生まれも育ちも

 痛みを感じれば術式の行使をやめるだろうという考えが、甘かったとは思わない。耐えるべき場面の選択などという面倒なことではなく、生き物とはそういうもので、ましてや年端も行かぬ子供だ。まさか蘭太が「できる限り続けろ」という指示を頑なに守り、失神するまで術式を使い続けるとは思わなかった。
 ――などと言い訳したい気持ちはそれなりにあったが、怪我を負ったのはまだ灯にも属さない幼い子供だ。呪霊の前に引き出したあげく引き時を見誤った甚壱に責任がある。
 だからこそ罵られる可能性も織り込んで訪問したというのに、不在の父親に代わって応対した蘭太の母親は、息子に怪我を負わせた甚壱を責めるようなことを一言も口にしなかった。

 医者は大事ないと言っている。
 夫からは二日は術式を使わせないように言われている。
 術式の使用が安定しない子供のこと、念のため目を塞いだが、見えない状態で歩き回ると危ないから寝かせている。

 忍従か、諦念か。甚壱の問いに答える形で事実のみを報告する女が、何を考えているのか分からない。言葉の端を探ってみても怒りは感じられず、甚壱を出迎えた時の様子もまるで息子の友人を迎えたかのようにあっけらかんとしていた。
 案内された部屋の前。葭戸よしどの向こうからは、ラジオのような途切れ途切れの人声が聞こえている。それ以外はしんとして、人が、子供がいるという感じはしなかった。
「眠っているのなら起こさなくていい」
 甚壱の目には振り返った女が「どうして」と小首を傾げたように見えたが、単に甚壱を見上げただけかもしれない。丸い瞳にツンとした鼻。全体の印象としては女の顔だったが、蘭太の母親の面差しは蘭太によく似ている。蘭太は蘭太で男と分かる顔をしているから不思議だった。
「詫びに来たんだ。寝ているのなら出直す」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫、起きていますよ。退屈だとぐずっておりましたから。――蘭太、甚壱さんがお見舞いですって」
 にこりと笑った女が葭戸の向こうに呼び掛けると、一本調子な蝉の声を打ち消す「甚壱さん!?」というすっとんきょうな叫び声が聞こえた。
 怪我人に飛び出して来られてはたまらないと甚壱が思った矢先、女は「じっとしてなさい!」と厳しい口調で言いつけた。甚壱は己が叱られたような心持ちになり目を見張ったが、女が振り返る前に表情を取り繕う。
「お見苦しいところをお見せしました。どうぞ中へ。私はここで失礼いたします」
 葭戸を引いて開けた女は甚壱に微笑みを向けると、何事もなかったように会釈した。
 居心地悪く感じるのは自責の念を抱いている他に、年の近い「母親」と話し慣れないせいもあるかもしれない。
 甚壱は女の作り笑いに気圧されながら、礼だが何だか自分でも分からない辞儀をして、追い立てられるように部屋の中に入った。

 蚊取り線香の匂いがする部屋は、吊られた青蚊帳のおかげで全体が青く見える。ラジオと思ったのはカセットテープだったらしく、甚壱が入ったタイミングでカチリと音を立てて止まり、テープが回る音が聞こえるだけになった。
 母親に言われたからか、蘭太は布団の端につくねんと座っていた。鬼ごっこの目隠しのようにぐるりと巻かれた布は視界を遮るためだけにあるらしく、呪力が籠められている様子はない。額と鼻に貼られたガーゼは倒れた時にできた傷のためだろう。
 甚壱はひとまず畳に腰を下ろしてから、さりげなく左右を見た。子供の部屋にしてはこざっぱりとしていて、蚊帳も大きい。蘭太はまだ家族と寝るような年なのだと改めて思う。
「……すまなかった、蘭太。俺の不注意だ」
 切り出し方が分からず、甚壱は手短すぎるほど簡潔に用件を伝えた。蘭太は声を頼りに甚壱を探し出したらしいが、目が見えないことが不安らしく、甚壱の方を向いてからもどこか落ち着かない様子だ。
「甚壱さんのせいじゃありません」
「蘭太」
 子供に気を遣われる謂れはない。
 甚壱がそういう意味合いを含めて名前を呼ぶと、蘭太は首を振った。
「怖かったんです。おれの術式は見てなきゃいけないのに、ちゃんと見れなくて……ごめんなさい」

 術式がある男児の場合、育成方針は基本的に親に委ねられている。甚壱が他者の領分を犯してまで蘭太の性質を測ろうとしたのは、有用だった場合に手元に置くには頭角を現してからでは遅いと判断したからだ。
 二級よりも上の呪霊と交戦するには実戦の場に赴く他なく、流石に気が引けたために禪院家で飼っている一体を引き出した。
 特段名の付いていない、どこで捕らえたかという記録を探し見る気にもならない平凡な呪霊だった。大きさは二メートル程度で、見た目は甲虫のようながらヒトに似た四肢で四足歩行をし、背中には虫の卵塊に似たぶつぶつとしたつぶての山を背負っている。甚壱なら術式を使うまでもなく、拳の一振りで祓える簡単な相手だった。
 甚壱を警戒しているために呪霊は大人しく、呪霊の意識の外にある蘭太が術式を発動し、呪霊をその場に縫い留めるのは容易かった。拘束されてやっと蘭太の存在に気づいた呪霊が力ずくで蘭太の方に転換しようとした時、甚壱は枝が折れるような音を聞いた。
 術式を破られ怯んだ様子の蘭太。拘束から解き放たれ、毛を逆立てるようにざわめく呪霊の背。攻撃の予備動作と察した甚壱が蘭太の名を呼んで活を入れたところで、引きかけた足を踏みとどまり、蘭太は術式を発動し直した。
 不発に終わった背中の礫。歯噛みもできずに固まる呪霊の顔面。まずは及第点。結果に満足した甚壱は、蘭太に払うべき注意を怠った。二度目に拘束が緩んだタイミングで呪霊を祓い、ねぎらいの言葉をかけようと見た先で、蘭太は糸が切れたように倒れていた。
 甚壱は蘭太を救護した後、当主に報告を入れた。
 お前にも焦ることがあるんだなと、つむじで聞いた直毘人の声は、明らかにおもしろがっていた。

「……呪霊は祓えた。それでいい」
 昆虫じみた眼のせいで、視線の分かりにくい呪霊だった。先に対峙していた甚壱は、呪霊の警戒こそ分かれど睨みつけられているというほどの圧は感じていなかった。
 それでも怖かったと言われれば、そうか、と思う。
 呪霊を恐れていた頃など遠い昔だったが、負の感情の集大成である呪霊が子供の目にどれだけ恐ろしげに見えるか、想像するのは難しいことではなかった。
「蘭太、お前はよくやった。期待した以上の成果だった」
 拘束が解けた原因が蘭太が視線をそらしたことにあるのなら、あの程度の呪霊ならば抑え続けられるということだ。思い至った甚壱が改めて言うと、蘭太の纏う空気が緩んだ。
 あれから蘭太に初めて会う。蘭太は本気で自分の過失だと思い、甚壱から叱責されると思っていたのだと気付いて、甚壱は呆れ半分に息を吐いた。言い訳を考えていた身で言えることではないが、蘭太はまだその段階にない。
「何かほしいものはあるか?」
 子供をあやす言葉など持ち合わせていない。見舞いと詫び、それに礼。甚壱は即物的な埋め合わせを蘭太に打診した。菓子折りは持ってきていたが、子供が好むような内容ではなかった。
「ええと、お気持ちだけで結構です」
 妙に大人びた回答は親から言い含められているのか。しかし甚壱とて引き下がるわけにはいかなかった。
「洋菓子と和菓子、どちらが好きだ?」
「どちらも好きです」
 真偽を確かめるために蘭太の顔をじっと見るが、巻かれた布と蚊帳のせいで表情の半分も見えず判断材料にならない。甚壱の沈黙は困惑ではなかったが、そう取ったのか、蘭太はおずおずと口を開いた。
「……洋菓子は、あまり食べたことないです」
「そうか。では次に来る時、何か持ってきてやろう」
「え?」
「ケーキとかクッキーとか……そういうのでいいんだろう? あとなんだ、プリンとかか?」
 言い慣れない単語を口にした甚壱は顔をしかめた。言うだけで口の中が甘くなったような気がする。
「そんなに悪いんですか……?」
 問いかける蘭太の声は震えていた。
 次にというのは大げさだったかもしれない。口をつぐんだ甚壱は目を泳がせてから、「いや」と低い声で言った。
「親の言うことをよく聞いて大人しくしていろ。治ったら俺から蘭太の親に話して、何でも好きなものを買ってやる」

   ◇

「やりましたよ! 甚壱さん!」
 喜色満面。蘭太は甚壱を視認するなり一直線に駆け寄ってきた。術師が感情の抑制に長けていることはさておいても、こうも感情表現が素直な男は珍しい。
 甚壱は撫でたときの感触を未だに覚えている蘭太の黒髪を目の端に追いやり、消失反応が薄れゆく中心地を見た。
 呪霊は跡形もなく消え去っているし、付近には気にするべき残穢も呪霊の気配もない。あえて見たのは監督者としてのポーズで、蘭太が先に現場の精査を終えていたことは知っていた。
「よくやった」
 甚壱が深く頷くと、蘭太は一層顔を輝かせた。眩しさを感じた甚壱は、不自然でないよう帰路に向けて視線を逃がす。
「帰るか。話は車の中だ」
「はい!」
 甚壱が足を向けた後ろを、蘭太がついてくる。甚壱は途中で思い出して蘭太を先に行かせた。引率してきたのではない。帰る道は蘭太に選ばせるべきだった。
 上背のない蘭太を前に立たせても視界に支障はなく、木立を透かしてよく見れば、現着する直前に蘭太から目印と聞いた祠の色褪せた赤い屋根が見えていた。
 祠を越えてしばらく歩けば林道に出る。集落に近いからこそ発生した呪霊だった。並んで歩くに十分な道幅になったところで、甚壱は先をゆく蘭太の隣に並んだ。
「次は俺の方についてくるか?」
 蘭太の年齢を考えれば堅実すぎる印象すらある、安定感のある段取りだった。もし自分が灯で、炳の誰かに監督を頼んだなら身の丈以上の評価を求めずにはいられなかっただろうに、祓除に臨む蘭太の横顔にあるのは好ましい程度の緊張感だけで、終始落ち着いているように見えた。
 もう少し見てみたい。
 今度は自分のための興味ではなく、禪院家の利のためだった。
「いいんですか?」
「ああ」
「ありがとうございます、勉強させていただきます!」
 勢い込んで言った蘭太の歩調が乱れる。
 よく乾いた道で、まさかこけそうになった訳ではあるまい。そう思いながら蘭太に目をやると、照れ笑いが返ってきた。
 そのまさかだった。
 甚壱は見なかったことにして前を向いた。
「もしもの時の後詰めは任せる」
「無理を言わないでくださいよ」
 軽口は無事に通じたらしく、蘭太は笑いながら言った。甚壱の言葉を真に受けてすぎていた子供の頃が少し懐かしいが、やりやすくなったとも言えるだろう。
 蘭太の歩幅は甚壱よりも狭く、危なげない足取りながらも少し急ぎ足だ。重みに欠けるのは体重が軽いせいではないだろう。呪霊と対峙したときの重心の移動はあんなにも確かだというのに、若さか、性質か、浮き立っているようにすら見える。
「……食ってから帰るか。何がいい?」
「肉がいいです!」
 蘭太は間髪入れずに答えた。
 禪院家の食卓に肉が上ることはない。少なくとも形式上はそうなっている。
 甚壱は再び蘭太を見る。見上げてくる蘭太の瞳は今日一番の輝きを見せていて、甚壱が肉食を咎めることはないと、願いを聞いてもらえると信じて疑わない眼差しは、希望の光に満ち満ちていた。
「肉だな」
 いつもの仏頂面で承諾した甚壱は、出掛けから浴び続けた蘭太の屈託のなさに、滞っていた血が巡り始めたように胸がむずつくのを感じた。

投稿日:2023年8月12日
単行本発売前は蘭太の名字が禪院と明らかにされておらず、あまりの献身ぶりに養子説を考えたことがありました。禪院の子だったわけですが。一体どういう育ち方をしたらお家に命を賭けられる、躯倶留隊よりも先に道場掃除をする人間に育つんだ。