず素の顔で驚きそうになったところを、慌てて押し留める。侍従は教皇の顔を直視することはない。それが幸いだった。しかし、セージは違う。背後に立つ侍従からは見えないのをいいことに、ニヤリと笑った。その表情から、マニゴルドは自分が「悪党面」と言われる理由をよくよく理解した。
「さぁさ、お師匠。ちゃんと休んでもらうぜ。調べ物なんざ放っておいちまえ」
「そういうわけには……」
「私からもお願い致します」
「決まりだ」
侍従の言葉に、セージはスタスタと机を回り込む。何をする気かと警戒し、体ごと向きを変えたことが裏目に出た。セージはさっと屈みこむと、マニゴルドの膝下に手を回して横抱きに抱え上げた。その後すぐさまサイコキネシスの浮遊感が体を包む。
「ちょっと待、ちなさい!」
「嫌だね」
侍従は見て見ぬふりをしてくれているが、情けないことこの上ない。平然と悪童らしい表情をしているが、恐らくは持ち上げているセージからしてもそうだろう。傍目には、自分が弟子に抱きかかえられているという状態なのだから。
そのまま私室に向かうつもりらしくドアから出たセージは、首だけを後ろに向けた。
「そうだ、飯はまだだよな?」
「はい。お顔の色が優れぬと気づいたのは、ご用意しようとお声をお掛けした時ですから」
「そうか。じゃあもう一人分用意してもらえるか? 一時間ほど仮眠して、それから俺も一緒に食う」
足早に廊下を歩きながら、セージは険しい顔をしていた。
《まったく、不覚であった……》
《お師匠……すまねぇ》
《違うぞマニゴルド。私が憤っているのは自分に対してよ。これだけ体が軽いということは、お前の方の負担は相当なもの……それを失念しておった……》
降ろしてくれ、などと言えない雰囲気のまま、寝室の前に辿り着く。セージの両手は塞がっている。ドアを開けるためには降りなければ、とマニゴルドが思ったところで、ドアはひとりでに開いた。サイコキネシスを使ったのだろうが、今日入れ替わったばかりの他人の体でよくそこまで使いこなしたものだ。単純な物の上げ下げと違って、捻って押すという動作が組み合わさる分、やるには集中力が必要なはずだった。
《すげぇなお師匠》
《できなければ蹴破るのみよ》
苛立たしげな足取りと表情が嘘のように、そっと寝台に降ろされる。背後のドアが音もなく閉まった。
「すまぬ、マニゴルド」
「ちょ、お師匠、やめてくれよ!」
頭を下げられたマニゴルドは慌てた。いくら見た目は自分だとはいえ、師が頭を下げるところなど見たくない。肩を押して顔を上げさせると、いかにも思いつめた様子の自分の顔。半日の間に何度も思ったことだが、この状態の煩わしさを改めて実感する。
「そうだな、謝るのは後にしよう。元に戻すのが先だな」
「へっ? もう方法が分かったのかよ? お師匠組手してたんじゃ」
「こういうものは接吻と相場が決まっておる」
「はっ!?」
善は急げとばかりに、セージは決戦に挑むような表情でマニゴルドを押し倒した。
確かに手段としての処置で、変な想像をできる状況ではない。それはマニゴルドも同じだった。しかし自分の顔が相手だというのが気味が悪い。シチュエーションだけで言うならセージが積極的に口付けようとしているというものだし、冥界波で魂だけ飛ばして眺めたのなら、自分がセージを押し倒しているというおいしいものだというのに。
「……兄上にするようで落ち着かぬ」
セージはセージで、別の葛藤を持っているようだった。目を瞑るセージに倣って、マニゴルドも諦めた顔で目を閉じた。
「すげぇ! 戻ってる!」
目を開けたマニゴルドは、軽くなった体と明瞭な視界を前にして歓喜の声を上げた。
「大事ないか、マニゴルド」
「おう! ……お師匠は大丈夫かよ?」
「私は元よりこの状態が通常だ。気にするでない」
言ったものの、急激な変化に感じるものはあるらしく、セージにしては珍しく脱力したまま横たわっている。己を見上げながら気だるげに微笑むセージに、マニゴルドはどぎまぎしながら目を逸らした。
「本当に大丈夫なのかよ。一時間寝るって言ってあるんだし、ちょっとは休んでくれよな」
「本当に大丈夫だ。年寄り扱いするでない」
「あれ体験した後だとなぁ。説得力ないぜ、お師匠」
「弟子に信じてもらえなくなるとは残念だ」
「嫌な言い方すんなよ。……そうだ、組手は楽しめたのか? 思ったよか拳は受けてないっぽいけど、相手誰だよ?」
「ハスガードだ。あの拳をまともに受けては敵わんからな、なるべく流すようにしていた。無論楽しかったが……それよりも、おおっぴらにお前の心配ができるというのはよいな、と思った」
しみじみと言ったセージの顔をマニゴルドは不満顔で見た。慣れない体が辛いというだけなのだから、セージの楽しみを中断するほどのことではなかったのだ。現に侍従にはどうということないと伝えて、それから執務(のフリ)に戻ったのだ。こんなに簡単に元の体に戻れるのならば、今日いっぱい替わるくらいどうということはなかったのだ。
「そんな顔をするでない。何もかも打ち遣って弟子の不調に駆けつけるというのは、この身では望めぬことだ」
マニゴルドは起き上がろうとしたセージに覆いかぶさって寝台に押し戻すと、ぎゅうと首筋にかじりついた。セージは驚いた様子ながら、今回の件の負い目があるせいか無理に退けようとはしない。
「これ、マニゴルド」
「キスしたら戻るもんだって言ったけど、どうして入れ替わったのかは知ってるのかよ」
「さて……どうしてであろうな。しかしお前がこの年寄りに休めと言うたことは覚えておるぞ」
「ひでぇよお師匠! ああ~、でもあの状態でってなると考えもんだよなぁ……俺としては一回きりにしたくないんだけどな……もしかして体重かったのってそのせいじゃねぇの……」
口の中でブツブツと言いながら、マニゴルドは体を起こした。セージの顔の両側に手をついて、入れ替わりが解かれる前の状態を再現する。
「じゃあせめてもう一回、キスだけさせて」
- 投稿日:2014年8月18日