酒池に笹舟

 式台から草履を履いた甚壱は、呪いを受けたわけでもないのに重い背中を解すべく、胸を一度反らせた。さりげなくやったつもりだったが、日頃猫背気味になっているのがたたって、丁度主屋を訪ねてきた蘭太の目に留まってしまったらしい。掛けられた「お疲れ様です」という言葉には、定型句以上に甚壱を気遣う空気が感じられた。
「今日はこれでお帰りですか?」
「ああ」
 蘭太は今日の甚壱が、呪術界上層部の接待をしていたことを知っている。接待の場に、禪院家当主の名代として直哉を伴っていたことも。
「いいお肉いいなって思ってたんですが、大変そうですね」
「代わってやるから次は先に言え」
「勘弁してください。務まりませんよ」
 接待役と守り役、務まらないというのは一体どちらを指してのことか。向けられた甚壱の目から逃れるように、蘭太は「そういえば」と話題を変える。
「先日は予定のご調整、ありがとうございました。直接のお礼が遅れて申し訳ありません」
「礼を言われるほどのことじゃない。俺の方こそ、土産の礼がまだだったな」
「とんでもない。受け取っていただければそれで」
 蘭太は甚壱が出るのを見送ってから上がるつもりなのだろう。三和土の脇に避けたまま、動く気配を見せない。
「お帰りのところを引き止めてすみません。お疲れ様でした」
 蘭太が頭を下げる。その前を、甚壱は通り過ぎた。

 浮かない顔をしていた蘭太に、困りごとかと訊いたのが始めだった。
 当時の蘭太は炳になったばかりで、割り振られる任務にしろ、新たに生まれた人間関係にしろ、頭を悩ます種はいくらでもある時期だった。何でもないという言葉に反して、蘭太の表情からは何らかの事情を抱えていることが透けていたが、甚壱はしつこく尋ねるものではないだろうと引き下がり、何かあれば相談に乗るというありきたりな言葉を掛けるに留めた。
 甚壱がその時の蘭太の悩みを知ったのは、それから一年が経ってからだ。
「炳になってから、灯の時に仲の良かった友人と疎遠になってしまったんです」
 持ちかけられる密談は数あれど、若者らしさに触れる機会など久しくなかった甚壱は、明かされた話に胸を打たれた。表面上は常と変わらぬ仏頂面の甚壱が、内心では慣れない感情の動きにうろたえていることに気づかないで、蘭太は「子供みたいな悩みで言うに言えなくて、でも甚壱さんが気にかけてくださったの、すごく嬉しかったです」と照れくさそうな笑顔を見せた。
「この間、久しぶりに一緒に遊びました。楽しかったです」
 甚壱の反応の薄さに居たたまれなくなったのか、甚壱を見上げていた蘭太は、手にしていた用箋挟を抱くように持ち直した。定例会の後の立ち話だ。互いに長居する理由はない。一礼して場を離れる蘭太に「よかったな」と声を掛けると、蘭太は驚いた顔を見せてから、「はい!」と歯切れのいい返事をした。

 月日の流れは、人間関係のように停滞することがない。滞っていた関係が流れ出して以後、蘭太の交友関係がどうなったかを甚壱は知らない。続いているにしろ、分かたれたにしろ、甚壱には関係のないことだった。蘭太はもう、炳の中に自分の身の置き所を見つけている。
 蘭太の顔を直接見たのは久しぶりだ、と帰路についた甚壱は思った。些細な用事一つに自ら足を運んでいた蘭太が、人を使うことを覚えたのは好ましい進歩だった。

   ◇

 滔々と流れる水の音だけでなく、水の流れそのものによって、隣席とは隔たれている。蘭太は川の上に設えられた座敷を珍しそうにしながらも、それを目当てに訪れる者も多い青もみじについては、張り出した枝を形ばかりに見上げただけだ。
 府外から来る相手が、京都といえばと川床のことを口にしたのは、雑談に見せかけた要求だった。妻が行ってみたがっているということは、前に伴っていた女は妻ではなかったのだろう。それか新しくなったか。
 店の下見に蘭太を誘ったのは、下見の必要性を考えている時にたまたま顔を合わせたからだ。二つ返事の承諾を聞いても、己が会食を億劫だと思っているように、蘭太にとっても自分との食事が面倒なのではないかと危惧していた甚壱は、指定した門の前で待っていた蘭太の表情の明るさに安堵した。今日の会で肩肘を張る必要は全くない。たまに会う親戚のおじさんとの食事――実際その通りだったが、禪院家の人間関係は血縁が基本であるために却って複雑だった――くらいに思っていてくれれば御の字だった。
 初夏とは名ばかりの、盛夏顔負けの強い日差しを投げかけていた太陽が、ようやく山陰に隠れようとしている。弾んだ声に誘われて見た川の中は、一足先に薄闇に包まれつつあった。
「あっ、甚壱さん、カニがいますよ」
「どこだ?」
「二股に分かれて生えた草の根本から、七時の方向です」
 視線に気づいたわけではあるまいが、水の中を横歩きしていたサワガニは、岩の隙間に体を押し付けるようにして潜り込んだ。茶褐色の甲羅は暗がりによく馴染む。瞬きをする間に、サワガニの姿は見えなくなった。
「カニは好きか?」
「うーん、普通です。甚壱さんはお好きですか?」
「好きも嫌いもないな。……食べるのはどうだ?」
「そっちでしたか、すみません。カニ好きです」
 蘭太は甚壱の顔をきらきらとした目で見る。口には出さなかったが、何を考えているのかよく分かる。元からそのつもりで聞いたことだった。
「誘うやつを決めておけ」
「やった。少ないほうがいいですよね」
「何人でも構わん」
「どうしようかな。この間バーベキューしたんですけど、繁忙期だから慌ただしくなっちゃって」
「カニの時期には落ち着いているだろう」
 家で開かれる宴会で酌を受けているところを見ているから、飲めるのかとは聞かなかった。よく知らないので同じものにしてもいいですかと言われて、頼んだ冷酒にはグラスを二つ、付けさせた。
 地名と酒蔵を挙げ、京都で造られているのだと説明された食前酒の梅酒を飲み干した蘭太が、わずかに緊張した面持ちになる。
「思ったより濃かったので驚きました」
 小さな切子のグラスを置いて、蘭太は笑った。

 あの時に、蘭太が酒を飲み慣れないことに気づくべきだった。
 酒気が回ってすこぶる温い、まるで子供のような熱を持った蘭太の手に手を握られながら、甚壱は回顧した。留め碗が出る頃に様子のおかしさに気づいたのでは、酒量の調整は間に合わない。迎えがてらに買ってこさせた水を飲ませた程度では、蘭太の酔いは醒ませなかった。
 手を握り合っているのは、蘭太が後生大事に持っているペットボトルを取り上げようとした甚壱の手を、握手を求められたと判断した蘭太が握り返したからだ。結露の水滴で手が濡れる不快感も、習慣にないのだから握手のわけがないだろうという指摘も、蘭太の邪気のない顔を見ると表に出せなかった。
「甚壱さん全然変わらないですね。飲み足りなくないですか?」
「いいや。蘭太はまだ飲みたいか?」
「甚壱さんが行かれるなら行きます。どこでも」
 どこへ向かう気かと聞きたくなる、真剣すぎる顔で甚壱を見つめていた蘭太は、急にけらけらと笑い出すと手を離した。
「手すごい濡れてますね。ごめんなさい」
 蘭太は手拭いを取り出すと、甚壱の手を包み込むようにして拭き始める。犬の子でも拭いているような柔らかい拭き方だった。
「今度バーベキューするんですけど、甚壱さんも来ますか?」
「この間したんじゃなかったか」
「やだな甚壱さん、楽しいことは何回してもいいんですよ。甚壱さんともまた食事行きたいです」
「……次は肉にするか」
「やったあ! 俺、肉好きです!」
 素面の蘭太にはない取り散らかった発言は、自分に気を許しているからと都合よく解釈したい気持ちはあったが、残念ながら完全に酔っ払いの戯言だ。どこまで本心か分からない。普段の宴会でこうならないことを鑑みると、場を設けた者としても年長者としても、監督不行き届きを反省する他ない。
 蘭太が手拭いをしまった拍子に、膝の上にあったペットボトルがぼとりと床に落ちる。ペットボトルを拾うために身を屈めた蘭太は、シートベルトが引っかかったように動きを止めた。
「……蘭太?」
 しばらく待てど、返ってきたのは沈黙だけだった。
「蘭太」
 念のためにもう一度。もしかしてという思いから、声を潜めて呼ぶ。
 蘭太が眠っていると確信した甚壱は溜め息をついた。腕を伸ばして体を起こさせ、丁度良い具合に転がったペットボトルを拾い上げてホルダーに収める。
 運転席に向かって声を掛けて確かめた道程は、体感時間ほど進んでいなかったが、蘭太を起こさないことを優先するよう伝える。
 この先蘭太が寝ようが起きようが、家に着いたら抱えて行くことに決めて、甚壱は寝間の支度をさせるべく携帯電話を手に取った。

   ◇

 立場上、人から頭を下げられる機会はそれなりにあるが、これほど見事なものはなかなかお目にかかれない。襲名披露もかくやという折り目正しさで下げられた蘭太の頭を眺めながら、甚壱は昨晩よりも髭の伸びた顎に手を添えた。
 酒は残らなかったのか、それとも緊張のために意識の外にあるのか、蘭太に気怠そうな様子は見られない。途中目覚めることなく朝まで寝ていられたのは、図太さではなく若さだろう。少し羨ましかった。
「顔を上げろ」
 呼吸できているか心配になるほど身を固くしている蘭太は、甚壱が二度目を言う前に、ぎこちない動きで顔を上げた。
「もういい。俺はもう忘れた」
「は……」
「覚えていないんだ。それ以上謝られても、何のことだか分からん」
 蘭太は何事か言うつもりで開けた口を閉じ、噛みしめるような顔で膝の上で拳を握った。もう一度、今度は礼として頭を下げる。
 甚壱は昨日脱がせた蘭太の服が、衣桁に掛けられていることを確認した。寝間着で外を歩かせることはできないが、自分の服ではサイズが合わない。着替えを取りに行かせた使いはまだ戻らず、蘭太は立ち去りたそうにしているから、この分だと無駄になるだろう。
「飯は旨かったか?」
「あ、はい!」
「ならいい。俺もいい息抜きになった。……また誘いたいが、構わんか?」
「……甚壱さんがよろしければ、ぜひご一緒させてください」
 蘭太は何も言わなかったが、顔には「今度は飲みすぎないようにします」と書かれている。甚壱の読みに気づいたか、蘭太は表情を引き締めた。真剣にしすぎて怒っているようにも見える顔から、甚壱は閉ざした障子に目を移した。
 開けろという意味で見たのではないのに、蘭太が意図を探るように見ているのが肌で感じられる。分からないのはお互い様か。しかし立場が違う分、蘭太の方が荷が重い。
 甚壱は視線を戻した。それ以上正しようのない姿勢を保っていた蘭太が、指示を待つように甚壱を見る。大真面目な顔をしながら寝間着姿だということにおかしさがあるが、それは着替えさせた甚壱の責任であって、蘭太のせいではなかった。
 肉が好きだと言ったのは本当だろう。でなければ、ああも頻回のバーベキューを行うはずがない。甚壱は自分に課した制約を回避すべく、記憶を辿った。
「個人的にしか使わない行きつけが何軒かあるが、近頃お偉方の顔ばかり見ているおかげで行く機会がなくてな。肉は好きか?」
「うっ……好きです」
「決まりだな」
 蘭太が飲みすぎないようにしたいのなら、飲ませすぎないようにしなければならない。打ち解けたように見える様子も悪くなかっただけに、残念ではあった。蘇る記憶に苛まれているらしい蘭太を眺めながら、甚壱は頭の中で予定を繰った。

投稿日:2022年2月9日