白日
呼びかけに立ち止まり振り返った顔は、記憶にあるものとそう変わらない。それでも、肉の薄くなった頬と往時よりも蔭を帯びた目が、彼の生きた歳月が確かに存在することを如実に語っていた。歩きながら話そうという意図を伝えて、サガの隣を立ち止まることなく過ぎると、サガも合わせて歩き出す。重みを感じる足取りに教皇の姿を重ねてから、自分がいない十三年間、彼が何者であったかを思い出す。
「何か話があるのではなかったか?」
水を向けられて初めて、アイオロスは自分が雑念に囚われていたことに気が付いた。今はもう彼との間に隔たりはないはずだったが、生きた年月の違いが邪魔をする。横目に見た全てを見透かしているようなサガの瞳に、生前サガに対しては覚えたことのない、畏怖に似た思いが胸の内でざわめくのを感じた。
「星矢のことだ」
再び湧きだした雑念を振り払って、アイオロスは切り出した。
「ああ……」
サガの目がすっと細まる。彼はこんな顔をする男だっただろうか。生じた違和感を押しやって、アイオロスは言うべきことを口にした。
「関わるなとは言わないが、少し控えてくれないか」
言ってから思ったのは、もっと上手い言い方があったはずだ、ということだった。サガに合わせて緩めた歩調を早めたくなる。星矢を次代の射手座とするために厳しく接しなければならない自分と違って、まだ星矢の指導に関しての責任が軽いサガは、必要なばかりではない星矢の興味を惹くに足る知識を与えたり、もっと単純に甘い菓子を与えたりするような自由が許される。今の言い方では後輩が懐いていることに嫉妬しているように聞こえたことだろう。
サガは元より人の感情の機微に敏い男だ。相手の顔色を的確に読み、しかしそれを表に出すことはなく、あくまでも自然に、望まれるとおりに振る舞う。共に慰問に訪れた時など内心舌を巻いたものだ。
そのサガの顔が、見たことのない歪んだ笑いを浮かべるのを目の当たりにして、アイオロスは少なからず動揺した。
「アイオリアにすら聖闘士として接していたお前が、そういうことを思うとはな」
「……」
沈黙を肯定と捉えられることを理解した上で、アイオロスは口を噤んだ。
「甘やかせる立場が羨ましいか。ならば役目を代わってくれ」
向けられたサガの目はどこまでも本気だった。羨ましいかと言いながらも、その実、サガこそがアイオロスの立場を羨んでいるのだということを隠そうともしない。冷たさを覚えるほどの冴えた表情の下に、共に切磋琢磨していた頃には思いもしなかった強い感情があった。
「……それはできない」
アイオロスの返答に、サガは分かっているとばかりにふいと前を向き、遠くを見るような目をした。
「わたしが何をしようと、星矢が射手座の星の下にあるということは変えようがない」
折よく突き当たった壁の前で、回廊へと向かう方にサガは立った。アイオロスは自分が向かうべき廊下を背後にしてサガと向き合いながら、呼びかけて話を始めたのも歩き出したのも自分のはずなのに、全てをサガに図られていたように感じていた。
差し込む光に輪郭を煌めかせたサガの表情は、逆光ではっきりしないながらも、確かに笑顔であったと思う。
「心配せずとも、星矢はお前を好きだよ」
蝋燭の明かりに照らし出されたサガの顔には動じた気配などなく、凪いだ表情でアイオロスを見つめている。全てが予想の範疇だと言わんばかりの様子に、アイオロスはそれこそがサガの思う壺だと分かっていながらも、苛立ちを募らせずにはいられなかった。声を荒らげないために拳を握り、解く。取り繕うだけ無駄なことだったが、それでもせずにはいられない。
「お前は自分が何者か分かっているのか」
「わたしはもう己を見誤ることはない」
一度目とは言い方を変えただけの問いかけをさらりと流したサガは、自嘲するように口端を歪めた。
「いずれ射手座を継ぐとはいえ今は青銅。対するわたしは黄金聖闘士だ。歳の差にしても倍以上ある。……しきたりに則って考えれば、謗りを受けるのは年少者に身を暴かれているわたしであって星矢ではない。お前が星矢の身ではなくわたしを案じるのも道理ということだ」
含みのある言い方に気色ばんだアイオロスから目を逸らし、サガは天気でも気にするように窓を見た。雲に閉ざされた空の下、夜闇が広がるばかりで何が見えるはずもない。
「わたしのことよりも、それをお前に告げた者が何を考えているかの方が問題ではないか? わたしはもう、お前と事を構える気はない」
暗に身を引く気はないと言われた気がして、アイオロスは眉を寄せた。
伝えてきたのは双児宮の者だ。主人の行状を見かねて訴えに出た、と考えるのが自然だった。教皇やそれに連なる者ではなくアイオロスに相談したのは醜聞を公にせず内々に済ませたいという考えあってのことだろうが、そもそも十二宮に立ち入ることを特免されているものの下働きに過ぎない者が教皇に面会を求めることは容易ではない。アイオロスに声をかけることでさえ覚悟が必要だっただろう。
目指すところははっきりしていたが、このまま話を詰めるには不利な相手だ。サガはこの日が来ることを星矢と関係を持つ以前より予期していたに違いない。アイオロスとて何も考えずに訪ったわけではなかったが、サガの反応は、そして心底にあるらしいものはあまりにも想像と異なっていた。
「……サガよ、お前が欲しているのは星矢本人ではなく天馬星座ではないか」
前聖戦より伝え聞く、女神の傍らに侍るという天馬星座。それは女神が降誕する以前に授けられた数ある口伝の一つに過ぎなかったが、聖戦を経た今はもう現実と呼べるものになっている。
「お前らしくない憶測だなアイオロス」
質量すら感じる暗がりの中で、まだ十分な長さのある蝋燭の火が不安定に揺れる。どうしてこの状況で笑えるのか。アイオロスにはただただ不可解だった。
- 投稿日:2018年1月11日
- 星矢がいなければ不穏になるところが好きです。