三百十六日
2
訪問客のうち、甚壱と親しいごく一部の人間のみ甚壱の居室を兼ねた居間へと通すが、大抵の場合は客間で面会を済ませる。
湯呑みを片付けるために客間に入った沙代は、部屋の中央に座した甚壱を見て目を丸くした。
甚壱自身が客の見送りに出た時は当然のこと、今日のように沙代が見送りを言い付かった時でも、甚壱が客間に残っていたことは一度もない。せめて庭の方を向いていたのなら庭を見ていると考えることもできたが、沙代が来るのを待ち構えるように座っているのだから、驚きは少なくなかった。
「……入ってもよろしゅうございますか?」
湯呑みを下げないことには部屋が片付かない。予想外のことに驚きつつも、沙代はひとまず断りを入れた。
甚壱の首肯を受けて部屋に入り、提げてきた盆に茶托と湯呑みを載せる。客の分は半ばまで残っていたが、甚壱の分は飲み干されていた。
「お茶かコーヒーをお持ちいたしましょうか?」
「いらん」
「かしこまりました」
甚壱の家なのだからどこにいようと甚壱の勝手なのだが、普段と異なる行動を取られると、使われる身としては汲むべき事柄があるのかと考えてしまう。戸棚にコーヒーミルを見つけて豆を仕入れてみたが、今日まで出番は一度もなく、甚壱がコーヒーを飲むのかどうかすら不確定なままだ。
下がろうとする沙代を、甚壱が目で引き止める。沙代は上げかけた膝を再びついた。
「さっきの客から何か聞いたか?」
「いいえ、何も伺っておりません」
本当かと念を押す瞳に、沙代は「何も」と緩やかに首を振る。
禪院家から来る客は皆、姓を抜いて名前のみを名乗る。訪客は見覚えのない相手だったが、名乗りを聞けば禪院家の人間であることは自然と知れた。好奇を含んだ視線こそ受けたものの、言葉は交わしていない。
甚壱はしばらく沙代を見つめていたが、何も言わずに床の間に目をやった。
黒釉の器に生けた椿は今朝届けられたもので、庭に咲くものより小ぶりで愛らしい。
「……夫の墓参りはしたいか?」
甚壱が在室していた以上の驚きだった。甚壱の視線を追っていた沙代は、小さく息を呑んだ。
禪院家の墓は禪院家の敷地の中にある。私有地であるために家に関わりのない人間は入れず、夫との姻族関係を解消した沙代は、姑から言われていなくともおいそれと墓に参ることはできない。具体的な知識を持たなかったが、呪術師の肉体には死後も利用価値があるらしく、姓に禪院をいただいていた時でも入れない区域があった。
「俺のことは気にしなくていい。思ったまま答えろ」
甚壱は床の間を見たまま言った。
甚壱の家の家政婦となったことは、婚家との縁が切れるきっかけでもあった。気にしなくていいと言うのはそのことだろう。
家事の他にできることがない自分が、できることをしてたつきを立てられる。甚壱に感謝しこそすれ、不満を覚えるはずもない。沙代は胸中を告げる前に言い訳をする必要がないことを、ありがたく思った。
「……叶うのでしたら、しとうございます」
甚壱の表情は変わらなかったが、心なしか空気が重くなった。
雇い主の意向に添わない答えだったと気づいても、今さら遅い。覆水盆に返らず。出した言葉を戻すことはできないのだ。
「お前を手伝いに出すように言われた」
感じる空気の重さが気のせいかのように、甚壱の声に変化はなかった。
「断るつもりだった。お前の雇用は俺個人の契約であって禪院家のものではない。家の用に駆り出されるいわれはない。……だが、門を潜る理由にはなる」
季節一巡を三度もすれば、禪院家のしきたりは身に沁みて分かる。古く、また、特異な家であるためか、沙代が知る年中行事とは扱いの重さが異なるもの、知らないものがいくつもあった。その準備のどれもが手仕事に依るものが多く、人手はあって困るものではない。秘したることに踏み込まず、振る舞い方を教える必要がないのならより都合がいいだろう。
「行きたいか」
甚壱が発したのは問いではなく、独り言のような声音だった。
世間知らずは自分で認めるところだが、一度承諾すれば次を断れないことは想像がつく。禪院家の用向きと、甚壱に任された家事。自身の器量を考えれば、雇い主である甚壱が懸念するのはもっともだった。それに、召し出された数だけ亡き人の弔いができると考えるほどの楽天家ではない。
「……考えておく」
沙代が撤回を試みるより先に、甚壱は立ち上がった。
部屋を去る足取りは変わらず静かだった。
◇
予期せぬ直哉の来訪に続いて、泊まりになると言っていた甚壱の早々の帰宅。沙代は驚きながらも風呂の支度ができていないことを詫びた。
「構わん。またすぐに出る」
甚壱がシャワーを浴びている間に着替えの準備を整えた沙代は、風呂場から台所に取って返した。
時刻は二時半。甚壱が昼食を取れたか定かでなく、念のために鍋を火に掛ける。
桜の開花を境に温かな日が続いている。暑がりの甚壱を思えば冷たいものを出したいが、これから先は忙しさが増すばかりで休養できる暇がない。日陰に入れば寒い今の時期に、体を冷やすのはよくないだろう。
豆腐のあんかけと、ブロッコリーの梅和え。作ると決めた献立の手順を追うかたわら、作り置きの一寸豆の甘煮を小皿に載せて膳に置く。時間がある場合は、甚壱は食事を残すということをしなかった。味付けの好みは今ひとつ把握できていない。
「直哉が来ただろう」
あんを煮立てていた沙代は、突然降ってきた声に思わず悲鳴を上げた。
いつの間にか隣に立っていた甚壱は、沙代の反応を気にした様子もなく、じっと沙代の顔を見ている。沙代が知る限り、甚壱が台所に足を踏み入れるのは初めてのことだ。
沙代はコンロの火を止めた。
「申し訳ありません。ご報告が遅れました」
「いい。どうせくだらない用だ」
直哉が来たのは昼前だった。運転手や使いの誰かではなく直哉自身が呼び鈴を鳴らしたことが意外だったが、本人の口から従兄弟という間柄を言われると納得はできる。
――顔見に来ただけやねん。どうせ会うから言わんでええよ。甚壱君も忙しいにしてるやろ。
直哉はそう言ってすぐに引き取ったが、行き違いになってしまったのだろうか。立ち入らない分別と留守居の役目。行き先を明かさない甚壱がどこに向かうのかを沙代は知らず、先に断られてしまえば言伝を預かることもできない。
「ご用向きは伺っておりません」
「そうか。邪魔をしたな」
「滅相もない。……お召し上がりになる時間はございますか?」
沙代は甚壱の目が手元に移ったのを見て尋ねた。盛り付けはまだ済んでいないが、甚壱の許しが出ればすぐに出せる。
「いいや。もう出る」
「承知いたしました」
火の元を確認し、見送りのために玄関に向かう。越してきた当初からかまどはなく、形だけ残された火袋から注ぐ日差しはうららかだったが、板張りの廊下はひやりとしている。
行き先を知らないのにもいいことはある。
武運でなく、甚壱の無事だけを祈れるのだ。
夫が帰らぬ人となり、自分の祈りに意味がないと知ってもなお、知る人の無事を願わずにはいられない。家に残る身でできることは限られていた。
「いってらっしゃいませ。どうかお気をつけて」
床に手をつき頭を下げる。
甚壱の足元の違いで気づきそうになる。人と会うのに草鞋は履かない。術師の「もしも」は万に一つより多いのだと、禪院家に暮らした日々で知っていた。
「沙代」
去らない気配を不思議に感じた時、甚壱に名前を呼ばれた。
「留守を頼む」
「……はい」
出掛けに言葉を掛けられるのは珍しい。
沙代は一層深く頭を下げた。
◇
急な呼び出しだった。着の身着のまま迎えの車に乗せられて、向かった先は禪院家。運転手は呼び鈴を鳴らすことなく、待っていたように脇戸から現れた男に沙代を預けた。
通用門まで回って中に入り、庭を横切り木立を抜けて、梯子段から廊下に上がる。若い男らしい速い歩みに、後ろに続く沙代はほとんど駆けるようになっている。夕飯の支度に忙しい頃にしても、知った顔どころか人自体に会わない。手土産一つ持たずに来た身としてはありがたいが、忍び込んでいるような後ろめたさがあった。
「……あのう」
「はい! あ、速いですか?」
男は足を緩めた。はいともいいえとも言い兼ねて、沙代はとりあえず礼を述べた。男の顔に見覚えはあるが、名前をすぐに思い出せない。息を継いで嗅いだのは香の匂い。禪院家に来たのだと改めて思う。
「甚壱さまは、お怪我でもなさったのでしょうか?」
「それなら呼ぶのは医者ですよ」
「おっしゃる通りでございます。失礼をいたしました」
愚かなことを聞いた。怪我か、もっと悪いことでも、たかが家政婦が呼ばれるはずがない。もっともな返答を得て恥ずかしくなる。
「用件は聞かされてないんです。連れて来いと言われただけで。――あ、もう着きますよ」
男に倣って足を止める。坪庭を抱いて続く廊下のさらに奥には渡り廊下が見えた。風が吹き、水気を含んだ草の匂いがする。光の美しくなるこの時期に、呪霊は増えるのだという。発生する仕組みを聞かされていても不思議だった。
「甚壱さん、お越しですよ」
立ったまま男が呼びかけると、ややしてから内側から障子が開いた。
男は一歩脇に避け、沙代に前に出るよう促した。
額が鴨居に隠れる長身。向こうが見えない広い胸幅。じろりと見下ろされるのに慣れたはずなのに、いつもより威圧感が増したように思える。
「……ご苦労だったな、蘭太」
「いいえ。お送りも必要ですか?」
「帰りは俺が送る」
「分かりました。では、失礼します」
蘭太と呼ばれた男は甚壱に、次いで沙代に会釈をした。元来た道を戻るのではなく、部屋を通り過ぎて去っていく。急ぎの用があるのか、見えなくなるのは早かった。
「入れ。そのままでいい」
立礼をして部屋に入る。障子を閉めて二人きりになると、不思議と威圧感が和らいだ。
促されるままに腰を下ろす。甚壱と共にいて落ち着けたことはなかったが、もはや帰れぬ場所となった禪院家の中で、甚壱のそばならば存在を許されるように思えた。
座敷の奥、開け放たれた障子の向こうに見える青々とした植栽が、艶やかに磨かれた縁に照り映えている。三年間住んだ場所とはいえ、この部屋を含め、案内されて通ったのは知らない場所ばかりだった。忙しいと分かっている時期に甚壱と過ごしていることと合わせて、現実味がなかった。
「人目を避けたい。墓参りは日没後だ。それまで昼寝でもしていろ」
「……!」
呆然としていた沙代ははっと甚壱を見た。
行事の手伝いに呼ばれることもなく、日だけが過ぎていた。なくなった話だと思っていたのだ。墓参りをしたければ離婚しなければいいだけのことで、虫のいい、浅ましい考えだと分かっているから、聞きたくとも聞けなかった。甚壱には骨を折る理由がない。
「忘れたと思ったか?」
「滅相もないことにございます!」
皮肉めいた言い方をした甚壱に、沙代は慌てて首を振り、手をついた。
「ありがとうございます。何とお礼を申し上げたらよいのやら……」
甚壱の溜め息が聞こえた。いちいち大層だと、言われたことがある。
「礼か。……考えておく」
- 投稿日:2023年4月22日
- 甚壱はまだ釣書書いてません。