経営企画部長 禪院甚壱

(直哉さんって犬にも君付けするんだな)
 駐輪場で自転車を引き出しながら、蘭太は直哉との会話を思い出した。
 直哉は同じ部署の二年上の先輩だ。予防線としての前置きが必要ないくらい明確に性格に難のある男で、蘭太が入社する前年まで存在したメンター制度が廃止されたのは、直哉が原因だという噂がある。
 その直哉が「ジンイチ君」と呼んだ犬は、蘭太が通り道にしている公園で見かけるチャウチャウだ。直哉と二人きりでいることに耐えかねた蘭太がやぶれかぶれに振った雑談は、黒いむく毛が緩衝材となり軟着陸を果たした。
(名前を知っているということは、直哉さんはあの人と話したことがあるんだろうか)
 まだ明かりの灯っている窓のある社屋を背に、蘭太は自転車を漕ぎ出す。
 朝の公園は蘭太のように通り過ぎるだけの者はもちろん、運動や犬の散歩を目的にした人も多い。蘭太がチャウチャウのことを覚えている理由は、犬種自体の珍しさに加えて、飼い主の男がそこだけ時代を違えたような着物姿だからだ。
 すれ違いざまに見る男はいかめしい顔を縁取るように黒々とした髭を生やしていて、おいそれと話しかけられる雰囲気ではない。蘭太は直哉が飼い主の男が公園のベンチで和気あいあいと話す光景を想像して、あまりの不自然さに顔を顰めた。
 体力のない人間をあげつらう直哉に運動の習慣があることは不思議ではないが、ジムに通うならまだしも公共の場を走るイメージはない。偶然知り合った人と歓談するとなるともっとだ。直哉が惜しげなく振りまく愛想に実が伴っていないことは社内の大体の人間が気づいているし、直哉もわざとだということを隠していない。
 赤信号に引っかかった蘭太は、公園がある方角を見た。
 帰りに公園を通ったことはない。
 蘭太にとって、公園を通る道は迂回であって近道ではない。引っ越し前と同じ時間に家を出ると会社に早く着きすぎてしまうため、到着時刻を調整するために取っているルートだ。労務担当に渋い顔をされるのは本意ではない。家を出る時間を遅らせれば済む話だが、時間を気にしながら待つことが苦手な蘭太には合わなかった。
 明日は休みで、早く帰らなければならない理由はない。
 好奇心に駆られた蘭太は、青に変わった信号から目を背けた。

 蘭太は何とも情けない気持ちになっていた。
 道に迷ってしまったのだ。朝の人通りや運動場の整備具合を踏まえれば意外なほどに街灯が少なかったとはいえ、往路を逆走すればいいだけの道で迷ったのは、不注意以外の何物でもない。仕事で来たのではないことが唯一の救いだ。
 蛾が踊るライトに照らされた園内マップは、一度も全景を確認したことがなかったために却って分かりづらい。
 現在地を示す色褪せた二重丸を見つけたのと、足音を聞いたのは同時だった。
 無意識に目を向けた先で、真っ先に目に入ったのはイルミネーションのような輝きだ。電灯が描くぼんやりとした光の輪の中に、「ジンイチ君」とその飼い主が入ってくる。
「あ」
 つい出てしまった声が聞こえたのか、通りがかりの一行が蘭太の方を見る。
 交錯する視線。知っているはずの、そう複雑ではない道に迷っているところを、一方的ながら知っている人に見られた気まずさ。蘭太は軽く会釈して園内マップに視線を戻したが、内心そこそこ動揺していた。
「――迷ったのか?」
 低い、けれどもよく通る声だった。
 蘭太がもう一度背後に目を向けると、先程目が合った時と変わらない位置に、一人と一匹が佇んでいた。他に人影はなく、男が蘭太に話しかけていることは明白だ。
「実は……」
 蘭太は恥を忍んで頷いた。
「丁度帰るところだ。案内しよう」
 言った男は蘭太の返事を待たず、犬の散歩を再開するような足取りで歩き始めた。もちろん犬も一緒だ。
 蘭太は慌てて自転車の向きを変え、輝くLEDの後を追った。

「ありがとうございます、助かりました」
 拍子抜けするほど簡単にたどり着いた公園の入り口で、蘭太は自転車のハンドルを握ったまま勢いよく頭を下げた。
「遠回りになったんじゃありませんか?」
「構わない。こいつは歩くのが好きだ」
 飼い主の隣でじっとしているジンイチ君は、光る首輪がなければ見落としてしまいそうなくらい夜に馴染んでいる。チャウチャウという犬種がそうなのか、それとも犬自身の性格なのか、飼い主と同じように物静かな犬で、蘭太にはいつもより増えた散歩量が歓迎されているかどうかまでは分からない。
 蘭太と一緒になって犬を見ていた男は、蘭太の方に視線を戻した。
「気を付けて帰りなさい。寄り道はほどほどにな」
「あはは、ありがとうございます」
 蘭太は自転車に乗る前にもう一度頭を下げ、少し躊躇ってから口を開く。
「おやすみなさい。帰り道お気を付けて」
「ああ」
 自転車にまたがり走り出す。空気は会社を出た時よりも冷えていたが、仕事と関わりのない人間と久しぶりに話した嬉しさが、蘭太の胸を温かくしていた。

 名前を知っていることは親しみに繋がる。話したことがあるとなるともっとだ。
 蘭太が知っているのは犬の名前だけで、会話と言えるほどの会話もしていなかったが、それでも他の名前を知らない犬と飼い主よりも、ジンイチ君とその飼い主に愛着を持っていた。
「おはようございます!」
 徐行とはいえ自転車、向こうは徒歩だ。蘭太がすれ違いざまに投げかける挨拶をジンイチ君の飼い主がどう受け止めているかは分からないが、とにかく蘭太は一人と一匹に挨拶をするようになった。
 新人時代、直哉に「いちいち言うてくれんでええよ」と言われてから直哉への挨拶は省略しているが、蘭太は挨拶を人と関わる上で大切なことだと考えている。近頃では蘭太が発声する前に、ジンイチ君一行が蘭太に気付いた素振りを見せる。それが何となく嬉しかった。
 一度止まって話しかけてみようか――と思うことはあるものの、実行には移せていない。迂回ルートを取ってもなお始業まで余裕がある蘭太と違い、男は犬の散歩の後に用事が控えているかもしれないし、そうでなくとも人間同士の立ち話はジンイチ君が退屈するかもしれない。
 男はたった一度話しただけの相手だ。それなのに嫌われたくないと思っていることを、蘭太は自分で意外に思っていた。

(知らない道みたいだ)
 時間のせいで人も車もほとんど通らない見通しの良い道路は、昼間に見るものとあまりにも違う。遠くで青に変わる信号機を眺めていた蘭太は、左手にある店の看板を見上げて、そもそもほとんど歩いたことがない道だということを思い出した。
 思ったより酔っている。おかしなことを考えたと話す相手もなく、周囲に誰もいないのを良いことに、蘭太は口元を緩ませる。
 三次会を終えて終電に飛び乗ったものの、最寄り駅に着くにはあと一歩足りなかった。バスも当然なく、自転車を会社に置いてきた今、家に帰るにはひたすら歩くしかない。ほろ酔いの体で浴びる夜風は気持ちよく、不満はなかった。
 曲がり角を一つ曲がって、また直進。家に向かってジグザグに歩く道すがらには新しかったり古かったり様々な民家が立ち並び、個人宅と見紛うような小さな店がぽつぽつとある。
 進行方向に沿いにある一軒から出てきた人影。見送りでも受けたのか、人影は出てきた方に向き直ってしばらくしてから、蘭太がいる方に向かって歩き出す。大柄な男だった。
 時間が止まったような景色の中、唯一動いているものを見るともなしに見ていた蘭太は、少し先の街灯が照らし出した相手の顔を認めて、目を丸くした。
 視線を感じたのか、蘭太の方を見た相手と視線がかち合う。
 蘭太はぺこりと頭を下げた。
 距離があるし、洋服を着ているが間違いない。ジンイチ君の飼い主だ。
「こんばんは」
 すれ違う直前に、町の静けさを気遣いながら挨拶する。男のプライベート――と言うのもおかしな話だが――に興味を覚えたからこそ、ぶしつけな詮索をしたくなかった。
 行き過ぎようとした蘭太を引き止めたのは男の方だ。
「この近くなのか?」
「いえ」
 蘭太は自分が住んでいる町の名前を答えた。この辺りの地理が分かるなら通じるはずで、蘭太の想定した通りに男は頷いた。
「仕事帰りか?」
 蘭太は首を振った。
「飲み会でした。明日自転車を取りに行かないといけません」
 男に続きを促すように見つめられて、蘭太は自分の事情を続けて明かす。
「会社の駐輪場なので月曜でもいいんですけど、日曜に行くところがあって」
「そうか」
 もう一度頷いた男は思案するように視線を外した。
 男が立ち去る気配はなく、会話を切り上げるタイミングを失った蘭太は、何やら考えているらしい男の顔を眺めた。ジンイチ君の飼い主をこんなにじっくり見るのは初めてだ。頼れる男というのはこういう顔なのだろうと、新入社員に同期と思われていたことを思い出す。
「……明日」
 盗み見のつもりはないがら、自らの視線の無遠慮さに気付いた蘭太は合わせられた瞳にどきりとした。
「出かける予定がある。よければ会社まで送ろう」
 予期せぬ提案だった。
 断るべきと頭は言うが、適切な文句が思い浮かばない。その間に男は懐から手帳を出し、手早く書き付けると、切り取ったページを蘭太に差し出した。
「気が向いたら連絡をくれ」
 思わず受け取ったメモを片手に、蘭太は去っていく男の背中を見送る。書かれているのは090から始まる携帯電話の番号だ。番号を黙読しようにも頭に入らないことに気付いた蘭太は、考えるのは明日にしようとメモをポケットにしまった。

『――はい』
「おはようございます、昨晩ご連絡先をいただいた禪院と申します。こちら――」
『禪院?』
「はい!」
 会話を途中で止められた蘭太はホッとした。
 生で聞くものとはいくらか違うが、電話の向こうにいる相手は間違いなくジンイチ君の飼い主だ。名前を知らない以上「ジンイチ君の飼い主の方の携帯でしょうか」と聞かざるを得ず、電話を掛ける前にシミュレーションしながら流石にどうかと思っていたのだ。最後まで言わずに済んだことは幸いだった。
『……いや、すまない。そう言えば名前を聞いていなかった。掛け直すから一旦切る』
 言うが早いか、電話は切断された。そして間髪入れずに着信音が鳴る。
「はい!」
『あぁ、俺だ』
「すみません、掛け直していただいてしまって」
『誘ったのは俺だ。家は公園から近いのか?』
「歩いて二十分というところですね」
『遠いな。別の場所にしよう』
「いえ、この辺目印が何もないんですよ。そちらまで向かいます。走ればすぐです」
 男の中では送ることは決定事項だったらしく、蘭太の迷いを置き去って、話はトントン拍子に進んでいく。蘭太は思い浮かんだ近隣の牛丼チェーンの看板を打ち消した。送ってもらう上に迎えに来てもらうのは図々しすぎる。
『走らなくていいが、そうだな、きみの家の側にしよう。前に別れた入り口だ』
「分かりました」
 蘭太は目覚まし時計を兼ねた置き時計を見る。体に染み付いた習慣とは恐ろしいもので、目が覚めたのは会社に間に合うギリギリの時間だった。
「ジンイチ君の散歩は大丈夫ですか?」
『うん?』
「ん?」
 蘭太は男が答えるのを待ったが、通話が切れたわけでもないのに会話が途切れている。
「もしもし?」
『あぁ、すまない。甚壱は俺の名前だ』
「えっ!」
 ぶわりと嫌な汗が出た。床に座っていた蘭太は背もたれにしていたベッドから背中を離し、膝を折って正座すると、両手でスマートフォンを支え持った。
「申し訳ありません、勘違いしておりました」
『いや、構わない。誰かに聞いたのか?』
「職場の先輩から……あの、チャウチャウが珍しくて」
 チャウチャウと、着物姿の男性。あの時直哉は男の名前を言ったのだ。二回りほど年上の男と犬、どちらに君付けする方が自然かというと、蘭太にとっては犬だった。まさか男の方だとは思わなかった。
『犬の名前はおこげだ。散歩はもう終わっている』
「そうですか……」
 通常の精神状態ならば犬の名前の評定もできたが、蘭太は今その余裕がない。今まで犬の名前だと、黒毛のチャウチャウに似合いの名前だと信じていた名前が飼い主本人の名前だったことに困惑していた。もちろん勘違いしていた恥ずかしさもまだ消えていない。
『きみの会社のことは会ってから話したいんだが、構わないか?』
「はい、それはもう。お時間のご希望などございますか?」
 男が笑ったのが電話越しに伝わってくる。
『今から出られるなら三十分後でどうだ』
「はい、出られます」
 蘭太は即答した。話がどう転んでもいいよう、身支度は全て済ませてある。幸い二日酔いもしていない。
『それなら決まりだ。俺は本当に気にしていないから、会うまでに忘れておいてくれ』
 通話が終了した後、スマートフォンの画面が暗くなるまで呆然としていた蘭太は、はっとして立ち上がった。
 感傷に浸っていても仕方がない。壁に掛けてあるバックパックを取り、中に社員証が入っていることを確かめてから肩に掛ける。
(直哉さんに聞いてみようか)
 ジンイチ氏の詳細は依然謎に包まれている。
 蘭太は共通の知人とも言える直哉の顔を思い浮かべたが、休日の朝から連絡する気にはなれず、玄関に散らばるスニーカーを引き寄せた。

投稿日:2024年2月2日
甚壱は甚壱で直哉に電話しようか考えています。
甚壱の役職を常務取締役と迷ったのですが、直哉が上がる時に上がる方が原作っぽい気がしてこうなりました。今は執行役員です。犬の名前は甚壱の飼い犬に付いていてもギリギリ大丈夫そうなかわいい名前にしました。後付けですが先代犬が与作や伊佐美など焼酎の銘柄由来ということでここはひとつ。