君知らず

「はい、お付き合いさせていただいています」
 溌剌とした蘭太の声。決して大きな声ではなかったが、周波数がぴたりと合ったラジオのように、ざわついた中でも明瞭に聞き取れた。婚礼を控えた人間に浮かれすぎるなと釘を刺したこともあるというのに、蘭太と交際を始めてからというもの、すっかり蘭太の様子を気にするようになってしまった。我がことながら呆れてしまう。
 何を言われたのかは容易に察せられる。蘭太と付き合い始めて半年。不都合がないから隠してはいないが、公式な発表が必要なわけでもないから触れ回ってもいない。話すときの距離が不自然に近い? 当然だろう。恋人なのだ。遠い方が不自然だ。
 蘭太と話している相手の、揶揄をふんだんに含んだ目がこちらに向けられる。見間違えなどと思われないようにゆっくり頷くと、バッと顔ごと逸らされた。相手の行動を不審に思ったらしい蘭太がこちらを見て、目が合った感覚の後ににこりと笑う。花が咲いたよう、という表現はこんな時に使うのだろう。


「言ってよかったですか?」
 飲み直すために腰を下ろした縁側で、蘭太は猪口の中を見つめながら言う。月の細い夜だ。何も映るものはないだろうに。倣って自分の手元に目を落とすが、やはり水面にわずかに光が反射しているくらいで、あとは底だか影だか分からない。障子を開けた時から黙りこくっていた虫が再び鳴き始め、蘭太の意識はそちらに向けられる。
「ああ。むしろ俺が言っておくべきだった」
 嫌な思いをしただろう。いたわりのつもりで言うと、蘭太は首を振った。
「甚壱さんが彼氏だって言えて嬉しかったです」
「彼氏か」
 そんな気楽な肩書きが付くのはいつぶりか。蘭太の見目も相まって、随分と可愛らしい関係に収まっているような気がしてくる。俺の呟きをどう受け止めたか、酒を口にした蘭太は小さく息を吐いて、そのまま何も言わずに猪口を持った手を膝の上に置く。
「……甚壱さんは俺とセックスしてると思われてるの、嫌ですか?」
 直截な表現にドキリとして、手の中の猪口をぐっと握る。これが例えば直哉の口から出た単語ならこうも驚かなかっただろう。蘭太に対して、成人している男に抱くにはそぐわないイメージを持っているということを、思い知らされた気分だった。
「蘭太がいいなら俺は構わない」
「俺は構いません」
「なら思わせておけ。否定しても、どうせ聞かん」
 蘭太とは一度もセックスをしていない。食事に行ったり、ドライブをしたり、早朝の庭を散策したり、スポーツ観戦に行ったり。家業の都合、泊まりがけという事態は発生したが、眠るときはそれぞれの部屋や布団で眠る。布を介さない接触はごく少ない。不満はなかった。穏やかで、満ち足りた時間だった。あと十年――いや、五年若ければこうはいかなかっただろう。年を取るのも悪くない。そう思える日々だった。
 夜の空気が口に甘い。燗をつけるのもいい頃かもしれない。蘭太が身じろぐ音が聞こえて、言い淀んでいる呼吸と、戸惑っている視線を感じる。
「甚壱さんは俺とセックスするの、嫌ですか?」
「……いいや」
 蘭太とセックスする。認識しただけで脳裏に差し込まれた想像に顔をしかめながら、酒を一口、二口と口にする。年齢なりの余裕が身についたと思ったのは気のせいだったか。燗酒を思い浮かべる気候だというのに、手のひらが熱を帯びてくる。
 ホッとした風な息を吐いて、蘭太も酒を口にした。
「……甚壱さんは、興味がないと思っていました」
「枯れていると思っていたのか?」
「そうじゃないですよ。こうなる前から甚壱さんのことは見ていたので……俺は好みからは外れるでしょう?」
「蘭太の目から見た俺は、好きでもない相手と付き合える男か?」
「はい、それはもう」
 俺の拗ねた物言いに、蘭太は大真面目な顔で頷いた。肉欲が絡むものは置いておくにしても、嫌な相手との付き合いについては思い当たる節がいくらでもあるせいで、否定できる状況ではない。
「俺は蘭太が好きだ」
「分かっています」
 蘭太は徳利を取り上げた。俺が差し返すのを受ける手に、緊張している気配はない。
「好かれていないとは思っていません。でも、肉体的な接触は別なのだろう思っていました」
「お前を相手に考えていなかったのは事実だ」
「想像できますか?」
「ここで想像したら帰してやれなくなる」
 とうに想像したあとだという事実は伏せて、徳利を置く。
「今日は帰りたくないなぁ、なんて」
 蘭太はおどけた調子で言った。
 年齢の差も、家での立場もある。俺が言い出したのなら蘭太は断れない。誰かに吹き込まれた勢いだけで言っているのではないことを確かめたくて、蘭太の顔を覗き込むと、蘭太はくりくりした目を細めた。挑発的とまでは言えない、いたずらっ子のような表情だ。
「一回だけ、お試しにどうですか?」


「だめです甚壱さんっ、抜かないで……っ」
 絞り出すような声で言って、蘭太はがしりと俺の腕を掴んだ。
「まだイってないです」
「蘭太」
 諭す言葉を言う前に、蘭太は首を振って拒む。まだびくびくと痙攣している中に、抜き去るつもりだった陰茎を戻してやると、蘭太は泣いているような声で喉を震わせた。
 一回だけ。何を以て「一回」とカウントするのか、認識の擦り合わせをせずに始めてしまった。蘭太が気持ちよくなれればそれでいい。ぼんやりと思っていることが態度に出ていたのか、蘭太は俺が射精するまでイかないと――イかなかったことにすると決めたようだ。
 乱れた息を無理矢理に整えて、蘭太は俺の頭をやわく撫でる。催促のつもりらしく腰を揺らして、その刺激で内側がうねる。自分で自分を追い込んでしまった蘭太の、常になく深く皺の刻まれた眉間に唇を落とし、頬から首筋へと辿っていく。汗混じりの石鹸の匂いを嗅ぎ取る一方、酒を感じないのは自分も飲んでいるからか。
 体を起こし、見下ろす肌は何気ない日常で何度も見た覚えのあるものだ。汗で濡れた張りのある胸がゆっくりと上下する。粒立った乳首に目を向けると、触っていたときのことを思い出したのか、蘭太は身構えるように唇を結んだ。
「嫌か?」
「……今日はもう勘弁してください」
「今日は、か」
 よく蘭太には望んでいないなどと思えていたものだ。今日が終わればもう二度と、そうは思えないに違いない。年を取ったつもりでいたが、蓋を開けてみれば円熟とは程遠い。どこまでなら自儘に振る舞って許されるか、引き際を見極める目だけは年齢なりに身についたように思う。
 ゆっくりと腰を引いてから、引き止めるように吸い付いてくる肉壁を掻き分け押し進める。再び締め付けを強めた入り口で自身をしごきながら、見つめてくる蘭太の期待に応えるべく、視線は蘭太の顔から離さずに、奥深くを狙って腰を打ち付けた。
「うんっ」
 ビクンッと体を跳ねさせる。不規則なうねりが収まるのを待たずに突き込むと、蘭太の声が少しずつ上擦っていく。日が沈んでからかなり経つ。気密性などない障子で外と隔てられた部屋の中、冷えていくはずの空気は暖まる一方だ。
「甚壱さんっ、気持ちいい、ですか?」
「ああ」
「俺もイイです、最高……ッ」
「でもイくほどではないんだろう?」
 断続的な喘ぎ声を漏らす蘭太に言うと、ストレートに不満そうな目が向けられて、つい笑ってしまう。蘭太の、たまに見せる遠慮のない表情がおもしろい。口を開く前に固くなっている中心を掴んでやると、蘭太は情けなく眉を下げた。手のひらで感じる濡れた感触は、潤滑剤のぬめりではない。
「嫌です、触らないでください」
 必死さすら感じる様子で首を振る。そのくせ、快感を期待して内側をひくつかせるのだからたちが悪い。蘭太も自らの肉体の離反に気づいているのだろう。悔しそうに唇を噛む。
「何ならしていい?」
「甚壱さんが気持ちいいことなら」
「しごくと締まるだろうな。――ほら」
 握った手を動かすと、当然ながら発生する快感に蘭太は身を固くした。狭まった門に絞り上げられながら、反応しまいとする蘭太の顔を見る。
「……俺の、緩いですか?」
「いいや」
 望み通りに放してやり、揉み込むように蠕いている内側をこじ開け腰を振る。喘ぎ声を漏らさないよう固く口をつぐみ、疑るような目で見ていた蘭太も、名前を呼んでもうしないと告げてやると、安心したように表情を和らげた。


 俺が横になってようやく、蘭太は体の力を抜いた。
 成果と言えば成果だろう。外したゴムの口を縛るのを見る蘭太の顔は、ボールを取ってきた犬のように誇らしげだった。寝そべっているのは気が引けるのか、起き上がろうとするのを引き止めなければ、今頃湯でも沸かしに行っていたかもしれない。
「期待通りだったか?」
「いいえ、もっとよかったです。甚壱さんは?」
「……」
「えっ、だめでしたか!?」
 心底驚いた様子で起き上がった蘭太は、今すぐやり直しを申し込んできそうな勢いだ。手を伸ばして腕を叩いてやると、驚愕の表情は消さないまま体を横たえる。これだけまごついた表情は外では絶対に見られない。
「気持ちよかった。だが、明日から蘭太をどういう顔で見たらいいのか分からなくなった」
「……甚壱さんにいやらしい目で見られるのはアリだな」
「洒落にならん」
「大丈夫ですよ」
 何の根拠があってか自信満々に言い切った蘭太は、俺の顔を見てにんまりと笑った。
「俺が甚壱さんをどういう目で見てるのか、今日まで気づかなかったでしょう?」

投稿日:2021年9月13日