やわらかい雨

 天から絹布が落ちてきたような、やわらかな雨が肌を撫でる。湿り気を帯び始めた砂と石塊を足裏に感じながら進む、その一歩ごとに、自分の存在が空気の中に溶けてゆくような感覚。あと少しで、求めるものに手が届く。風になびく蜘蛛の糸のように幽かだった手応えが確かなものに変わった瞬間に、意識は乱暴に引き戻された。
「……きみか」
「何をしているのだ! そちらは崖だぞ!」
 目を開けてみると、ふつりと途切れた大地の代わりに、空が横たわっていた。なるほど、確かに崖だ。
「獅子が崖を恐れるのかね?」
 獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすという。その話を彼が知っているかどうかは知らないが、とにかく彼の気に障ったことは彼の身に纏う空気が変わったことからして間違いないのに、聞こえた声は思いのほか落ち着いていた。獅子座のアイオリア。聖闘士というものは年齢に関係なく、郷里で目にする同年や、そこいらの大人よりもはるかに自制できるものらしい。
「お前は獅子ではないだろう、乙女座」
 バルゴ、と彼が口にした言葉は、未だに響きも何もかもが身に馴染まない。わたしはこの聖域に生きる人々と違って、女神を仰ぎ、聖闘士となるために修行を積んだのではないのだ。聖闘士という道を示されなくても、きっと同じ修行を続けただろう。
「まだ決まったわけではない」
「教皇の星見に間違いはない」
「わたしの生まれた国と異なる占星が、わたしにどの程度の影響を及ぼすと思うかね。たとえば今この崖から落ちたならば、その占は意味を成さなくなる」
「ならばそれを防ぐために、俺はお前を見つけたのだろう」
 苛立ちまかせではない、ただ引き留めることのみを目的として、腕を掴む力が強められる。そのまま踵を返そうとした彼は、ふと振り返ってわたしの顔を見た。途方に暮れたような顔は、先ほどとは打って変わって歳相応であるように見えた。
「俺はお前の名前を知らない」
「シャカだ」
「……もう一度言ってくれ」
「シャカ」
 先程よりも幾分ゆっくりと口にしたわたしの名前を、確かめるように復唱した彼に向かって、頷いてみせる。耳慣れない発音ではあったが、少なくとも「乙女座」よりは馴染むものであった。彼は得心したように頷き返した。
「俺はアイオリアだ。獅子座のアイオリア」
 言いながら、彼は今度こそ歩き出した。その歩みに迷いはない。
「アイオリア、きみはどこへ行こうと言うのかね」
「お前はどこにいたのだ。そちらへ戻ろう」
「さて、どこにいたものか。沙汰があるまではどこにも居場所がないのだ。修行は怠るべきではないが、ひとところに留まれないのならば、歩きながらするしかあるまい」
「そんなことならば早く言え!」
 目的地があるがゆえに迷いなく進んでいると感じたのは、気のせいだったらしい。当て所がなくともまっすぐに進むのは彼の性質なのだろうか。もう崖ははるか後方にあるというのに、彼はわたしの手を握りしめたまま離そうとしない。
「俺の部屋に行こう。そこならば人目をはばかることもない」

投稿日:2014年10月25日