レールの上

 競技用ボートが二艘、湖の上を滑るように走っていく。湖岸の桜は既に散り、澄んだ青空にボートの航跡のような筋雲が掃かれた好天といえども人影はまばらだ。
 湖畔の店でテイクアウトにしたコーヒーを一口。エンボス加工の施された紙コップの表面から伝わる柔らかな温かさは、缶コーヒーにはないものだ。
 蘭太は自分と同じように湖面を見ている甚壱を横目で見上げ、再び湖に視線を戻した。
「失礼なことを聞くんですけど」
「直哉よりもか?」
 蘭太は目玉が転げ落ちそうなほどに目を見張った。
 今から蘭太が口にしようとした質問は、失礼なことには違いなかったが、日頃直哉が甚壱に対して言っているほどのことではないつもりだった。だが、そこまでの失礼さはないと言えば、直哉のことを失礼だと言ったも同然だ。いくら心の中では直哉のことを無礼極まりない人だと思っていても、蘭太の立場で表に出すことはできない。
 否とも応とも言えず、コーヒーも飲めず、ひたすら前方を見つめている蘭太をまじまじと見ていた甚壱は、自分の冗談が蘭太の緊張を和らげる役に立たなかったことを悟ると、表情を変えないまま、
「構わん。言え」
 と言った。
 言われた蘭太が落ち着くまで、少しの間が空く。
「……甚壱さん、子供の頃に言ったことをよく覚えていらっしゃるじゃないですか。無理を聞くために、わざと言ってるんじゃないかって思ったんです。だって、全然覚えがないんですよ。今日のことだって、自分なりに検討してからお誘いしたんです」
 免許を取り、任務と鍛錬の合間を縫って練習して、一応同乗者をはらはらさせずに済むようになってきた。自分の運転で、甚壱とどこかに行きたい。そう思って甚壱に声をかけると、いつ誘ってくれるかと思っていたという答えが返ってきた。聞けば、子供の頃にドライブに行く約束をしていたらしい。
 甚壱に対して抱く好意に恋情が含まれると自覚したのはごく最近のことだ。心の内を甚壱に明かしたのも同じく。だというのに、何もかもが子供の自分に先を越されている。
「俺が――」
 言いかけて、甚壱は切った言葉を繋ぐかどうか迷う素振りを見せた。目に見えて言い淀むなど、考えがまとまってから話す甚壱にしては珍しいことだ。今度は蘭太が甚壱をじっくりと見返す番だった。
 術式の都合、見るのは得意だった。根負けした甚壱は、渋々口を開いた。
「俺が蘭太を好きだから、他愛もない約束を覚えているとは考えないのか?」
「だってそれ、ずっと小さい頃の話でしょう?」
「そうだな」
 蘭太は自分が覚えていないような、目上の甚壱に不躾な宣言をできる年の頃を考える。今の自分と甚壱が認識し合っている感情と同じ意味合いの「好き」だとしたら、口ごもった理由としてはもっともだ。
 疑るような目を向ける蘭太に、甚壱はいくらか気まずそうな顔で顎髭を擦った。初めて出会ったときの甚壱に髭が生えていたかどうか、記憶は夢を思い出すよりも曖昧だった。
「まずいですよ」
「流石に今と同じ意味じゃない。証明できないから言うか迷った」
「他にもあるんですか?」
「約束したことか?」
「はい。例えば、甚壱さんと結婚したいとか」
 冗談半分で尋ねると、甚壱は口の端を歪めて笑った。
「それは聞いていない。蘭太は昔から分別がある」
「そうですか」
 湖面を渡った風が木立を揺らす。身に馴染んだ沈黙の間に、同じことを考えている。戦闘中でもなく、触れ合ってもいない時にそういった感覚が起きるのは珍しいことで、蘭太はそわつきそうになる手を意識して留めた。もう子供ではないと言った。だから今の関係がある。子供の自分にできたことができないなど、笑い話にもならない。
 甚壱が息を吸う気配に重ねて、蘭太は甚壱を振り仰ぐ。
「行きましょう。さっきの店でサンドイッチ見たからお腹空いてきました」

投稿日:2022年1月11日
解説させてください! 将来蘭太は術式の継承や家の存続を目的として女性と結婚するので、いずれ交際が終わると二人とも分かっている。二人ともずっと一緒にいたいと思っているけど、敷かれたレールから外れる気はない……という話です。ちなみに琵琶湖です。