あめふり

 急な雨だった。ぽつりと頬に落ちた冷たさの正体を確かめるまでもなく、ザァッと音を立てて降りだした雨は、見る見るうちに道の色を変えていく。
「ええ!? やだ、待ってよ!」
 エールは手にした荷物をぎゅっと抱き、雨宿りできる場所を求めて辺りを見回す。磨き上げられたビルの外壁は岸壁のように並び立ち、よそ者であるエールが入り込める隙はまるでない。エールは荷物を抱えなおすと一目散に駆け出した。
 まさか降るとは思っておらず、雨を避ける用意はない。依頼された荷物は水に弱いものかもしれないし、たとえ中身が濡れずに済んだとしても、箱がびしょ濡れというのはうまくない。全力で駆け続けたエールがようやく見つけた庇の下に駆け込んだときには、雨は一メートル先を見通すことも困難なほどの大雨になっていた。
「弱ったな……」
 顔に貼り付く髪を掻き上げて、エールは頼りない感触になった箱に目を落とす。予報になかった雨は通り雨に違いないが、もしこのまま止まなければ遅刻してしまう。いっそロックオンして走ってしまおうか、と周囲を窺ったエールは、そこでようやく先客の存在に気がついた。
 淡いグリーンのロングヘア。白を基調としたワンピース。買い物帰りだろうか、薄手の袋を両手で提げた少女は、所在なげに雨の跳ねる地面を見つめている。
 雨だということを差し引いても、この辺りでヒトに会うことは珍しい。オフィスビルが立ち並ぶ場所からたった一区画隣に移動するだけで、町の様子はシャッターの下りた商店がまばらに見えるうら寂れたものへと一変するのだ。現に今雨宿りに使っている店も営業している様子はなく、埃で薄く曇ったガラスに書かれた文字は剥げ落ちていた。
 エールは少女の頭が動く気配に慌てて前を向いた。目を逸らしてしまってから、いっそ話しかければよかったと思えど後の祭りだ。居たたまれなさを忘れるために服の濡れ具合を気にしてみると、肌に伝わる冷えを意識して悲しくなった。
 ヒトがいるところでロックオンするわけにはいかないし、何よりもこんな場所に女の子一人を残して行けない。自分も世間から見れば少女だということを棚に上げ、使命感を燃やしたエールが話しかけようと決心したとき、少女は雨の中へと踏み出した。
 あっと思って目で追うと、少女が向かう先に、迎えに来たらしいヒトの姿があった。
 勢いがいくらか弱まった雨の中、駆け寄ってきた少女に自分の傘を差し掛けた男は、買い物袋と引き換える形で渡した傘を少女が開くまでの間、じっと傘を傾けていた。

 脱いだジャケットで包んだために、依頼品の入った箱はそれ以上濡れずに済んだ。濡れネズミになっているエールを見かねてか、依頼主は「箱の濡れなど!」とエールの謝罪にかぶせるように言って中に入って乾かすようにと勧めてきたが、エールはそれを辞退した。日没までにあともう一件、できることなら片付けておきたかった。
 倉庫を兼ねているガレージ――バイクは壊れたままだからガレージとしては機能していないのだが――に戻り、配達を終えた依頼書を破棄したエールは、モデルXとモデルZをバットに入れて布をかけた。ジャケットとショートパンツ、それにアンダーウェアを着替えて、髪を乾かす。やることを頭の中で復唱しながら、エールは棚から着替えを取り出していく。靴の替えは置いていなかったが、幸いそのままで問題なさそうだった。
 次の配達が控えているというのは決して嘘ではなかったが、本当の理由は人恋しかったからだ。エールは沈み込みそうな思考に歯止めをかける。別のことを考えようとしても消せない、胸を締め付けている何とも言えない思いは、羨ましさだととっくに分かっている。母親を亡くした後、あれこれと世話を焼いてくれるジルウェを見て、意識的に封じ込めていた感情だった。もう誰も迎えに来てくれる人はいないのだ、と雨雲のように垂れ込める思いを振り切ろうとしても、手には痺れたような感覚がしぶとく残っていた。
「……やっぱり一回シャワー浴びようかなぁ」
 エールは拳をぎゅっと握って開くと、濡れたせいで滑りが悪くなっているアンダーウェアを脱ごうと奮闘を始めた。

 差し出したシュークリームの箱とエールの顔を交互に見て、プレリーは顔に疑問符を浮かべた。「もうみんなには配ったから、あとはプレリーだけ」とエールが笑うと、プレリーは戸惑い顔のままシュークリームを一つ受け取った。後で食べると言われないように、エールは最後の一個を取り出して、空箱を手早く畳んでしまった。
「はい、これも。熱いから気をつけてね」
 エールがポケットからフタ付きのカップを取り出すと、プレリーは「そんなところに入れてたの」と笑った。立ったまま食べかねないエールに、空いている隣の席に座るように促す。
「何かあったの?」
「何かあったというか、何もなかったというか……」
 隣の席の椅子を引き寄せて座ったエールは、曖昧に答えながらシュークリームにかぶりついた。サクリと軽い歯ごたえと粉砂糖の甘み、遅れてやってきたカスタードクリームの味がじわりと舌の上に広がった。同じようにシュークリームをかじったプレリーの瞳が緩むのを見ながら、ゆっくりと咀嚼する。
 一度連れ出してからというもの、プレリーは無茶な時間を研究室で過ごすことは少なくなっていたが、それでも仕事に没頭しすぎるきらいがある。エールが運び屋の仕事を並行できる程度の小康状態というのは、ヒトビトがイレギュラーに脅かされずに済んでいる一方で、モデルVが引き起こす問題の解決が足踏み状態ということでもある。少なくとも、エールが力になれる部分に関しては。おかげでプレリーは解析に集中できるし、こうして休憩を取ることもできるのだから、一概に悪いとは言えなかったが。
「プレリーはセルパンを倒したあとのこと覚えてる?」
 エールは紙コップの中の紅茶を吹いて冷まし、一口飲んでから熱さに顔をしかめた。心配そうな顔をしたプレリーに、苦笑しながら目配せしてフタを開ける。
「あのとき『おかえりなさい』って言ってくれたよね。……ここがアタシの帰る場所なんだって思えて、すごく嬉しかった」
 言ってしまってからエールはシャワーで流したはずの泣き言が漏れそうになっていることに気づいて、熱いと知りつつ紅茶をもう一口飲んだ。
「……あのねエール、ベース内に荷物を置いてくれていいのよ? 報告なんてなくても、お土産がなくても、毎日帰ってきていいの」
「やだなプレリー、今だってそうしてるよ。今日はたまたまシュークリームのお店の前を通っただけ」
 嘘を、それも下手すぎるものをついた気まずさを誤魔化すために、エールはくるりと椅子を回してシュークリームを食べる。プレリーの視線を頬に感じながら、いま口の中がいっぱいなのでしゃべれませんよという顔をする。諦めたように目を逸らしたプレリーは、いくらか躊躇った後に「本当はこんなこと言ってはいけないのだけど」と前置きした。
「私ね、ガーディアンベースしか帰る場所がないの。他のメンバーはそうだというひともいるし、地上に待つ人がいるひともいるわ。だからね……エール……」
 段々と俯いていくプレリーを横目で見ていたエールは、口に入っていたシュークリームを急いで飲み込んだ。
「ごめんプレリー! 嫌なこと言わせちゃった、ごめんなさい。アタシ、荷物取ってくる!」
「エ、エール?!」
「善は急げだよ。いつも使わせてもらってる部屋、もらっちゃっていいんだよね?」
「ええ、もちろん。でもいいのエール? エールが今住んでる部屋って」
「いつまでも思い出に浸ってばかりいられないよ。いい加減片付けなきゃって思ってたしね」
 立ち上がるエールを見上げるプレリーに向かってウインクする。
「アタシがガーディアンベースに住むからには覚悟しててね。プレリーが仕事する時間、もっと短くなっちゃうよ?」
「それは……」
「もう! 困らないの!」
 にこりと笑って、エールは立ったままシュークリームを食べ終えると、残っていた紅茶を一気に飲み干した。行儀の悪さに驚いたのか、見上げた姿勢のまま唖然としているプレリーに向かって肩をすくめる。プレリーもとりあえず頷き返した。
「ええと、誰か手伝いを頼みましょうか? 力仕事なら――」
「だーいじょうぶだって。なんたって私は運び屋なんだから!」

投稿日:2016年5月5日