空の記憶

 同期と比べて思うように背丈が伸びないことについてこぼすと、魔鈴は「人種が違うんだから仕方ないだろ」とそっけなく言って、トレーニングメニューに走り込みを追加した。パワーが劣る分はスピードで補えということらしい。夜は洗い物の手伝いが免除されるから全く嫌というわけではなかったが、退き時を誤ると翌日とんでもなく眠い。魔鈴の修行は万全の状態で望んでも生死に関わるのだ。思いつきでルートを変えた今日は、特に注意が必要だった。
 空には雲ひとつなく、明かり窓をつけたかのようにくっきりと丸い月が、降るような光を注いでいる。月の光の分だけ星は少なかったが、不便はない。そこかしこに生えた名も知らぬ植物も、遺跡だか天然物だか分からぬ岩山も、昼間のようにはっきりとした輪郭を持っている。
 そろそろ引き返そうか。そう思った星矢が速度を落としたとき、眠っているかのようにしんとして微動だにしなかった木々が、音を立てて一斉に揺れた。
「うわっ!」
 砂を巻き上げながら吹き付ける強風に、星矢は立ち止まり顔を伏せた。
 耳を塞ぐ鋭い風音。ぶつかってくる砂のチリチリとした痛み。分厚い膜に覆われたような息苦しさ。突如として押し寄せてきたそれらは、幸いにも、長くは続かなかった。
 軽くなった体と、急速に遠ざかる風音に、星矢は薄く目を開けた。砂埃が止んでいることを確かめると、すっかり埃っぽくなった顔を振って、誰に聞かせるでもない悪態をついた。
 何事もなかったように降り注ぐ月光の下、黒々とした木立は切り絵のように動かない。星矢は予定通りに来た道を戻ろうとして、糸が引っかかったような違和感を覚えて振り返った。

 さっきまで誰もいなかったはずの場所に、人影がある。

 ひとつ、心臓が跳ねる。星矢は反射的に息を潜め、注意深く相手を観察した。
 近くに寄れば見上げなければならないだろう上背。月明かりに煌めく、腰を過ぎようかという長い髪。ゆるやかな長衣であるからはっきりとは分からないが、広い肩と背中からは、服の下にあるものが鍛え上げられた肉体であると感じられた。
 外れとはいえ、聖域の中である。そこにいるということは、男は聖域の関係者なのだろう。その服装は神官のそれに似ていたが、どこの誰か、ということは星矢には分からなかった。気付かなかったことが不思議なほどに目を奪う存在感。そのくせ一度瞬いた隙に消えてしまいそうな非現実感が、男の全身を包んでいた。

 ――チカリと脳裏に蘇った光景。あれはサガだったのだ、と星矢は唐突に理解した。
 なぜ今まで忘れていたのだろう。星矢は隣に腰掛けた、まだ沈みきらない太陽を眩しげに見つめるサガを、ちらりと盗み見た。
 あの月の夜に何があったのかを思い出そうとすると、フィルムが巻き上がるようにふつりと途切れてしまう。あの後サガが振り返ったかどうかすら思い出せなかった。
 星矢は記憶にあるサガの姿を思い起こしていき、ハーデス城で薄明の中に消えていく姿を思い出したところで、意識的に思考を取りやめた。サガが確固たる己を持って存在している。その事実以上に望むものはなかった。
 頬を撫でる風に呼び戻されるように、もう一度海の果てを見る。眩いばかりだった黄金色は、少しずつ穏やかに変わってきている。
 もっとゆっくり沈めばいいのに。
 サガを執務室から引っ張り出して、海に着いた時とはまるで逆のことを、星矢は思った。

投稿日:2014年9月23日