甘やかす
「どうだった?」
報告を終えた蘭太が一礼したのを区切りとして、甚壱は尋ねた。
今日の朝、身支度をする蘭太が洗面所から戻ってきた時、手にしていたのは見覚えのある香水瓶だった。気に入って買ったものではあるが、使う機会は多くない。使ってみたいという蘭太の申し出を断る理由はなかったし、蘭太の好みに合うのならやってもいいと思った。定例ではないながら変わり映えしない報告よりも、二人にとってはそちらの方が本題だった。
「それが、よく分からなかったんです。帰ってきて着替える時にやっと嗅いだくらいで」
甚壱の部屋を出た時とは違う、日常着としている着物を纏っている蘭太は、引き締めていた表情を崩しながら追想するように腹に手をやった。
腹部にワンプッシュ。汗をかく季節ではなく、袴まで穿いた蘭太の鼻に香りが届かないのも無理はない。
「でもやっぱり、俺が使うにはちょっと大人っぽすぎます。……もう大人ですけど」
苦笑した蘭太の言わんとするところは分かる。オヤジ臭い趣味だということをマイルドに言ったかと邪推したくなるが、そういう意味ではないことも、もちろん分かる。思考が伝わったようなタイミングで蘭太に目を向けられて、甚壱は何でもないと首を振った。甚壱としては事実そのままを言っているつもりだったが、蘭太は甚壱が自らをおじさんと称するのを自虐と取り、好んでいない。
「蘭太」
「はい。――ちょっと甚壱さん!」
甚壱は手招きに従って寄ってきた蘭太を抱え上げ、諸共に寝転がるようにして腹に顔を埋めた。くすぐったいらしく、甚壱にしがみつかれた蘭太は笑いながら甚壱の頭を抱きしめてくる。しばらくすると笑い声に揺れていた腹の力が抜け、呼吸と共に落ち着き沈んだ。蘭太の息と合わせるように呼吸すると、蘭太の体臭に混じって、自分で使った時とは微妙に違う匂いが鼻孔を満たした。蘭太に自分の匂いが移るのは悪くないが、今は邪魔だと甚壱は思った。
蘭太の手が甚壱の頭を撫でる。甚壱が蘭太の袴の紐に手を掛けていることに気づいても、口先で咎めるだけで行動は起こさない。
「甚壱さん、この香りがする時ってちょっと甘えたになるんですよ」
「……自覚がない」
「お疲れになるような時にお使いだからでしょうね」
蘭太の手は、最後にこの香水を使ったのはいつだったかと考える甚壱の頭を滑り降り、辿り着いた背中をぽんぽんと軽く叩く。手のひら一枚分の重みと体温が、随分と心地よく感じる。
「考えなくていいですよ。取るに足らないことです」
「……今朝とは扱いが違うな」
「あれは後に仕事がありましたから。あと、条件反射かもしれません。この香りを嗅いでると、甚壱さんを甘やかしたくなる。……嫌ですか?」
「いいや」
甘えた。甘えたか。物心が付いた時から通して、初めて言われた言葉だった。
なおも考えようとする甚壱の髪を、蘭太の手が丁寧に梳かす。触り心地のいいものではないだろうに。
「甚壱さんに撫でられるの、好きでした」
空耳かと思うような小さな声で、蘭太は呟いた。
甚壱は首の向きを変えて、脱がすには至らなかった蘭太の腹の音に耳を澄ませた。
- 投稿日:2022年3月1日
- 当サイト比で甘い話です。愛に関する本を読んで、今なら愛が分かるぞ! と思った勢いで書きました。
- 最後のセリフは蘭太は小さい頃を思い出して言っています。説明臭くなるから省略したら分からなくなった。子供のときにはできなかった、甚壱が休める先になれたということを書きたかったんです。どうしたらいいんだ。