あとさき
寝に戻るのがせいぜいだった自室に、久しぶりに日があるうちに帰り着いた甚壱は、金魚に餌をやっている蘭太を目にした時、怒りがこみ上げるのを感じた。先の騒動を引き起こした甚爾が甚壱の弟であることは、家中の誰もが知っている。部屋に来るなと告げた理由を、子供とはいえ禪院家の一員として生きる蘭太が分からないはずはなかった。
何もかもがままならない。
蘭太は水槽から甚壱のほうに向き直り、出迎えの挨拶を口にしたが、言いつけに背いている自覚があるのだろう。頭を起こしてからも甚壱の足元を見つめ、叱責に備えるように膝上に置いた手を握っている。
健気とも言えるその有様を見て、甚壱は苛立ちを抑えるために深い溜め息をついた。
事後処理自体はいつかは終わる。問題は人の心の方だった。
禪院家は実力主義である一方、術式を相伝させることを重んじているが故に、血筋にこだわる者が多い。前代当主を父に持つ恩恵はもちろんあったが、生まれた弟に呪力が全くなかったときに向けられた目のことも、甚壱は忘れていない。軽んじられ、距離を置かれるだけならやりようがある。しかし、甚壱と正面から事を構える気概のない人間が、今の甚壱を相手にそういう出方をするとは考えにくかった。
甚壱が腰を下ろすと、蘭太はますます畏まった。
「ここには来るなと言ったはずだ」
「申し訳ありません」
「……なぜ言いつけを守らなかった?」
「金魚が、死んでしまうと思いました」
餌を食い足りないらしい金魚は水面近くをウロウロしている。蘭太も毎日来ているわけではないのだろう。蘭太が来る日に戻れたのは偶然とはいえ幸運だった。
「餌は俺がやっておく。とにかくもう俺の部屋には近づくな」
元より水槽の維持は人にやらせている。餌やりを甚壱自らやるとしても、大した労力はかからなかった。
「でも甚壱さんは」
「俺にさせるのが嫌なら池に放せ。それだけ育てば鯉からは逃げられる。お前も、俺が教えなくてもこの家での立ち回り方は分かるだろう」
語勢こそ抑えたものの、内容は突き放したのと変わりない。言葉を遮られ、口をつぐんだ蘭太の瞳が、風を受けた湖面のようにゆらりと揺らぐ。
「……俺はもう、いりませんか?」
潤んだ声で蘭太は言った。
意気地がないくせに不満を燻ぶらせた人間は蘭太に目を付けるだろう。長年付き合ってきた家だ。子供に手を出さない善良さなど、薬にしたくもないと分かりきっている。嘘も方便。自分との関係を印象づけてきたことが裏目に出る状況になった今、いらないと答えて追い払い、関係を清算したと示すべきだった。
「……」
最善策は決まっている。蘭太に己を見限らせることだ。そう考えながらも穏便に遠ざけることを選んだ甚壱は、さらなる一手を加えることを躊躇った。まっすぐに向けられる蘭太の目を見ていられず、すっと目を逸らす。水槽のエアポンプが立てる音が静かに響いた。
「……分かりました」
耳に届いたのは、いやにはっきりした声だった。
「――ッ! やめろ!」
甚壱は一息に距離を詰め、自分の目を覆おうとする蘭太の手を引き剥がした。想像に過ぎなかったが、目を潰す気だという確信があった。
「離してくださいっ!」
甚壱が掴み上げたせいで膝立ちになった蘭太は、力で敵わないのは分かっているくせに、掴まれた腕を奪い返そうともがく。甚壱にとっては蘭太の動きを制することより、掴んだ腕を折らないようにすることのほうが難しかった。万に一つも握り潰してしまわないよう意識するほどに、手の中にある腕の細さが気にかかり、背中にじとりと汗がにじむ。もし手を滑らせたら、もし腕をひねったら――。余裕があるだけに、悪い想像ばかりが膨らんでいく。
「なんで止めるんですか……っ」
空想が現実になる前に、がくりと蘭太の体から力が抜けた。
揉み合いどころか運動ですらない、わずかな時間の出来事だったというのに、心臓が馬鹿みたいに跳ねている。甚壱は様子見に力を緩め、蘭太に抵抗の意思がないことを確かめてから、掴んでいた腕を放した。くずおれるかと思ったが、蘭太は元のように膝を揃えて座った。赤くなった部分は落ちた袖で隠れたが、跡が残るかもしれなかった。
「なぜ先に術式を使わなかった? それだけの覚悟があれば時間くらいは稼げただろう。そうすれば俺が止めに動いても、お前の目は望んだ通りになったはずだ」
掛けるべき言葉がそれでないことは分かっていたが、必要だと言ってやれない以上、他に言葉を持たなかった。無言ではらはらと涙をこぼすという、子供らしからぬ泣き方をしていた蘭太は、空が青い理由を尋ねるような、純粋そのものの顔で甚壱を見上げた。
「甚壱さんが止めるなんて思いませんでした」
上気した頬を涙が伝い落ちていく。拭ってやりたいと思っても、手を伸ばすことはできない。甚壱はあぐらをかき直し、拳を握った。
「お前の術式には価値がある。その目があれば、たとえ他の技術が未熟だったとしても、この家ではやっていける」
「知っています。甚壱さんが教えてくれました。でももういいんです。甚壱さんがいらないなら……俺もいりません」
望んだ以上の反応だった。ぞわりと胸の奥に広がった感情は、歓喜か、それとも恐怖か。甚壱は思考を蝕んでくる感情の正体をあえて探らず、努めて平静を装った。
「蘭太、聞き分けてくれ」
思い返してみれば、最初に部屋に来るなと言ったとき、蘭太は返事をしなかった。今度こそは承諾させなければならない。甚壱は蘭太が「はい」に類する言葉を口にするのを辛抱強く待った。
やがて悲しげな顔で項垂れた蘭太は、消え入りそうな声で「分かりました」と答えた。
安堵を表に出さないようにしながら、甚壱は蘭太を立ち去らせるべく口を開いた。しかし、声を掛けるその前に、蘭太は泣いた名残で色の濃く見える瞳を甚壱に向けた。
「俺はもらってばかりです。何も返せてない。甚壱さんが大変なときに、何もできない」
「そんなことはない」
口先の慰めではなく本心から出た言葉だったが、蘭太はふるふると首を振った。声を出したせいでまた泣いてしまいそうなのだろう。袴を握り締め、しゃくり上げるように息を吸う。怯えたような顔をしながらも、視線は逸らさなかった。
「全部あげます。俺が持ってるもの全部、これから先もずーっと、甚壱さんにあげます」
「……呪術師なら、口にする言葉には気をつけろ」
蘭太はゆっくりと頷いて目を細めた。
「分かっています。だから言いました。……俺、甚壱さんに守ってもらわなくていいようになります。だからそのときは、またお側に置いてください」
◇
甚壱が足場を固め直すほうが早かったために、蘭太を声変わりするよりも前に手元に戻せたが、遠ざけていた間の成長を見られなかったことを惜しく思う程度に、蘭太の成長は目覚ましかった。人伝に聞いた状況からさらに一段階上。久しぶりに自室で対面したとき、甚壱は直接聞いた近況をまずは寿ぎ、それから素直に不満を述べた。蘭太は「より良いものを差し上げたかったんです」と笑った。
全てをくれると言ったあの時に、抱いていたらどうなったか。
蘭太と関係を持ったのは蘭太の手足が伸び切ってからで、手を出す発想自体ありえないことであったが、興味は尽きなかった。会えなかった期間も含めて、蘭太が持つ面の全てを知りたかった。
幼少期の蘭太の写真を書見台に置き、数々の思い出を重ねて妄想を補強しながら陰茎をしごいていた甚壱は、達する直前、脇に置いていたガラス瓶を取り上げた。冷蔵庫に入れているせいで余計に冷えているを瓶の口を先端に添え、中に向かって射精する。無機質な感触に意欲がそげてやり直したこともあったが、数回でまともに出せるようになった。
少々長く家を空けることになった蘭太から、オナニーするなら後で飲むから置いておいてほしいとガラス瓶を渡されたとき、すぐには意味を理解できなかった。蘭太は飲みづらいという顔を隠しもしない割に、甚壱の精液を飲みたがる。使用済みのコンドームを手から取り上げたときは、「甚壱さんのザーメンがほしい人間がどれだけいると思っているんですか」と恨めしそうな目で睨まれたが、そう言われても、コンドームの中身を搾って飲むというのは看過できない。
新旧の精液が混じり合う瓶の中身は、見ていると射精後の気怠さ以上にげんなりする。甚壱はさっと視線を外して蓋に金具を掛け、封をし直すと、ティッシュボックスに手を伸ばした。蘭太の戻りは明後日だ。密閉容器に入れて冷蔵しているものの、飲んで人体に影響がないかどうか判断しかねている。
望まれて初めて口に出してやったときの、可哀想に思うほどの悲しげな表情を、甚壱は今も鮮明に覚えている。幼少期の蘭太を抱いたとして、反応はきっとあの時とそう変わらないだろう。初々しさの中に漂う危うさ、献身的とも言えるひたむきさ。散々想像したせいで、もはや現実味すら帯びてきている脳内映像をひと撫でしてから、甚壱は脱いでいたパンツを取り上げた。
- 投稿日:2021年7月21日
- 子供の無自覚な危うさと、望んだくせに怖くなる大人を書きたかった。途中で「オナニーの日」が近いことに気づいて甚壱のシーンを書いたのですが、ない方がメロドラマのようでよかったような気がしています。
- 更新日:2023年3月1日
- 改装ついでに蘭太が精液を飲む話も追記でまとめました。これでもう「子供時代だけだった方が」という悩みともサヨナラです。公開当時にいただいた疑問なのですが、蘭太は浮気チェックじゃなくて本当にただ飲みたいだけです。
猥雑な後日談
冷蔵庫から別離中の成果を取り出した蘭太は目を輝かせた。蘭太の喜ぶ顔を見られるのは嬉しいが、その表情を引き出したのが溜めた精液となると複雑な気分だった。
「こんなにいただけるなんて。お手数をお掛けしました」
ガラス瓶を大事そうに持ちながら、改めて礼を述べた蘭太は甚壱を窺い見る。蘭太の頼みを断ったことなどないから、問わずとも答えは分かっているだろうに。
「ここでいただいてもいいですか?」
「俺は構わない。それに早めに飲んだほうがいいのはいいだろうな」
「ありがとうございます」
パチリとガラス瓶の留め具を外し、蘭太はそのまま蓋を外してしまう。射精するときに見たが、よく見る瓶とは違って肩がなく、口から底までほぼ一直線になっているため、直接飲むのに支障がない造りになっている。
「いただきます」
蘭太は湯呑みを持つようにガラス瓶を両手で持ち、瓶の口に直接口をつけて傾ける。時間を置いたことで粘度は落ちたものの、水と全く同じとはいかないようで、その状態でしばらく静止した。つい仕事の手を止めて見守ってしまった甚壱の目の前で、蘭太の喉がごくりと動いた。
仰向けていた顔を元に戻した蘭太は、口の中にまだ精液を残しているらしい。ちらりと甚壱を見て表情を綻ばせると、もぐもぐと咀嚼する。噛んでいるうちに味のようなものが出てきてしまったらしい。微かに眉を寄せ、頷くようにして飲み込む。ガラス瓶を包むように持った手を膝上に乗せて、はぁ、と息を吐く姿は少しつらそうだった。
「平気か?」
「はい。ごちそうさまでした。冷たい分味が薄れて飲みやすかったですけど……やっぱりあんまり。でも嬉しいです」
味の感想は最後までは言わず、蘭太は満足げな顔で胃の辺りを手で押さえた。
「冷蔵庫にほうじ茶プリンを入れてある。口直しに食べるといい」
「本当ですか。ありがとうございます」
冷蔵庫は酒とつまみを入れるのがせいぜいのサイズだ。食べ物ではないものと並べるのもどうかと思い、気持ちだけ離して置いたが、プリンが目につかないほど精液にまっしぐらだったとは。甲斐があったと感じるべきか否か判断しかねる。
すぐに冷蔵庫に向かうと思った蘭太は動かない。ガラス瓶を脇に置き、甚壱に向かって居住まいを正す。
「プリンもいいですけど、冷たいものを飲んだので、温かいものが飲みたいなぁ、なんて。だめですか?」
「……だめとは言わないが」
「へへへ。ありがとうございます」
甚壱はペンを置き、文机から体を離す。机仕事で固まった体をほぐすのも兼ねて一度立ち上がると、反対に座り込んだ蘭太は、餌を待つ犬のように甚壱を見上げた。