安全圏の境界線

 報酬の確認を終え、端末をポケットにしまおうとしていたアッシュが手を止める。向けられた目の輝きにヴァンは身構えた。朝からずっと一緒だったのだ。今さらの思いつきがいい話であるはずがなかった。
「せっかくだから組手に付き合ってくれない? 前はギルドの仲間としてたんだけど、解散してからは相手がいなくてね。鈍っちゃいそうで困ってるの」
「困るって、取っ組み合いの喧嘩でもするのか?」
「そりゃあイレギュラーならまだしもヒトをホイホイ撃てるわけないじゃない」
 出会って五分と経たないうちに銃口を向けられ、躊躇なく発砲されたのは思い違いだろうか。ヴァンはアッシュと初対面した時の記憶を心の奥底に押しこめながら、両の手を肩の高さに上げた。
「無理だ。仕事で鍛えてはいるけれど、オレはヒトとの交戦は想定していない。……何やってるんだ?」
「ミッション依頼の登録。この間受けた仕事が当たりだったから弾むわよ」
「いや……いいよ……やるよ……」
 ニッコリと屈託なく笑うアッシュを前にして、ヴァンは肩を落とした。

 再会は偶然ではなかった。アウターに近い辺境の町々を守るために活動するガーディアンと、アウターに出るために辺境の町に滞在することが多いハンターは、目的は違えど行動範囲に重なる部分が多い。彼らの情報網を借りたいとアッシュに仲立ちを頼んだおかげで、必要な情報は早く集まった。中でも問題が起きる前に「問題が起きそうな場所」をリストアップできたのは大きな収穫だ。モデルVが消失したおかげで積極的な襲撃こそなくなったものの、野生化したメカニロイドの多くが自己増殖の手段を獲得しており、ヒトビトへの脅威としては未だ健在だ。
 アッシュが二つ返事で協力を了承してくれたことはうれしかったし、報酬は実費だけで構わないというのもありがたかった。ガーディアンの家計はいつだって余裕がない。それにガーディアン隊員を除けばアウターに出ようなんて思いもしないヒトビトとの交流が主であるヴァンにとって、引き合わされるハンターたちの剛毅さと価値観を異にする話を聞くことは新鮮な体験だった。

「――一回でいいって大した自信だと思えば、そういう意味」
 肩透かしを食らったと言いたげなアッシュの声は聞こえていたが、脇腹を押さえて屈みこんだヴァンは起き上がれないでいた。三本勝負を提案したアッシュに恨みっこなしの一発勝負を申し出て、完膚なきまでの敗北という醜態を晒すことによって殴り合いは回避できたが、拳を叩き込まれた痛みはどうしようもなかった。無論手加減はしていただろう。体格を考えても、例えばトンの拳を食らうよりはマシなはずだ。肉を切らせて骨を断つ――望みを望んだ通りに叶えることの難しさをヴァンは痛感していた。
「じゃあ何をお願いしようかしら」
「お願いって……組手には付き合っただろう?」
 ようやく話す余裕ができたヴァンは、それでも腹を押さえたままアッシュを見た。腕を組んで首を傾げ、いかにも考えている風を装っていたアッシュはヴァンを一瞥する。
「あら、負けた者が勝った者の言うことを聞くのは当然でしょう? それに今のは組手とは言えないわ。肩慣らしにもならなかったじゃない」

「手伝ってと言っておいてそれはないだろう」
 モップを片手に部屋に戻ってきたヴァンは、くつろいだ様子で銃の手入れをしているアッシュを見て顔をしかめた。銃器はおもちゃのように無造作に箱に突っ込まれ、作業途中ということを差し引いても工具箱はシリュールが見たら卒倒するだろう乱雑さだ。
「これも立派な掃除だわ」
 部屋の中は片付けという言葉からは程遠い有様だったが、確かにだらけていたわけではないのだろう。担当区域の割り当てを告げられたときにはなかった吊り下げられた洗濯物をちらと見て、ヴァンは次の言葉を探す。自分の主張に正当性がないとは思わないが、相手を動かすとなると分が悪かった。
「夕飯食べて行くでしょう? 中華でいい?」
 諦めて掃除に戻ろうとするヴァンに、アッシュは銃を置いて尋ねた。一つ伸びをしてから立ち上がり、脱げかかっていたサンダルを履き直す。机の上にあったのだろう。ぴらりと振られた出前のチラシは先ほど道でもらったものだ。
「オレはいいけどアッシュはそれでいいのか?」
 店の当たり外れが少ない料理だが、量はひたすら多く出前となると見た目もかなり大ざっぱだ。具体例は挙げられないものの、アッシュがしゃれたものが食べたいと言うのならば付き合うつもりだった。
「嫌なら言わないわよ」
 アッシュはヴァンの反応こそ意外だというように言った。
 それぞれ注文したい品に印をつけていき、アッシュがとりまとめて店に連絡する。所変われば品変わるで、ヴァンが普段利用する店では見たことがない料理がいくつかあったが、挑戦するのはやめておいた。アッシュの説明を聞いてもどういう食べ物なのかイメージできなかったからだ。

 定住者が少ないせいもあって、日が落ちてからの街路は昼間に歩いた以上に雑多な印象を受けた。ヴァンは平気な顔をしているアッシュの隣を歩きながら、長く空き家なのだろう建物や黒々とした口を開ける路地に目をやった。見るからに子供だという外見でなくなってから侮った態度を取られることは少なくなったし、起こりうる面倒事に対応できる自信もあったが、知らない町を歩く居心地の悪さが完全に消えたわけではなかった。
「今日は本当に助かったよ。ありがとな」
「どういたしまして。受けた恩は次に会ったヒトに返す主義だけど、機会があるなら本人に返したいからアタシも助かったわ」
 恩など売っただろうか。考えてみるものの、思い当たる節はいくつもない。R.O.C.K.システムの適合者同士で、同じ相手に立ち向かったことがあるものの、そんなに関わりが深い相手ではないのだ。
「……まさかウロボロス脱出のことを言っているのか?」
「他にある? 世の中タダより高いものはないのよ。等価かって言われると分からないけど、気分的にね」
「考えたことなかった」
「だと思ったわ」
 崩れ落ちるウロボロスからアッシュを助け出すことは、ヴァンの持つ「全てを守るロックマンになる」という望みに適っていた。貸しを作ったという意識は毛筋ほどもなかった。紹介してくれたハンターたちはアッシュが時間をかけて築いた人脈なのだろうし、繋げてくれた縁はこれからも続けていけることを思えば、過剰なくらいの対価だった。
 ヴァンは来た道を振り返る。道幅はそこそこ広いし、街灯や開いている店も一応ある。
「この辺でいいよ。二区画向こうを東だろ」
「戻るのが面倒だから助かるけど、大丈夫?」
「平気さ。アッシュの方こそ気をつけてくれよ」
「何かあったら迷わず殴ることね。こんな場所に滞在してる時点でカタギじゃないから遠慮はいらないわ」
「キミはどうなんだ……」
 気遣ったつもりが逆に心配されてしまった。紹介されたハンターたちの面構えを思い出せば納得できないこともなかったが、釈然としない。
「アタシはハンターよ」
 それで全ての説明がつくとばかりにアッシュは笑った。

投稿日:2018年7月1日
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