あの日あの時
雨が降っていない日でも、何となく湿った空気のある場所だった。
色褪せたビールのポスターに、生活道でもないのに貼られた政党のポスター。排気ダクトから流れ出る油の臭いが降り積もりでもしたのか、歩くと靴裏がべたつく感触がある。
「そんなところに座っては汚れるだろう」
着ているのが学生服だったから、話しかけられた当初は補導だと思った。
しかし目に入った相手は一人だけで、シライはすぐに補導員ではないと気がついた。繁華街の路地裏。酔っ払っていない大人が一人で歩くには遅い時間で、そぐわない場所だ。
「ここで何をしている?」
「……人を待ってる」
問いかけに答えたシライは、前触れなく突然現れたように見える男の品定めをした。
武道をやっている人間の立ち姿だ。この体躯で沿い方で、スーツが既製品ということはないだろう。スキンヘッドに眼帯というのは怪しんでくれと言わんばかりの風体だが、崩れた感じがしないところが組織に属する人間だと思わせる。
――右目に眼帯。あいつらもそうだったか。
たった一度の邂逅は、ありもしない故郷の記憶のようで、思い出すたびに胸の奥がうずく。それは紛う方ない痛みだったが、シライの知る中では唯一の、不快感を伴わない痛みだった。
ゴミ箱に腰掛けたシライは目を伏せて、自分の座る位置とは逆端にある、暗がりだか汚れだか分からない部分に視線を流した。今日の寝床はもう決まっている。このまま男に留まられて、面倒なことになるのはごめんだった。
シライは浮かんでいた面影を心の奥にしまい込んで、もう一度目を上げた。営業スマイルなんてものはない。
「あんたは? ケーサツには見えねえけど、説教なら他を当たってくれ」
「説教ではないが、きみに用があってきた」
「へえ……どこかで会ったか?」
「初対面だ」
誰かの親にしては若いし、兄にしては年が離れすぎている。何より真っ当な用件なら、学校の外で接触してくるわけがない。シライを知る人間で学校の敷地に入れない大人というのは、概ねまともではない人間ばかりだ。
男がシライに向ける視線は、シライの知る「子供を見る目」ではなかった。どちらの意味でも。
男の立ち位置はシライの間合いの外側だ。ゴミ箱から下りて、一歩踏み込んで竹刀を振り抜いた距離の外。後ろに組まれた腕に何か持っているのか。眼帯をした右側は死角になるのだろうが、そちらを取って有利になれる気がしない。
見据え続けるシライを見かねたか、男は背中から両手を出した。手のひらを開いて何もないことを示す。
「警戒しすぎだ。おれは話をしにきただけだ」
◇
あの日、本来会うはずだった相手がどうなったかをシライは知らない。
男に連れられた巻戻士本部で、シライのスマートフォンは圏外になっていた。
貸与された端末の表示から、男の名を知ったのは翌朝のことだ。
「あの時にあんたがおれを抱いていたら、こんなみじめな思いはしなかった」
完全な八つ当たりだった。
言っている途中でそうと気づいても、口から出る言葉を止められない。
ゴローは足元に座り込んでいるシライの手を子供にするみたいに柔らかく握り、一度も熱を持たなかった陰茎から外させた。微塵も動揺が見られない、無論、性的興奮なんか全く感じられない乾いた手だ。
ゴローは逆の手でポケットからハンカチを取り出して、シライの口元を拭った。オーデコロンとは違う、洗剤らしい香りがする。
「おまえには十分すぎるほどもらっている。自分の任務達成率を知らないわけではないだろう」
「おれがやったのは組織にであってあんたにじゃねえ。おれはあんたに――」
「シライ」
ゴローに強く肩を掴まれ、シライは口を閉ざした。
シライは自分の裁量で渡せるものを自分の体くらいしか持たなかった。いらないと言われた、それでも無理に押し付けようとしたのは、もらってばかりの優しさに押しつぶされそうになったからだ。ゴローがただの人間で、ただの男であることを知って安心したかった。
「おまえはもう巻戻士だ」
- 投稿日:2024年8月27日
- ラブ・ストーリーは突然にみたいなタイトルになってしまった。