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 判断を誤った。
 蘭太は深々と溜め息をついた。頭の中にどっかりと腰を据えた煩悩は、甚壱その人の姿をしている。甚壱との関わりが増えている今、何ともたちが悪かった。

 共に任務を終えた帰り、迎えの車を降りた矢先、急な雨に降られた。天気予報は晴れだったから、轟く雷鳴を合図に降り出した大雨は、まさに青天の霹靂だ。
 甚壱はトランクから傘を出そうと慌てる運転手にひと声掛け、空手で雨の中を歩き出す。
 蘭太も運転手に手間を掛けさせる気はなかったし、仮に傘を受け取るつもりであったとしても、甚壱が決めたことに異を唱えるはずはない。甚壱の背を追って、門をくぐり抜けた。
 打たれながら面白くなってしまうような大粒の雨だ。
「すごいですね」
 言った声は甚壱に届くどころか、自分の耳で聞いたかすら心許なかった。

 予兆はあった。
 玄関の軒下に入ったところで、甚壱が濡れて落ちた前髪を掻き上げる。どうかしたかと問われるまで、蘭太は自分が甚壱の姿に見とれていたことに気づいていなかった。
 甚壱と蘭太の濡れ具合を見て泡を食った出迎えの姿に、先の運転手の慌てぶりの再現を見るようだった。用意されたタオルは小ぶりすぎて役に立たず、式台に乗るのも躊躇われる。
 甚壱に庭を回って風呂に行こうと誘われて、否やはなかった。

 夏の名残の灼けた肌。
 湯で温められたために浮かび上がる古い傷跡。
 甚壱を知る誰もが思い浮かべる秀でた額の傷よりも、蘭太の目は普段見ることのない傷に吸い寄せられた。
「疲れたか?」
「あ、いえ」
「風呂で寝て、溺れるなよ」
 早い時間であるために、誰もいない浴場。
 蘭太の陶然とした眼差しを疲労と捉えて、甚壱は労った。

 そして、冒頭に戻る。
 蘭太は湯あたりかと気にする甚壱に礼と別れを告げて、逃げるように戻った自室で頭を抱えた。
 風呂への誘いを断るべきだったのだ。甚壱に目を奪われた、その時点で変調をきたしていることに、気づいておくべきだった。
 憧れる要素は、目で追う理由は、推挙に暇がない。
 同じ男だからこそ惚れ惚れとしてしまう、完成された肉体。
 人柄を語れるほどの付き合いはなかったが、禪院家における甚壱の立場を思えば、悪い噂を聞かないというだけで信頼するに足りる。
 隣に立っている間に触れた度量の広さは、抱いた尊敬の念を増幅させた。
 呪力の源は感情だ。
 どうしても頭を離れないなら、甚壱のことを考えながらでも集中できるようにする。
 まずは邪念を認めてしまおう。
 蘭太は思考を切り替えた。

投稿日:2022年10月14日