以下のものが含まれます。
- 誘拐犯によるクロノとトキネの強姦の匂わせ
- 誘拐犯によるクロノからトキネへの性加害の強要
- 誘拐犯の余罪捏造
- バッドエンド
- 間に合わなかったシライ
廃工場にて
「うう……」
うめきながら目を開けたクロノは、ずきずきと痛む後頭部をさすろうとして、手が動かないことに気がついた。
誘拐されたトキネを助けるために車に張り付いて、開いていたサイドウインドウから誘拐犯の男を殴ろうとしたことは覚えている。そこで手を掴まれて中に引き込まれたのだったか。記憶が飛んでいて、こうして頭が痛いことからすると、殴られでもしたのかもしれない。
クロノはもう一度腕を動かしてみて、縄か紐か、何かしら細いもので自分の手首が縛られていることを確認した。足首も同じように縛められているらしく、両足を離すこともできない。
「どこだ……ここ……?」
クロノはざらついた地面に頬をこすりつけるようにして首を横に向けた。新たに擦り傷ができた感覚があったが、トキネの無事が分からないのだ。些細な傷など気にしている場合ではなかった。
コンクリートそのままの地面に、所々に赤錆が浮いた壁。硬く頑丈そうな金属製の梁と、同じ素材でできている柱。教室よりも高く体育館よりは低い天井には、照明らしきものが見えるが明かりはついておらず、明るく感じるのは天井の一部に半透明の波板が張られているからのようだ。
「――よぉ、お兄ちゃん。お目覚めかなぁ?」
「……!」
鳥肌が立つような猫撫で声。どうにかして声の方を向こうとしたクロノは、閉じた脇の下に無遠慮に入り込んできた手によって無造作に引き起こされた。ぶつけでもしたのか、頭だけではなく体のあちこちに鈍い痛みがあった。
「よっと、お座りしましょうねえ」
視界が広くなったクロノの目に入ったのは、だだっ広い空間の中央で、縛られた両手を頭上のクレーンフックと繋がれているトキネの姿だった。隣には三脚とビデオカメラ。目立つ怪我はなさそうだったが、常になく疲れているように見える。
「トキネ!」
「お兄ちゃん! 大丈夫!?」
「この……っ」
クロノは自分の肩を押さえている男を勢いよく振り仰いだ。
男はクロノの反応を予期していたらしく、ニヤニヤと笑いながら視線を受け止める。クロノを逃さないためか男が肩を握る力が強くなったが、それでもクロノは怯まなかった。
「トキネを放せ!」
「せっかく捕まえたのに放すわけないだろ」
「お……おれが代わるから!」
「ざぁんねん、おれは男はいらないんだよ」
「……!」
言われてみれば、トキネとトキネの友達の女の子をさらったのが最初だった。次は女の子を先にさらって、それからトキネ。トキネだけさらうことはあっても、一緒にいたクロノがさらわれたことは一度もない。誘拐犯の計画にはクロノは邪魔者でしかない。
他に交渉の余地はないものか。クロノは周囲を見回した。埃っぽい床には形の崩れた段ボールや廃材のようなものが散らばっていて、工場か倉庫であるように見える。通学路の中に思い当たる施設はない。出入り口らしい扉は見えたが、交渉はもちろん脱出の足がかりになりそうなものは何もない。
「何を探してるのかなぁ? トキネちゃんはこっちだぞぉ」
男の手がクロノの顔を掴みんでトキネの方に向ける。それから妙に優しい手つきで頬を撫でられて、クロノはぞわりと肌を粟立たせた。
「そうだなぁ……そんなに言うなら、お兄ちゃんがおれの仕事を手伝うか? それなら考えてやってもいいかもかなぁ」
「え」
助け舟と思える一言。
クロノは感じた不快感を一瞬忘れて男を見上げた。
「だめだよ! 絶対だめ!」
「うるせぇぞ! 黙ってろ!」
クロノがトキネの声にハッとしたのと、男がトキネを怒鳴りつけたのは同時だった。怒鳴られたトキネはびくりと肩を竦めたが、心配するクロノと目が合うと「大丈夫」と言うように頷いて、こわばった顔を無理やり笑顔に変える。
「わたしは平気。悪い人の言うことなんか聞いちゃだめだよ」
「このガキッ!」
気丈に振る舞うトキネに憤った男は、クロノを投げるように突き飛ばした。受け身を取れない状態で、クロノは床にしたたかに体を打ち付ける。耳には男が走って行く足音が聞こえていた。痛みを堪えながら開けた目に飛び込んできたのは、拳を振り上げた男と、殴られる衝撃に備えるトキネの姿だ。
「やめろ!」
クロノは大声を出した。
「手伝うから!」
男は拳を振り上げたままゆっくりと振り返った。
してやったりを絵に描いたような男の表情から、クロノは自分が選択を間違えたことを知った。
「よし、と。こんなもんかな」
トキネの首にロープを巻き終えた男は、輪にした逆端を、手首のロープと交換するようにクレーンフックに引っ掛けた。一度、二度と引っ張って、ロープが緩まないことを確認する。トキネの手首とフックを繋げていた部分は別立てだったらしく、束ねて脇に投げた。
「ほらもう終わった。大丈夫だったろ?」
男はぱっと両手を広げて安全をアピールする。いつ首を絞められるかと固唾を呑んでいたクロノもトキネも、一時ながら息を吐いた。
男はクロノのところまで歩いてくると、ズボンのポケットに入れていたリモコンを取り出し、クロノによく見えるようにしゃがみ込んでからボタンを押した。
ゴウンとモーターが動き出す音がして、フックを吊り下げているワイヤーロープがゆっくりと巻き取られていく。
「え、やだ」
上に向けられたクロノの視線から、状況を理解したトキネはこぼした。
クレーンとの接続が解かれようと、トキネの手首は縛られたままだ。ぺたんと座らせられた状態から立ち上がるには、足の力だけで起きなければならない。
手を前に突こうとして前傾して、巻き上がり続けるワイヤーに首のロープを引かれて戻される。ワイヤーが巻き上がる速度は定速だ。十分に思考する隙も与えられず半ば強制的に膝立ちにさせられたトキネは、地面に手を突くこともできず、縛られた手で首に食い込もうとするロープを掻いた。
「やだ……やだ、やだっ!」
「待って! やめろ! 止めて!」
焦るクロノとトキネを交互に見ながら、リズムを取るように体を揺らしていた男は、トキネの涙声とクロノの悲鳴が高まり混じり合ったところで、リモコンのボタンから指を離した。
モーター音が止まり、耳が痛いような静けさが訪れる。
立ち上がろうとして地面に転げたクロノと、首と背中を限界まで伸ばしたトキネは、浅い呼吸を繰り返しながら揃って男の顔を見る。
男はさも不思議そうにこてんと首を傾げ、見せびらかすようにリモコンを振った。
「信用ねぇなあ。大丈夫だって言ったろ?」
男はリモコンを再びズボンのポケットに突っ込むと、トキネのところに歩いて行き、逃れようにも体を小さくすることすらできないトキネを抱えて立ち上がらせる。トキネの足に力が入らないのを察して、支えがてらトキネの胸をまさぐった男は、手つきの意味を理解していないトキネの顔を見てにんまりと笑った。
「足震えてるなぁ、かわいそうに。漏らさなかったか?」
「……っ、漏らしてない……!」
「おっ、元気出たな」
バカにされたと分かる言葉を投げられ、顔を赤くしたトキネに睨みつけられた男は、ニヤニヤしながらトキネの肩を叩いた。掴んだ肩の骨の継ぎ目を探るように撫でながら、まだ地面に転がっているクロノを見る。
「お兄ちゃん、トキネちゃんお漏らししちゃったみたい。お着替え手伝ってあげられるかな?」
「漏らしてないもん!」
「うんうん、それなら確かめてみよっか。スカート持ち上げてくれるかな?」
憤るトキネをなだめながらトキネの前に回った男は、トキネに見えないよう、そしてクロノに見せつけるようにリモコンの入っているポケットに手をやる。それを見たクロノは起き上がろうともがいた。
「で、できる! おれがやる!」
「お、頼りになるなぁ。じゃあ腕解いてやるとするかぁ」
白々しい口調で言いながらやってきた男はクロノを抱え起こして座らせると、クロノの手首を縛るロープを解いていく。うなじに焦げ付くような違和感を覚えて振り返ったクロノは、男の不気味な笑顔を目の当たりにして、すぐに目を逸らした。
足首のロープも解かれて、久しぶりに両手足が自由になる。場違いと知りつつクロノがホッとしたのも束の間、男はクロノの肩口を掴んで引き寄せた。固太りの男の汗染みた肌と体臭が押し付けられ、クロノは思わず息を止める。
「逃げたらトキネちゃんが死ぬからな」
男は内緒話をするようにクロノの耳元で囁いて、ついでのように耳を舐めた。
「絵面がいまいちだな……ホームビデオにしか見えねぇ……でもこっからの急転直下がウケるかもしれねぇし……トキネちゃーん、スカートめくれる?」
三脚に載せたビデオカメラを覗きながらブツブツ言っていた男は、ひょうきんな仕草でトキネに向かって手を振った。誘拐され、首を吊らされかけたトキネが男の見せかけの愛嬌に騙されるはずはなく、嫌悪の籠もった目を向ける。
「トキネちゃーん、聞こえなかったー?」
「……っ」
「トキネ」
嫌なら自分が何とかする。男の指示によってトキネの前に座っているクロノは、湧き上がる不安を抑え込みながらトキネに呼び掛けた。
しかしトキネは小さく首を振り、クロノと目を合わせてからこくりと頷くと、縛られたままの手でスカートを掴んだ。手の不自由さから一気にまくり上げることはできず、男が口にしないながらも希望していた、焦らすような動きで太腿が露わになっていく。
「いいよいいよぉ、お腹の上までめくってね!」
他には何の音もしていない。大声を出す必要などないのに、男は口の横に手を添えて声を張る。男の存在自体を拒絶したいだろうに、声が掛かる度に存在を意識させられ体を固くするクロノとトキネをおもしろがっている。
腹の上までスカートを持ち上げたトキネは、スカートの柔らかな生地をくしゃりと掴んだ。パンツを丸出しにさせられて、恥ずかしいのか悔しいのか、それとも怖いのかが分からない。嫌な気持ちだということだけがはっきりしている。
「トキネ……」
「だいじょうぶ」
トキネは頷いた。笑えていない自覚はあった。クロノとトキネが励まし合う前に、男は指示を飛ばした。
「じゃあお兄ちゃん、トキネちゃんのパンツ脱がせてあげて。あ、その前に触ってみて。濡れてないかな?」
「トキネは漏らしてない」
怖い思いはしただろうが、トキネは漏らすようなことはしない。クロノがトキネをかばうつもりで男を顧みると、クロノが振り絞った勇気をあざ笑うように男は笑顔を浮かべた。
「触ってみて♡」
「……っ」
「いいよ、お兄ちゃん」
言うべき言葉が浮かばないまま、男の指示に抗いたい気持ちだけで息を吸ったクロノに、トキネの声が掛かる。勢いを削がれたクロノの目が「なんで」と問うのにトキネは首を振る。男がいつ怒り出すか分からない。穏やかに済んでいるうちは従う方が得策と思えた。
「ごめん……」
「へーき、大丈夫。……ごめんね」
「おれはいいよ、別に」
渋々トキネの股下に手を入れたクロノは、トキネのパンツに触った。この暑さだ。汗でしっとりしている感触はあるが、おしっこで濡れている様子ではない。
「濡れてない」
クロノはぶっきらぼうに男に報告する。
「そっか、まあいいや。じゃあ脱がせて」
「じゃあって」
「おーい、何度も言わせるなよ」
自分が見せた以上の苛立ちを口調に乗せられて、クロノは押し黙った。トキネの顔を見られないまま、トキネのパンツに手を掛けて足首まで下ろす。
「トキネ、足」
「うん」
逃げるとなったときに邪魔だろうと考えて、足をパンツから抜かせる。スカートを下ろせば外に出てもまだマシだろう。
次は何をすればいいのか。尋ねるのも嫌だったが、クロノは斜め後ろでカメラを回している男を振り返った。状況の打開策が見つからない以上、男の言うことを聞いて時間を稼ぐしかない。クレーンのリモコンを奪うか、トキネの首のロープを解くか、施設自体の電気を止めてクレーンを止めるか。スマートフォンが手元にないため時間は分からなかったが、トキネが死んでしまうタイムリミットまでまだ余裕があるはずだった。
「よしよし、じゃあ次はトキネちゃんのおまた舐めてあげて?」
「え?」
「分かる? おまんこって言った方がいいか? おまんまん? もしかしてヴァギナ? それはウケるな!」
「なに言って」
「ああー……」
言われた意味が理解できずにいるクロノの呆然とした顔を見て、男は歯茎を剥き出しにした。ビデオカメラのモニターをもう一度覗き込んでから、クロノのところまで駆けてくる。
「ごめんなぁ、分かんないよなぁ」
男はクロノの肩を抱き寄せた。クロノは耳を舐められたことを思い出して首を竦めたが、男は自分を掴んでいる間はトキネに触らないと判断して、汗ばんだ腕の中に大人しく収まることにする。男から向けられる視線は、うなじに感じた違和感と同じ感覚がした。
「分からないから、教えてほしい」
感じた恐怖をごまかすためにクロノは笑った。
この距離なら、男のポケットからこっそりリモコンを抜き取れるかもしれない。リモコンをできるだけ遠くに投げ捨てて、男が気を取られている間にトキネの首のロープを緩めて外す。足は二人とも縛られていないが、現在地が分からないから走って逃げるには不安がある。すぐに追いつけないように、男の車のタイヤをパンクさせるのはどうだろうか。幸いこの場所には忍者が使う撒菱のように使える、先の尖った廃材がありそうに思える。
「ここな、ここを舐めるんだよ」
男は考えに没頭しているクロノの頭を掴んで、トキネの股間に寄せた。驚いたらしいトキネがわずかに腰を引いたが、それでも近すぎてクロノにはトキネの下腹部しか見えない。男の汗とは違う、トキネの汗の匂いがする。
「お手本見せてやろうか?」
「いらない」
首を振ったクロノは言われた通り、自分の股間とは違って小さな谷がある以外何もない場所をぺろりと舐めた。しょっぱい汗の味がして、トキネがスカートを握りしめる音が聞こえる。
「これでいい?」
クロノが男を見上げると、男はわざとらしく顔を覆って溜め息をついた。
「おれにもそんな頃があったっけ? 全然覚えてねーや。……トキネちゃんちょっと座ろうか。立ちっぱなしは疲れるでしょ」
男はクレーンを操作した。トキネの首のロープがたるみ、男に手を引かれたトキネは、腰を抜かすようにその場にぺたりと座った。
トキネの首のロープが、先程よりもずっと解きやすい位置にある。それに仮にワイヤーを巻き上げられても、足が離れるまで時間に余裕がある。クロノは同じことを考えているらしいトキネと目配せをして、男を警戒してすぐに目を逸らす。
「トキネちゃんはこっちね」
兄妹の企みも知らずにトキネの背後に移動してから座った男は、トキネの上半身を自分の膝上に引き寄せるようにして倒れさせると、かぶさっていたスカートをめくって膝を開かせた。トキネの股下の、割れ目を備えたふっくらした丘陵がクロノの眼前に晒される。
「はいお兄ちゃん、再チャレンジ! 今度はトキネちゃんも言ってみようか。お兄ちゃんおまんこ舐めてって」
即断即決が基本のトキネではあるが、クロノは迷うトキネの顔も見たことがある。たい焼きの中身をあんことカスタードのどちらにするかとか、一本しか買ってもらえないゲームソフトのどれを選ぶかとか。それでも、トキネの目がこんな揺れ方をするのを見たは初めてだった。
「これ……撮ってどうするんだ?」
時間を稼ぎ、あわよくば男に離れてほしい一心で、クロノは男に話しかけた。
「ん? 今さら聞くかそれ。これは売る用、配信はなし」
「売る……って」
「ああー、大丈夫。同族向けの零細事業だ。お友達のこういう動画見たことないだろ? クラスの子にはバレっこないから心配ないない。何なら一本おうちに送ってやろうか? 確か住所は――」
「いらない!」
クロノは男の口から自分たちの家の住所が出るのが怖くて遮った。予想していた反応らしく、男は口では「残念」と言いつつ気にした様子がない。男の手は話している間ずっとトキネの胸部を触り続けていて、クロノは今の時間稼ぎはトキネに嫌な思いをさせただけなのではないかと不安になる。
クロノの視線を受けて、男はトキネの顔を覗き込む。
「トキネちゃんどう? おまんこ舐められたくなってきた? 膨らみも何もない真っ平らなおっぱい、ノーブラなのに乳首探すのも一苦労だねぇ」
「気持ちわるい……」
「手厳しいね! これはお兄ちゃんに期待するっきゃねぇな! ほらトキネちゃんおまんこ開いて――おっと縛ってたんだった。上手くいかねぇな。まーた編集が大変になっちまう」
男はへらへらとおどけながらトキネの股下に手を滑らせた。
◇
クロホンが取得した防犯カメラの映像を手がかりに辿り着いた倉庫で、シライは脇戸の施錠状態も確かめずにシャッターを斬り壊した。
時刻は四時五十四分を過ぎている。トキネが無事ではないことは分かっていたが、任務開始時刻まで巻き戻せばトキネの救出で手一杯になる。巻き戻すのはクロノの状態を確認してからでも遅くはないはずだ。
シャッターが崩れ落ちる音の余韻が消えたあと、倉庫の奥からずるずると重い物を引きずる音が聞こえてきた。
シライは破片を踏みながら中に入る。夏の夕暮れ、倉庫の中は薄暗くはあったが、大きく開いた間口のおかげで光量は確保できている。直射日光を避けられているだけで暑いことには変わりなく、熱中症の危険が頭をよぎる。
「あ、おじさん」
シライが足を踏み入れた入り口とは反対側の壁際に、意外なほど変わらない様子のクロノが立っていた。手にはクロノの身長の倍ほどあるはしごを持っていて、倉庫に入ったときに聞こえた音はこれか、とシライは合点した。
「何してる? トキネちゃんはどうした?」
「トキネはあそこにいる」
クロノの視線を追って上を見上げたシライは、天井クレーンによって吊り下げられたトキネの姿を認めた。
死体だ。間違いなく。トキネの死亡時刻を過ぎているからではない。飾り物のように力なくだらりと垂れた四肢は、生きている人間ではありえなかった。
「トキネを降ろしてやらないと」
言って、クロノは再びはしごを引きずり始める。クロノの身長に比すれば大きなはしごだったが、天井近くに吊られたトキネを降ろすには高さが足りないのは明らかだ。そのことがクロノに分からないはずはなく、クロノがどれだけ混乱しているかということが伝わってくる。
「貸せ。おれがやる」
「おいシライ!」
シライは手を伸ばしながらクロノに歩み寄った。クロホンが制止するのはもっともだ。ターゲットの救出に失敗した時点で任務は失敗で、今すぐ巻き戻しするべきだった。今までに携わったどんな任務でも、ターゲットの救命措置なんか取ったことがない。それでも、次回に持ち越されるクロノの記憶に、無残に吊るされたトキネの姿を残したくなかった。
クロノからはしごを受け取るシライの目に、転がっている小さな靴と破片が映った。見ればクロノは片方しか靴を履いていない。はしごを取りに行く余裕はあるのに、片足だけ脱げた靴を履き直す余裕はないのか。擦り剥けた手のひらに肘、膝が汚れたズボン。ただ怪我をしただけにしてはおかしな歩き方。
――クロノはこんなにも目を合わせなかったか?
考えながら、シライは空気の匂いを嗅いだ。
行動の自由度を確保するために単独任務が基本のシライだったが、絶対に人と組まされる案件があった。その時のシライは露払いに徹する。未遂に終わらせれば済むから一人でいいだろ、と言ったのは初回だけだ。
「……何かあったか?」
「何も」
どこでもない方を見ているクロノは首を振った。
「何もねえことはねえだろ」
シライが目を合わせるために地面に膝を突くと、クロノはびくりと体を竦めた。今までしたことがない反応。シライが探りを入れる前に、半歩後ずさったクロノはもう一度首を振った。引っ込み思案らしいくせに、誰何するときは真っ直ぐにシライの目を見てきたクロノは、まだ目を合わせない。
「何もない。おれもトキネも、何も」
不自然なまでに凪いでいたクロノの瞳がゆらりと揺れて、そこで止まる。目の縁ギリギリまで溜まっているくせにこぼれない涙。喉が渇くような心地がする。別れてからたったの一時間だというのに、クロノは何日も寝ていないようなひどい顔をしている。濡れて乾いたような跡。涙と鼻水と涎と、それ以外の何か。臭いの原因。任務に赴くシライが聞いたトキネの死因は交通事故だ。犯人がいる事件ではなかった。
シライが立ち上がると、クロノはもう一度体を竦めた。シライは気づかなかったふりをする。
「……クロホン、おれはトキネちゃんを降ろす。そいつを頼む」
「任せろ!」
クロノの靴の隣に落ちていた破片はクレーンのリモコンだろう。人為的に壊されている。だからクロノははしごを運んでいたのだ。
助走はいるが、足場はある。トキネの遺体を降ろすのに何も問題はなかった。
シライは抱き留めたトキネの体がクロノに見えないよう、スーツの上着にくるんでから床に横たえた。既に事切れているのだ。暑さに対する配慮は必要がなかった。
トキネがどういう目に遭ったのか知っているからだろう。それも身をもって。トキネの隣に座り込んだクロノはシライの上着を剥がそうとはせず、少ししか出ていないトキネの顔を覗き込んでいる。ぼんやりした表情からは何も読み取れない。
シライに守りを任されたからか、クロノと一緒になってトキネを見ていたスマホンは、シライが動かないことに気づくとシライの方に飛んできた。
「シライ、早く巻き戻ししねえと。ガキに長々と見せるもんじゃねえぞ」
「悼む暇はねえか。暑いと傷むのも早いしな」
「悼む必要すらなくすのが巻戻士の仕事だろ!」
「違いねえ」
シライは眼帯を引こうとした手を止めた。
なぜかクロノはこれまでのできごとを覚えている。数多くの任務をこなしてきたシライにとっても初めての事例だ。研究員からも、隊長からも聞いたことはなかった。
巻戻士の場合は、死ねば記憶は引き継がれない。
リトライアイを有さずとも記憶が保持できるクロノにも、それは適用されるのか。
クロホンに尋ねようとして、シライは口を閉ざした。
横目で見ると、罪人のように頭を垂れたクロノはまだトキネを見ている。
何があったのかは聞かなかった。全てはシライの推測の域を出ない。次回は徹底的に違うルートを選ぶ、それだけだ。トキネとクロノ、どちらのそばも離れない。
シライは眼帯に掛けていた手を下ろした。外の気温がいくらか下がったらしく、目が慣れた上でも一段階暗くなったと感じる倉庫の中に、二人を探していたときには聞こえなかった蝉の声が流れ込んでくる。風がないせいで空気は重く沈んだままだ。
シライは静かに鯉口を切った。
- 投稿日:2024年7月21日
- どう考えてもシライが「悪いな、遅くなっちまった」と言いながら入ってくるビジョンしか浮かばなくて困りました。