期限は弥の明後日
鬼殺隊解散の事後処理の一環か、それとも産屋敷家特有の勘によって何かを予見したのか。発案に至った経緯は詳らかにされなかったが、鬼殺隊に関わる書物を分散させて保管したいという輝利哉の依頼は、歴代炎柱の書を有する煉獄家にも舞い込んだ。
破損した書は既に修復を終えており、恥を人目に晒す恐れはない。写本のために人を送るという輝利哉に、槇寿郎が自分の手で写しを作りたいと申し出たのは、次代に伝えることを放棄したせめてもの償いをしたいという一心からだった。
動いた空気に目をやると、写しと原本を見比べていた宇髄が、大きく伸びをしたところだった。文字を追い続けて疲れたのだろう。胡座をかき、後ろに手をついて天井を仰ぐさまは、初めて家を訪れた日からは考えられない寛ぎぶりだ。
最初に一杯出したきりの湯呑みはすっかり乾いている。近況を問い合う会話から、写本の校正を手伝うと言い出したから任せたが、客人は客人だ。こぼすと困るからと遠慮されようと、もう少し気を配るべきだった。
虫干しのために捲っていた本を閉じ、槇寿郎は膝を立てた。
「なぁ旦那、奉納の舞どうするよ?」
「……どうするとは」
「話あったろ。旦那がやるのか?」
日の呼吸が竈門家で神楽として伝えられてきたように、他の呼吸も伝えていきたい。書物の写しを作る話と同時に、輝利哉が提案したことだった。炎の呼吸は元より、日の呼吸の使い手から呼吸法を授けられる以前より存在した「炎の型」を絶やさないために、かつては機能していた剣術道場を再開しようかと考えていた槇寿郎としても、否という話ではない。――しかし。
「炎の呼吸の使い手は他にもいる。息子以外に赤色の刀を見たことがないか?」
「あるけどよ、煉獄の……ああ、いや」
「煉獄でいい」
槇寿郎は言い直そうとする宇髄を遮った。煉獄の名が第一に示すのが、堕落しきっていた己ではなく、凛然と立ち続けた息子であることは喜ばしいことだった。決まりが悪そうな顔で、宇髄はがしがしと乱暴に頭を掻く。
「煉獄の炎が一番派手だった。他の隊士は炎かどうかも分からねぇ有象無象。となれば今は、旦那の剣が一番まともだろ」
「私はそういった誉れを受けるに値しない」
「……輝利哉様は何も言っておられないのか?」
「お手紙はいただいたが、僭越ながら君に言った通りをお返しした」
宇髄は不満げに目を細めたが、何か言う前に、物音を聞いた猫のように目を開く。表の方から、玄関の戸が開く音と、帰りを告げる軽やかな声が聞こえた。
「着替えもせずに失礼します。ただいま帰りました」
呼ばれてきた千寿郎は、学生服のまま廊下に座し、改めて帰宅の挨拶をした。顔を上げ、部屋の中央に陣取る宇髄に笑顔を向ける。
「宇髄さん、先日はありがとうございました」
洋菓子の作り方を教わりたいと言う千寿郎に付き添って、槇寿郎が宇髄家を訪れたのは先月のことだ。失敗はつきものな上に、千寿郎は量の加減を杏寿郎の腹を基準にしている。宇髄が寄越した鎹鴉に請われるままに、千寿郎の菓子作りの動機である炭治郎たちを誘っておかなければ、とんでもない量を食うことになっただろう。教えるからには完璧にするって雛鶴が張り切っちまって、と笑っていた宇髄が、実は辛党なのだと知ったのは帰り際になってからだ。
父親の部屋という遠慮からか、千寿郎はきょろりと一度だけ視線を走らせる。
「奥様方は……」
「買い物に行ってる。昨日は帝劇、今日は三越。そのまんま」
「一緒においでにならなくてよかったのですか」
「あいつら俺が行くと俺のもんを見ちまうんだよ。俺は嫁のを見たいってのに、あれじゃどっちが旦那か分かりゃしねぇ」
三人の妻に囲まれて、ああだこうだと言われながら取っ替え引っ替え着飾らされる宇髄を想像したのか、千寿郎はくすくすと笑った。湯呑みを載せた盆を持ち、槇寿郎は今度こそ立ち上がる。
「千寿郎、客人のお相手を頼む。私は茶を淹れてくる」
「父上、お茶なら私が」
「せっかくだから制服姿を見てもらいなさい」
槇寿郎は代わりに立とうとする千寿郎に中に入るよう促した。寄宿先に寄らずに学校から直接帰ったのだろう。脇に置かれた斜め掛けの鞄は、何度見ても大荷物だ。
「学校の話も聞かせてくれよ。嫁たちには話したんだろ」
受け合った宇髄が手招くと、千寿郎は控えめに頷いた。障子を閉める間際、宇髄の物言いたげな視線が突き刺さった。
「詰襟なんか隊服で見飽きたと思ってたけど、学校の制服ってなると良いもんだな」
湯を沸かして戻った槇寿郎と入れ替わりに、千寿郎は退出した。宇髄に見せるためにかぶっていたらしい制帽は、家内に入る時は必ず脱ぐから、槇寿郎も見るのは久しぶりだった。学校の作法が厳しいらしく、槇寿郎を見るなり脱いでしまったのが少し惜しい。
淹れた茶を、差し出す前に宇髄が勝手に持っていく。手順を崩された槇寿郎は、仕方なく煎餅を入れた菓子鉢をトンと真ん中に置いた。
「千寿郎があんまり照れるもんだから、父上はちゃんと見てくれたのかって聞いたら、たくさん褒めていただきましたってさ。旦那、そういうのできたんだな」
「……今はできるだけ言うようにしている」
「ふぅん。……な、話は戻るけどよ、舞の奉納を千寿郎がやるってのはナシなのか?」
「それこそ依怙の沙汰との謗りを受けるぞ」
杏寿郎はどこまで話していたのか。自分の息子と宇髄の関係を読み切れないまま、槇寿郎は宇髄の顔を見る。人好きのする態度で接してきていないだけまだ脈があるかもしれないが、潜入も務められるという男を相手に、自然に探りを入れるのは至難の業だろう。槇寿郎はわずかな躊躇いを振り切った。
「千寿郎は呼吸を使えない」
「知ってる。煉獄に聞いた」
「ならばなぜ名を挙げた。他の隊士を不足としておいて」
「独学なんだろ。だったら旦那が教えたら物にならないかと思ってな」
槇寿郎は溜め息をついて眉間を揉んだ。校正を頼んだのは何代目の手記だったか。杏寿郎のように指南書だけで技を習得できるのは特異なことだし、手取り足取り教わって身につかなかった例などいくらでもある。
「千寿郎から、学年が上がれば撃剣の演習があると聞いた。父兄が皆剣を遣っていたわけではあるまいし、余計な癖はつけないほうがいいだろう」
「つまり教える気はないと」
「……ない」
宇髄の視線を感じながら、槇寿郎は茶を啜った。今から教えてどうなるか、というのは予想にしか過ぎなかったが、恐らく実りはしないだろう。それに、万一成ってしまったら、千寿郎が血を吐くような思いで諦めた道を、可能性として示すことになる。その時に千寿郎が責めるのは槇寿郎ではない。
「旦那、酒飲みたくねぇ?」
「……酒はもうやめたと言ったはずだ」
宇髄の一言で、とうに塞いだはずの逃げ道が頭の中で像を結ぶ。菓子鉢から煎餅を取り上げて、腹立ち紛れに音を立てて齧ると、宇髄はくつくつと愉快そうに笑った。
「じゃ、やっぱり旦那がやるしかねぇな」
「なぜそうなる」
「基本の呼吸すら揃わなくて、派生に至っちゃ引退した隠にまで聞いて回ってるんだ。五体満足で二日酔いでもない旦那がやらないわけにはいかねぇだろう。この際一遍こっきりだって構わねぇ。見取り稽古をさせるつもりで披露してもらわねぇと」
俺も輝利哉様に頼まれてるんだ、と宇髄が見せびらかした手紙には、槇寿郎を説得してほしい旨が書かれている。応じてくれないようなら僕が直接頼んでみるから、軽い気持ちで当たってほしい、という部分まで読んだ槇寿郎は、サッと顔色を変えた。
「宇髄お前、最初からそのつもりで」
「最初も何も、俺は順を追って話しただけだ。何の隠し立てもしてないぜ」
手紙を懐にしまった宇髄は、真心がそこにあるというように胸を押さえた。
「返事はお館様にしてくれよ」
- 投稿日:2021年2月23日