嫌と言わない
「そっちは既婚の子持ち、こっちも既婚の子持ち。今も妻が好きだからとアンタは言うが、そんなの俺だって女房たちが好きだ。理由にならねぇ。断りたいなら他に言えることがあるだろ」
料理が出切って誰も来ないのをいいことに、肩を組み、とうとうと語る天元の手から、槇寿郎は盃を取り上げた。「おっ、久しぶりに飲むかい」と嬉しそうに言うのに首を振って膳の上に戻す。酒を飲まないことは承知の上だろうに、あからさまにがっかりした声を出される。
「君は酒に酔わなかっただろう」
「酔いが醒めるのが早いってだけで、全く酔えないわけじゃねぇさ。酒は酔えなきゃつまらないだろ」
「なら今のは酔っぱらいの戯言として聞き流してやろう」
「素面なら受けてくれるって言うんなら出直すぜ。でも今日は嫁たちに言って出てきたからな、悪いけど旦那んちに泊めてくれよ」
「言って出てきたって……」
「煉獄の旦那とイイコトしてくるって」
ニィといたずら小僧のような顔で天元は笑った。もうそういう顔をする年齢ではないだろうに、と槇寿郎は眉を寄せる。
「泊めるのは構わんが、今からでは何の支度もできん。近くに宿を取ってやろう」
「そうじゃないだろ旦那ぁ」
六十歳に達していないために千寿郎に家督を譲れないものの、実質隠居生活だ。泊められない理由として挙げるなら一番理由になり得たが、槇寿郎は口にしなかった。酔っ払いのふり、聞き分けのない若造のふり。天元の振る舞いのあれこれを、何もかも元忍だからで片付けるのはよくないだろうが、ふりだと分かるようにすることを含めて、顔の使い分けのうまさは間違いなくそこ由来だろう。
もたれ掛かられてもぐらつきはしないが、重たいのは重たい。それでも相手をするのが面倒で、槇寿郎が無視していると、天元は槇寿郎の頭のにおいを嗅ぎ始めた。風呂は入ったが、赤子のようないい匂いは絶対にしない。
「やめろ」
槇寿郎はぐいっと天元を押し戻した。
「旦那は俺が何の下心もなしに今までいたと思ってんの?」
「弔いに顔を見せることがか? そこまで言わせると俺の心が痛むからやめてくれ」
「はぁー、やりづらいね」
天元は自分の膳の小皿にある、昆布の佃煮を摘んで口の中に入れた。思案するようにしばらく噛んでいたが、銚子を取って酒を継ぎ足し、一気に流し込む。
「毎年今くらいの時期になると空気が地味にしけてきやがる。見てられねぇ。ろくに遊び方も分からねぇ旦那に気晴らしを提供してやろうってのに、つれないもんだな」
「しけていると分かってるのに、毎年この時期に来てくれるだろう。杏寿郎の命日はともかく、君は俺の妻に何の義理もないはずだ」
わざとらしいまでの鋭い舌打ちに、槇寿郎は笑った。小かぶの煮物を口に運ぶ。飲み込むまでしゃべらないことを分かっているから、天元も大人しく酒を飲んでいる。黙ってしまうと、他の座敷の声がよく聞こえた。
- 投稿日:2021年5月3日