宿根草

「甚壱さん、直哉さんがどこにおられるかご存知ありませんか?」
 廊下ですれ違った後、足早に引き返してきた蘭太に尋ねられ、甚壱は首を振った。
「いや。今日は見ていないな」
「そうですか……」
 もしかして朝から探しているのだろうかと、甚壱は気落ちした様子の蘭太を見下ろした。直哉の姿は見かけなかったが、どこかへ向かう蘭太を見るのはこれで三度目だった。雑用を厭わない蘭太が東奔西走する姿を見ることは、別段珍しいことではなかったが、それにしても頻度が高い。
「どうかしたのか?」
 甚壱を見上げた蘭太は、大した用じゃないんですけど、と前置きした。
「バーベキューに行く計画を立てているんです。年の近い人間ばかりなので、直哉さんにも声を掛けておこうと思って」
「そうか。……明日でよければ伝えておくが」
「本当ですか!」
「ああ」
 直哉が定刻通りに現れればだが、とは甚壱は言わなかった。多少遅刻しようが予定を伝える隙くらいはあるだろうし、仮に会自体に来なかったとしても伝言くらい訳ない。甚壱が詳細を尋ねるより先に、蘭太は袂から畳んだ紙を取り出した。
「用件をまとめてあります。お手数をおかけしますが、直哉さんにお渡しいただけますか?」
「……ここまでしてあるなら部屋にでも投げ込めばいいだろう」
「それではきっと、ご覧にならないでしょうから」
 それもそうか、と納得しながら甚壱は手紙を懐にしまう。はっきりした声で礼を言った蘭太は、語調とは反対にゆったりと頭を下げた。
 直哉のことが余程気がかりだったらしい。去っていく足取りは軽やかだった。

 甚壱が蘭太達の小旅行に関わったのはそれだけで、まさか土産を、それも生ものを買ってくるとは思っていなかった。クーラーボックスに七輪、背中にはリュックサック。取り次ぎに言われて庭に出た甚壱は、蘭太の出で立ちに面食らった。
「熱いのでお気をつけください」
 庭先に置いた七輪で貝を焼き上げた蘭太は、縁側で待つ甚壱に貝を載せた皿を差し出した。帆立貝に似た形の貝殻は、火を入れたために色あせていたが、それでも並の貝よりは色鮮やかだ。甚壱は緋扇貝という名を聞いた時に思い浮かんだ顔をもう一度思い浮かべたが、想像の中のくせに摂生がどうとやかましいので、すぐに頭から追い出した。
 熱された醤油の香ばしい匂い。夕食を済ませた後だというのにそそられる食欲を感じながら、甚壱は箸を手に取った。甚壱の勧めに従って自分の分を取った蘭太も、皿と箸を手に甚壱の隣に腰掛ける。
 湯気の立つ貝の身を、軽く吹いてから口に入れる。醤油の風味を感じながら歯を立てると、貝の汁気と共に甘みが口いっぱいに広がった。文句なしにうまい。隣を見ると、蘭太も口元を綻ばせている。
「……うまいな」
 甚壱が感想を言うと、蘭太は満足気に目を細めた。
「お持ちしてよかったです」
「バーベキューは楽しかったか?」
「はい、おかげさまで」
 具体的に誰と行くとは聞かなかったが、蘭太と似た年頃となるとあの辺りだろうと目星はつく。思いついた面子の端と端に連んでいる印象はないものの、関わりの少ない甚壱の知らない、緩やかな付き合いがあるのだろう。甚壱の知る今の直哉は、誰と懇意にするということがなかったが、それは甚壱が思っているだけで、蘭太の誘いには乗ったのだろうか。
「甚壱さんって、直哉さんとお付き合いされているんですか?」
 奇しくも直哉の顔を思い浮かべていたとはいえ、蘭太の質問は唐突だった。甚壱は口にしかけていたグラスを離して蘭太を見る。地ビールも買ったんです、と甚壱にグラスを持たせてきたくせに、蘭太の手にあるのはペットボトルの炭酸水だ。
「馬鹿を言うな。あれはただの従兄弟だ」
「そうですか」
 返された相槌には、明らかな安堵が滲んでいた。
 話はそれで終わりなのか、縁側から降りた蘭太は七輪の側に行った。クーラーボックスから出した貝を片手にしゃがみ込む。
「お前さえよければ俺から言っておく。誰の頼みだ?」
「え?」
「直哉が見合いを断る理由は知らんが、一度行かせるくらいなら俺が説得しよう」
「いえ、直哉さんじゃなくて」
 バーベキューで慣れたのか、話しながら貝の口を開かせる蘭太の手つきに危うげなところはない。
「甚壱さんがフリーなのか知りたかったんです」
「俺か」
「はい」
「……そうか。面倒を掛けたな」
 その手の話はここ数年なかったから油断していた。言うなら直接言えばいいものを。中年の色恋沙汰の探りなど、若者にさせることではない。
 甚壱は後から後から湧いて出る不満に顔をしかめる。
「すみません、そうじゃないんです!」
 不穏な気配を感じたか、慌てた様子で顔を上げた蘭太は、甚壱と目が合うと困ったように眉を下げた。
「俺が知りたかったんです」
 甚壱は返ってきた答えの意外さに眉を上げた。蘭太は甚壱と見合ったまま、殻を外し、身を切り離し終えた貝をそっと七輪の網の上に置く。
「……甚壱さんのことが好きなんです」
 まさか、と甚壱は思った。同世代の中での振る舞いは知らないが、蘭太は甚壱相手にふざける人間ではない。それでも冗談としか思えなかった。
 とっぷり暮れた闇の中、冬の気配の濃い冷えた風が通りすぎる。にわかに燃え上がった炭に注意を引かれて、蘭太は甚壱から目を離した。
 平素と何も変わりないように見える蘭太の顔を、オレンジ色の光が照らす。蘭太は空気口を細め、火勢が弱まるのを見届けてから、貝の身を裏返した。魅入られたように七輪を見つめ、抱えた膝をひと撫でする。
「嘘じゃありません。ずっと憧れていました。……甚壱さんがお嫌でなければ、お付き合いしたいと思っています」
「付き合う、とは」
 まぬけな質問が口をついて出る。甚壱に目を向けた蘭太は発言のまぬけさを笑いもせず、憂わしげに眉を寄せた。
「えっと……用がなくてもお会いしたり、お話ししたりしたいです。もちろんお忙しければ構いません」
「……」
「甚壱さんにメリットないですよね。何ができるだろうと考えても、何も思いつかなくて……。もし機会をいただけるなら、楽しく過ごしていただけるよう努めます。それで甚壱さんが、俺のこと好きになってくれたらうれしいです」
 諦めが色濃く出た笑みを見せてから、蘭太は七輪に目を戻し、貝に醤油をかけた。その後すぐ、はっとした顔であたりを見回し、クーラーボックスの上に置いていた容器から何やら取り出し貝に乗せる。漂う匂いからバターだと気づいたところで、貝を皿に取った蘭太は腰を上げた。
「すみません。居心地を悪くしてしまいました。後で片付けに――」
「蘭太」
 甚壱が蘭太を見据えると、蘭太が体に意識を巡らせたのが分かった。身構えることじゃない。そう言ってやりたかったが、言って変わるものでないことも分かっていた。
「俺の返事は分かってるんだろう」
「たぶん、ひと通りは」
「勝算はあったのか?」
「いいえ」
 蘭太は小さく首を振る。
「ご迷惑になることも分かっていました。でも言っておきたかったんです。甚壱さんは許してくれるって、甘えました」
「そうか」
「……あと、甚壱さんのことを全て知っているわけじゃないので、可能性に少し期待を。付き合ってくれそうにない甚壱さんを好きになりましたが、人が想像と違ったなんて、珍しくもないでしょう?」
「……そうだな」
 黙り込んだ甚壱を見つめていた蘭太は、元の通り甚壱の隣に腰を下ろした。持て余している皿を受け取るために甚壱が手を差し出すと、ほっとした顔で皿を渡す。目が合った一瞬に少しだけ笑って、蘭太は空を見上げた。

投稿日:2022年3月27日