火と油
クロノはトレーニングの後、シャワーを浴びてからアカバの部屋を訪ねた。
クーリングダウンはしっかり済ませた。熱さを感じるのは好きな人と会っているからで、一旦自分の部屋に着替えを置きに行ったのに、うっかりタオルを首に掛けたままアカバの部屋を訪ねてしまい、アカバに「そんなにわしに会いたかったのか」とからかわれたことも一因だ。
「仕方ないだろ、会うの楽しみにしてたんだから」
「おまえには恥ずかしいという感覚がないんか?」
アカバは呆れていたが、クロノは恥ずかしく思っているからこそ言い訳をしたのだ。クロノの気持ちを知っているくせに毎回からかうアカバの方こそ、気遣いに欠けているとクロノは思う。
クロノとアカバは付き合っているが、同じ部屋にいるからと言って必ずしも一緒に何かするわけではない。今のクロノはアカバの部屋に置きっぱなしにしている本を読んでいるし、アカバはアカバで今日の任務のレポートを書いている。時々うめき声が聞こえるのは、感覚派のアカバは言語化することが得意ではないからだろう。
「……おまえ今日なんか付けとるか?」
「え?」
「甘ったるい匂いがする」
「……?」
突然振られた話題に首をひねったクロノは、任務に出ていたアカバほどではないにしろ、それなりに色々あった今日のことを思い返す。
対人の戦闘は好きではなかったが、慣れていないと却って相手を怪我させることもあると言われると、訓練室への呼び出しも受け入れざるを得ない。シライからは「得物持ちに何でそれを選んだか聞いてみろ。おまえが素手でいるのと同じだけの理由があるかもしれねぇぞ」というアドバイスを受けていて、訓練の対手には尋ねるようにしている。任務で対峙することになった相手がとっさに何を持ち出すか、巻き戻し前に予想がつく方がいいのは確かにそうだ。
「……あ。汗拭くシートもらった」
時系列順に思い出していったせいで、思い出すまでに時間がかかってしまった。げんなりした顔をしていたアカバは、クロノの発言を区切りに前を向いた。
トレーニングの小休憩中に、休憩のタイミングが重なった女性隊員がくれたのだ。差し出されたときに言われたさっぱりするという言葉の通り清涼感があり、拭いた後はタオルで汗を拭くよりもさらりとしていた。
拭いた直後からしばらくは甘い匂いがしていたものの、もう一度汗をかいたし、シャワーも浴びたから、まさかアカバに指摘されるほど匂いが残っているとは思っていなかった。クロノは自分の匂いを嗅いでみるが、鼻が麻痺しているのか、それらしいものを嗅ぎ取ることはできなかった。
「気になるか?」
ここはアカバの部屋なのだし、アカバがあまり気になるようなら出て行くことも考えなくてはならない。そう思ったクロノが尋ねると、アカバはクロノに背中を向けたまま答えた。
「別に。おまえから知らん匂いがするのが気に食わんだけじゃ」
言うだけ言って気が済んだのだろう。アカバはそれきり何も言わなくなった。
クロノはしばらくアカバの背中を見つめてから、読みかけの本に目を落とした。
一方的に打ち切られたせいで言葉が喉につかえて気持ち悪かったが、許されてアカバの部屋にいるとはいえ、任務のレポートの作成を邪魔するのは気が咎める。
クロノは今まであまり体臭を意識したことがなかった。トレーニングルームで汗の匂いがするのは分かるし、自分で自分を汗臭く思うときもある。くるまった布団からは安心する匂いがするし、一緒にいた期間が長いからか、今でもシライの部屋の匂いは落ち着く。すれ違った人からいい匂いがしたと思うこともある。
自分の匂いとはどんなものだろう。そしてアカバの匂いとは。
クロノは読書に身が入らないという経験がほとんどない。一ページめくり、前の内容が頭に入っていないことに気づいてページを逆戻りする。上滑りする文字を撫でてからアカバの背中を見て、もう一度本に目を戻す。本の文字は見るたびに崩れていくような気がした。
アカバがすぐそばにいるときは、胸の中でひよこが次々に孵っているような心地がするのだ。とても匂いを嗅いでいられるような状況ではない。アカバの匂いを思い出そうとしても、肩を組んでくるときの感触や、頬をくすぐる髪の感触の方が先に思い出されて、嗅覚が留守になってしまう。
「ッうるさいぞクロノ!」
アカバが机を叩いて振り返った。クロノは驚きながらもすぐさま言い返す。
「何も言ってないだろ!」
「視線がうるさいんじゃ!」
アカバは勘が鋭い。散々視線を送っていたせいで言いがかりだと言い切れず、クロノはむっとした顔で黙った。
クロノはアカバに口喧嘩で勝てたことがない。負けたこともない。意見が対立したときは堂々巡り、双方が疲れて終わるか、別の話題に移ってうやむやになるかが常だ。
「……アカバ」
「なんじゃ」
アカバはすっかり喧嘩モードだったが、視線がうるさいという理由で怒っているのではないことはかろうじて分かった。それならば自分に非はない。ここは譲れない、とクロノは自分の心に言い聞かせた。
「アカバはおれのこと恥ずかしいやつだって言うけど、アカバが言ってることも十分恥ずかしいと思う」
「おまえのそういうところが恥ずかしいと言ってるんじゃ!」
- 投稿日:2024年7月10日
- クロノは「わしは動物じゃないんじゃがのう」と言われたら「ヒトも動物だ」と言いそう。