ひげそり
「甚壱さん、離してください」
狸寝入りか寝ぼけているのか。布団から抜け出そうとしたところを、ぐっと腰を抱き寄せ引き留めてきた甚壱に蘭太は言った。
「まだ時間はあるだろう」
さらに籠められる力と耳に響く低い声。おまけに脚まで絡め取られて、蘭太は湧き上がりそうになる情動を抑え込むのに苦心した。昨夜の余韻が残った体は焼けぼっくい状態だ。すぐに火が熾ってしまう。気持ちを落ち着けるためにした深呼吸で、甚壱の体臭を胸いっぱいに吸い込んでしまい、蘭太は寝起きで頭が回っていないことを実感した。
このまま腰を擦りつけて、もう一度とねだりたい。
浅ましい欲に蓋をするために、蘭太はぎゅっと目を瞑った。
「髭を剃りたいんですよ」
蘭太は甚壱の胸を押しながら小声で言った。甚壱の声の感じからすると、体を横たえていればもう一度眠れるかもしれない。外はまだ薄暗い。休みの日はきちんと休んでほしかった。
「今日の仕事は掛け持ちで、移動が多くて、夜に食事会があるんです。剃っておかないとまずいです」
「……」
呼吸で膨らみ押し付けられた腹から、甚壱の体温を感じ取る。息を合わせると眠ってしまいそうだった。夜に食事会ということは、夜まで、ひょっとしたら明日の朝まで甚壱に会えない。そうでなくとも久しぶりの逢瀬だ。名残惜しいのは蘭太だって同じだ。
「甚壱さん、お願いですから」
懇願が効いたのか、緩んだ抱擁から今度こそ抜け出した蘭太の腕を、甚壱がぐいと掴む。まるで子供の駄々だ。
蘭太は腕を甚壱に取らせたまま、足を引き抜き膝を折り、めくれてしまった布団を整える。それから枕に顔を半ばまで埋めて片目で見てくる甚壱に、屈み込むようにして顔を寄せた。
「どうしましたか?」
腕から離れて伸ばされた手が、蘭太の頬を撫でる。音と感覚から髭を確かめているのだと分かる。まばらに髭が伸びているのは仕方ないにしても、洗おうという気になっている顔を触られるのは少し恥ずかしい。
「いっそ伸ばせ」
「うっ……試みたことはあるんですよ。でも甚壱さんみたいにしっかり生えなくって」
その時のことを思い出して、蘭太は渋い顔をした。食事量を増やしても甚壱のような体つきにはならないし、髭も生えはするものの、貯えると言えるほどには生え揃わない。術式を選べないように、持って生まれた資質というのはどうしようもないのだ。己と違うから甚壱に惹かれるのか、甚壱に惹かれているから違うことが惜しく感じるのかは分からなかったが。
蘭太が回想する隙を狙って後頭部に回された甚壱の手を、蘭太はがしりと掴んで布団の中にしまわせた。布団の端を押さえて出て来られないようにして、逆の手でポンポンと甚壱の体を叩く。甚壱は蘭太の押さえなど跳ね除けようと思えばいくらでもできるはずだったが、子供を寝かしつけようとするような手付きに従って、大人しく目を閉じた。
昨日よりも髭が濃くなった気がする甚壱の頬に、蘭太は静かに唇を落とす。
「また来ます。おやすみなさい、甚壱さん」
- 投稿日:2021年8月1日