道草を植える

 信者に混じって乗り込んだ宗教団体所有のマイクロバスは、送迎の発着地点としてウェブサイトにも記載されている駅についた。若年者を対象とした二泊三日の懇親会。教団所有の宿泊施設は他の時期にも使っているにも拘らず、この時期に限定して呪霊が目撃される。依頼主である教団の本部からは、信者を不安にさせないために、懇親会に混じれる若い人を派遣してほしいという要望があった。
 蘭太のことをそれぞれ自分とは別の教区から来たのだと思っている若者たちは、昨夜のレクリエーションの時間に姿を消していた蘭太の事情を詮索することなく、健勝と再会を願う言葉を口々に言い、三々五々に散っていく。蘭太は肩にかけていたリュックサックを降ろし、駅前のベンチに腰掛けた。
 ズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出して、今回の任務の要点を書き出したメモをスクロールする。帰るまでに報告書を仕上げてしまえれば、心置きなく休みに入れる。提出用と、禪院家いえ用。体裁さえ整っていれば問題ない外向きの報告書よりも、内向きの報告書の方が手間がかかる。
 分かっていてもすぐに取り掛かる気にはなれず、蘭太はスマートフォンを手にしたまま、庇の向こうにある秋晴れの空を見上げた。体が慣れたのか、アプリが示す現在地の気温は、寒いと感じた到着日よりも低いというのに、温かく感じる。
「……寒っ」
 折しも、油断を笑うように吹き付けた冷たい風。蘭太は羽織るだけにしていたブルゾンのファスナーを引き上げた。

「駅の中で待てばいいだろう」
「甚壱さん……?!」
 まさかの人物の登場に目を白黒させる蘭太に、甚壱は会合の帰りだと告げた。すぐそばの自販機で缶コーヒーを買ってから、負傷の可能性がないときくらい自分で運転したかったと付け加える。待機役から交代する旨の連絡があり、そのために発生した待ち時間だったが、交代先が甚壱とは一体どういう成り行きなのか。
 甚壱は助手席に置いていた羽織を無造作に後部座席に放って席を空け、上着を掛けるなら使えとヘッドレストの後ろにあるハンガーを指し示す。京都まで約二時間。任務よりも余程緊張する時間になりそうな予感に、蘭太は臍の下に力を入れる。
「甚壱さん、車替えました?」
「いいや、借り物だ。連中は外車というだけで儲かっていると決めつけて値切ってくるからな、上と会うなら国産が一番だ」
「なるほど。……甚壱さんの車、かっこいいですよね」
 ジャガーXFR。故障しやすいメーカーだという話も聞いたが、蘭太は素直にかっこいいと思っている。V8エンジン搭載の走りについては、残念ながら見る機会に恵まれていない。
「乗りたいなら貸してやろう。泊まりでも、誰を乗せても構わん」
「えっ!? いいです! ぶつけでもしたら困ります!」
「ぶつけたら直せばいい」
「そういう問題じゃないですよ!」
 乗ってみたかったという思いが声に出ていたか、こともなげに放たれた甚壱の言葉に蘭太は焦った。炳に所属してから懐事情に変化があったとはいえ、この先ずっと、甚壱の車をぶつけたという事実を背負って生きていくのはつらい。免許を取ったところから後悔しそうだ。
「じゃあ買い換えてお前にやるか。元々好きで買った訳じゃない」
「からかわないでください。もっと嫌ですよ」
 冗談と捉えて蘭太は笑ったが、甚壱はくすりとも笑わない。ウインカーの音を効果音にして、機嫌を損ねたかもしれないという不安がひたひたと忍び寄ってくる。
「……運転手の代わりで来たんだ。俺のことは気にせず過ごせ」
「はい。……え?」
「無理に話さなくていい。ゲームとか、寝るとか、何かあるだろう」
「じゃあ……報告書書いててもいいですか?」
「好きにしろ」
 甚壱が運転する横で惰眠をむさぼる度胸は流石にない。お構いなしという点では大差ない気がしないでもなかったが、許可が出た以上は集中するしかないと割り切って、蘭太はメモアプリを開いた。

 帰路を半ばまで過ぎたところで、国道から逸れて道の駅に立ち寄った甚壱に、根を詰めすぎるなとジェラートを買い与えられる。山間に位置するせいか日差しの割に外の空気は冷たかったが、暖房で体は温まっていたし、牛乳工房という看板通り一番人気だというミルク味のジェラートの控えめな甘みが、張り詰めていた神経をほぐしていく。甘いものを好かないという甚壱は、離れた場所でコーヒーを飲んでいる。
 紅葉はせず枯れてもいない、瑞々しさだけを失った木立に送られて、白い照明が灯るトンネルに入る。道路にしろ鉄道にしろ、トンネルと名の付く場所には細々した呪霊が付きものだったが、甚壱がいるからか今日はどのトンネルでも呪霊は視界に入らない。
「……今さらですけど、昇級のこと、甚壱さんが口添えしてくださったと聞きました」
 支援に向いた術式だから、灯に据え置いておいたほうが使い勝手がいい。他薦の審査の詳細は当事者である蘭太には明かされなかったが、漏れ聞こえる話はあるものだ。意見を退けたのが甚壱だったと耳にしたものの、炳に所属するまで甚壱との交流などないに等しかった蘭太には、縦横の社会が格子のように絡む暮らしの中で、摩擦を生んでまで推してもらえた理由が分からない。
 炳二人を当てなければならない呪霊などそう発生するものではない。甚壱と、耳目を気にせず話せる機会などもうないかもしれない。聞くなら今だと蘭太は自分を励ます。
「理由、聞いてもいいですか?」
「……留め置くことの利点が話題になったんであって、お前に相応の力があることは誰もが認めるところだ。そこは間違えるな」
「はい」
 カーブを曲がってきた対向車と擦れ違い終えるまで、甚壱は口を閉ざした。
「知っての通りうちは我勝ちな者が多い。一人でも十分に動けるのに、周りと協調が取れる人間というのは貴重だ」
「それは――」
「術式を理由にするのはやめておけ。確かに立ち回りは左右されるが、術式の性質と人間性は必ずしも一致するわけではない。……他人から言われたことはいい。お前は自分でどう思っている? 自分は炳に所属するに値しないと思うか?」
 空間が明るさを増し、車はトンネルを抜けた。空は駅前で見たときと変わらず、冴え冴えと澄み渡っている。トンネルで生まれる呪霊が、他の場所で発生するものよりも早く安定する理由は感覚として分かる。太陽光が当たる、それだけで空気が変わる。
「……役目は果たせていると思います」
 言ってから、蘭太は自分が炳になる妥当性自体には疑念を抱いていないことに気がついた。甚壱の口添えの理由に意識を取られていたからではない。自覚していたより強い自負心と向き合う前に、甚壱が話し出す。
「指示や意見の適切さよりも、肩書きを見て動く者は多い。俺はお前は誰かに使われるより、人を使える立場にいた方が家にとって有益だと判断した。……疑問は解消できたか?」
「はい。ありがとうございました」
 蘭太はいつの間にか伸ばしていた背中を背もたれに戻して、静かに息を吐いた。まさか甚壱本人からも評価されているとは思っていなかった。嬉しさと、自分から尋ねた恥ずかしさがじわりと込み上げる。家まであと一時間弱。せめてもっと後で聞けばよかったと思った。

   ◇

 術式と人間性が一致しないということは、甚壱を見ていると実感できた。豪胆そうな見た目からは想像できない仕事ぶりの細やかさ、持ちかけられた相談に対応する誠実さと根気の良さ。実力さえあれば良しという禪院家の家風もあるのだろうが、生まれながらの地位にあぐらをかかず、とっくに完成しているだろうに日々の研鑽を欠かさない。
 炳の一員として相応しい振る舞いをすることが、甚壱の判断が間違いでなかったと証明することにも繋がる。今まで手を抜いていたわけではなかったが、蘭太は与えられた役割を一層意識した。迷ったなら話してみればいいと甚壱が言った通り、躯倶留隊の人間は持ちかければ対話に応じたし、組むことになった術式持ちもまたしかり。そのやり方が合わない相手も、快く思わない人間も当然いたが、万人と上手く付き合うなど甚壱ですら無理だということが、蘭太の気持ちを軽くした。

   ◇

「甚壱さん!」
 晦日はまだだというのに飲み納めと称して鯨飲し、すっかり出来上がった酔っ払いを、片付けに奔走する女達の動線の妨げにならない場所まで移動させる。今後も開催される忘年会で、あと何回この役をすることになるのか。酔いが醒めてしまった物足りなさを持て余していた蘭太は、廊下で甚壱に行き合った幸運に目を輝かせた。
 当主ほどではないにしろ、甚壱の周りには人が絶えない。甚壱自身もねぎらいに回ることがあるために、まともに話をする時間を持つのは至難の業だ。小走りに距離を詰めた蘭太は、今度は酔いが醒めていることに感謝しつつ、ぺこりと頭を下げた。
「全然お話できなかったのでご挨拶を。本年もお世話になりました」
「あぁ、来年もよろしく頼む。……随分付き合わされたんだな。飲まなければ長かっただろう」
 甚壱の言葉を聞いた蘭太はパチパチと瞬いた。何か変なことを言ったかとわずかに首を傾げる甚壱を見て、苦笑する。顔立ちのせいだろう。され慣れた勘違いだ。
「もう成人してます。甚壱さんに年を聞かれたの、結構前ですよ」
「……すまない」
「いいえ。よく言われます」
 蘭太は甚壱の男振りのいい面差しを眩しく思いながら、行儀よく目を伏せた。甚壱は今の蘭太と同じ年頃か、もっと若い時分にだって子供に見られたことなどないだろう。胸には羨みの言葉が浮かんでいたが、甚壱がそれを言われることを好んでいるかは分からない。おべんちゃらだと思われるのは避けたかった。
「飲んでばかりであまり食べられなかったんじゃないですか?」
「いつものことだ。もう慣れた」
「すごいですね。甚壱さんは抜けたら目立つし、大変でしょう」
「そんなことはない。直哉などいつも途中でいなくなるが、誰も何も言わないだろう?」
 日付はもう変わっている。甚壱を引き止めるべきではない。蘭太が名残惜しさを覚えながら会話を切り上げようとしたところで、甚壱が溜め息をついた。
「しかし残念だな。飲んでいなければ運転を頼めたんだが」
「どこか行かれるご予定だったんですか?」
「大した用じゃない。ラーメンが食いたかっただけだ」
 肩を竦めるジェスチャーを挟みそうなくらい、軽い口調で甚壱は言った。
 不寝番を数に入れなくとも、飲んでいない人間などいくらでもいる。甚壱は蘭太が駄目でも他を当たるだろう。機会を逃す口惜しさが、心臓の端をチリチリと炙る。
 蘭太は甚壱が口を開く前に、言葉を遮るために目を合わせた。
「……実はラーメン持ってるんです。しじみの、塩味の。作らないといけないんですけど」
 予想通り怪訝な顔をする甚壱を見つめたまま、蘭太は事情を説明する。
「部屋で鍋をすることがあって、〆用に買ってあるんです。いつもは麺だけなんですけど、しじみが本当に二日酔いに効くのか試そうと思って、それで」
 誰としているとは言わなかったし、一人鍋とも取れる言い方をしたが、交友関係から足がつくかもしれない。蘭太は自分の私利私欲から危険に晒すことになった朋輩達に対し、心の中で謝った。
「そんなことをしているのか」
「すみません……」
「いや、楽しそうだな」
 甚壱はざり、と髭を貯えた顎を撫でた。明らかに迷っている顔だ。ここで甚壱にラーメンを食べさせられれば、共犯関係が成立して、隠し持っているカセットコンロのことを不問にできるかもしれない。決意を固めた蘭太は畳み掛ける。
「一緒に食べませんか? 帰らなくていいから楽ですよ」
「……いいな」
 甚壱は呟くように言った。蘭太はガッツポーズを決めたい心持ちで、しかし表面上は笑顔を浮かべるに留めて、自分の部屋に向かう方を手のひらで示す。
「行きましょう。すぐに準備します」
「いや」
 蘭太はまだ笑顔を保っていたが、根が生えたように動かない甚壱を見上げ、内心穏やかではない。蘭太が知る限り甚壱は公平な男だ。ラーメンごときで口説き落とそうというのは、土台無理な話だったかもしれない。しかし、勝ち筋が見えなくても、やらなければならない時はある。蘭太は無意識のうちに重心を安定させるために足を開いた。
「俺の部屋でもいいか?」
「はい?」
「俺に部屋に居座られては困るだろう。蘭太が自分のタイミングで帰れる方が良い」
 蘭太はもう一度、パチパチと瞬いた。甚壱がしじみラーメンを食べる気でいるということはかろうじて分かった。
「甚壱さんのお部屋ですか」
「嫌か?」
「嫌ではないです。じゃあ……ラーメンと鍋、取ってきますね?」
「ああ。部屋は分かるか?」
「分かります。なんとなくですけど」
「分からなければ連絡してくれ」
「承知しました」
 醒めていたはずの酔いが戻ってきたような、重力が減ったようなふわふわした心地の中、蘭太は軽く頭を下げて甚壱の脇を通り、自分の部屋へと早足で歩き出す。
「蘭太」
「はい!」
 振り返ると、甚壱はさっきと変わらない位置にいた。言い忘れがあるのかと先程と線対称の場所まで戻ると、甚壱はいくらか気まずそうな顔をした。戻るまでしなくてもよかったのだろう。さっきから思っていたことだが、普段より甚壱の表情が読みやすい。
「まだ飲めるか? いい酒がある」
「飲めますけど、いいんですか?」
「成人祝いだ。ラーメンにも合うとっておきだ」
「ラーメンに合うお酒ですか」
 どんな種類の酒にしろ、甚壱のとっておきがラーメンと合うことなどあるのだろうか。甚壱の冗談は分かりにくいが、今日は調子がいいから見極められるかもしれない。蘭太は至極真面目な顔で「合う」と駄目押しの肯定をする甚壱を見上げて笑った。

投稿日:2021年9月19日
私は車に詳しくありません。手堅くトヨタに乗ってそうというイメージからレクサスにしようと思ってたんですが、諸事情で取りやめになりました。
かっこよさからスポーツカーも考えたものの、甚壱の体格だと狭いかもしれないし、迷いに迷ってジャガーXFです。妥当性に自信がないので、面白半分で直哉に抽選に申し込まされ当たってしまったという裏設定があります。
更新日:2023年2月10日
二級以下→灯に変更。コミックス発売から一年以上経ってるのに今更ですが。