適切な時間の過ごし方

「いいコ揃ってますよ! お兄さん達どうですか!」
 完全に条例違反の客引きだったが、警察と名の付く組織に属していても、それを取り締まるのはシライたちの仕事ではなかった。
 大柄な男二人、人相もよくない。よく声を掛けられたものだと思うが、引っ張り込んだ客で収入が変わる歩合制ではいちいち相手を見ていられないのだろう。
 シライは知己に会ったかのごとくまとわりついてくる客引きの声を聞き流し、ずんずんと先に進むゴローの背に従う。行きは本部前からタクシーだったし、相手のためには送迎も頼んだ。しかしゴローが地下鉄で帰ると言うのなら、部下であるシライがタクシーでというわけにはいかない。
 酒が入っているのに会話の弾まない帰り道。お互い気力は会食で使い果たしている。客引きの声はすぐに雑踏に紛れて聞こえなくなった。
「おれと隊長じゃ付き合ってる風には見えねえよな」
 自嘲半分。沈黙に耐えかねたのがもう半分。冷え込みの厳しい夜だったが、決して前を歩くカップルの繋いだ手が羨ましかったわけではない。
「なあ隊長、酔い覚ましに休まねえ? さっと済ませ澄まして帰ろうぜ」
 シライは冗談めかしてゴローに声を掛けた。
 筋を一本入ったところにはホテル街がある。声を掛けるタイミングを計っていたわけではなく、この区画は全体的にそうだ。
 潰れては看板だけ掛け替えてオープンするまずい居酒屋と、味は二の次の奇をてらったダイニングバー、いくつかのまともなチェーン店。飲食店の入れ替わりの目まぐるしさに比べて、その手のホテルの新陳代謝は緩やかだ。
「おれは本部に戻る」
「残念。じゃあおれ飲み直してから帰るわ」
「承知した。気を付けて帰れ」
「りょーかい」
 今日の予定は直行直帰。互いに勤務時間という定めに縛られる身ではないから、戻ったゴローが酔っ払った頭で仕事を再開するのもまた自由だ。
 断り文句を聞いたシライは素直に引き下がると、元々決まっていたかのようにゴローと帰路を違えた。どこに行くというあてはなかったが、誘いを断られた状態で、本部まで肩を並べて帰る気はなかった。

 目の前を途切れることなく流れていく車は、羊を数えるよりも眠気を誘う。
 横断歩道の信号が変わるのを待っていたシライは、意識していなければ視線と共に下がってしまう瞼を一度強く閉じた。
 酔えない状態を抜け出したから、一気にアルコールが回ってきているのだろう。なのに寒さは骨身に染みて、シライは首を竦めて体を震わせた。
 シライがゴローに求めたのはぬくもりではなく、空腹を紛らわせるように性欲を発散できる相手だった。最近になってゴローが自分以外と寝ているのはつまらないという感情が湧いてきたが、出せる以上を求められる面倒さを知っているから、割り切れない思いの湧出はゴローに悟られないようにしている。
 まともに考えればデメリットの方が大きい関係だ。最初の一回は間違いにしろ、お互い大人なのだから、波風立たせず解消できるタイミングはいくらでもある。なのに関係は一向に解消されず、シライは三日前にもゴローの部屋に押しかけた。多忙を理由に断られることはあっても、連絡を取り合わなくとも顔を合わせる間柄だ。体や性格の相性より、調整の労を取らずとも機会を得られることが長く続いている理由だった。
 周囲の動きによって信号が変わったことを知ったシライは、流れに乗って歩き出した。眠気に抗うことにリソースを割いているシライの頭は今、ゴローが「付き合っている」を否定しなかったことに蝕まれつつある。
 如何なる媒体で知ったのかは忘れたが、大人は「好きです、付き合ってください」から交際を始めるわけではないという。もしかすると、ゴローの認識ではシライとゴローは交際しているのかもしれなかった。つまり二人の関係は排他的なものだということだ。
「……バカバカしい」
 シライは調子に乗り始めた頭を冷やすために、ゴローが来る者拒まずの精神で他とも寝ていることを考えてみるが、ゴローに対する積年の信用がその仮定を許さなかった。ゴローはそういう爛れた真似をする男ではない。シライはゴローが一回り以上歳の離れた、部下である自分と寝ている事実を棚に上げて否定する。
 向こう岸に足を踏み入れたシライは、昼間とは違う顔を見せる通りを睨むように見渡した。飲み直すというのは別れて帰るための言い訳だったが、無性に酒が飲みたかった。


   ◇


 ゴローは斜め下、机の袖にもたれて眠そうにしているシライを見下ろした。
 業務に必要なものは手元にある。引き出しが使えないことは些細な問題だった。
 シライは明らかに酔っている。会食にシライを帯同したのはゴローなのだから、シライの深酒はゴローの責任だ。誘いに乗らないとしても、こうまで酔うならシライが飲んで帰ると言ったときに止めておくべきだったのだ。
 そう考えてから、ゴローは今のシライの年齢を思い出し、自分自身の酔いの深度を探り直した。アルコールの代謝能力は加齢と共に落ちていく。会食中の酒量ならまだしも後のことまで気にするのは構いすぎだ。自分で思っているよりも酔っている可能性がある。
 ゴローは机の端に置いているペットボトルに手を伸ばした。
 シライが訪ねてきたとき、仕事を中断しようとするゴローに続けていいと言ったのはシライだ。終わるまで待つと言うのを帰らせようとすれば、シライは明日じゃ言えないと渋り、シライがそばにいて支障が出る業務ではなかったから在室を許可したが、静かだからといって邪魔にならないわけではなかった。
 シライは見るからに退屈そうにしながらも、ゴローに進捗を尋ねたり、話しかけてきたりはしない。ゴローの仕事の進捗管理がシライの領分ではないからと言えばそれまでだったが、ゴローの机のゴローが座る側という、素面なら決して立ち入らない領域に踏み入っておきながら、妙に弁えているのがおかしかった。
「……終わったら起こしてやる。眠るならそこのソファを使え」
 ゴローはペットボトルのキャップを締めながらシライに声を掛けた。あと半刻ほどで切り上げられると見込んでいたが、立てた膝に頬を預けているシライは今にも眠りに落ちそうで、いっそ眠ってしまってくれた方が気楽だった。
「シライ」
 すっかり集中力の途切れたゴローはシライをもう一度見下ろし、肩ではなく頭に手を伸ばした。
 触れた髪は整髪料のせいでごわごわと固い感触がする。行為の後にシャワーを浴びたシライのお坊ちゃんじみた艷やかな髪を見たとき、ゴローは自分がしでかしたことの大きさに気づいたが、シライが「このままもう一回するか?」と動揺をからかいながら乗ってくるのを拒まなかったのは、戻れる場所などなかったからだ。
 ゴローはシライがどこまで自分の手の中にあるのかを把握していない。繋いでいるというよりは付かず離れず、気まぐれに現れる野良猫に餌をやるような付き合い方だった。体の関係を絶ったとしても、シライはまさか巻戻士を辞めはしないだろう。
 しばらく撫でられるがままになっていたシライは、事態の異様さに気づいたのかゴローの方に顔を向けた。実年齢と釣り合わない顔立ちが、ぼんやりしているせいで余計に幼く見える。
 と、眠そうな顔のままシライは笑った。
「隊長、セックス上手いのに撫でるの下手だな」
「……悪かったな」
「まだ終わってねえんだろ。遊んでる暇あんのか?」
 ゴローは喉元まで出かかった文句を飲み込んだ。今回の仕事が滞っているのはシライのせいではなく自分のせいだった。
「……あの後どれだけ飲んだ?」
「飲んでねえ」
「それにしては帰りが遅い」
「店探すのが面倒くさくなって、歩いた」
「……そうか」
 それだけ歩いたなら酔いが醒めてもよさそうなものだが、必要なのは発言の真偽を確かめることではない。
「気分転換だ。おまえの話を聞こう」
「なんだよ、それならヤろうぜ」
「そこまでの時間はない」
「ふうん……じゃ、いいや」
 シライが体を前に傾けるのを見てゴローは手を差し伸べたが、シライは「サンキュ」と言葉だけ返して一人で立ち上がった。床に座りっぱなしで体が固まったのか、上司の前だということを気にもせずに思い切り伸びをする。あくびか溜め息か、聞こえる吐息は曖昧だ。
「忘れてくれ、隊長。また明日――いや、今日か?」
 首を巡らせて時計を探したシライは、壁掛け時計に目を留めると「ギリギリ明日だな」と、眠気のせいかいつもより緩い笑みを浮かべた。


   ◇


 最後の一人を送り出してしまえば、シライが知る限り今までで一番の大騒ぎだった多目的室も、空調の音が聞こえそうなほど静かになった。
 振り返ったシライは部屋の中央に歩み出したゴローを観察する。
 空っぽの右袖。顔面に刻まれた年齢と知らない傷。失った片腕の重さ分のバランスを取るためか、歩き方が少し異なるくらいで、それ以外の何もかもがゴローだった。
「巻戻士として行ったり来たりしちゃいたが、転送先でずっと暮らすってのはなかなか聞かねえな」
 隠し部屋がどこにあるかは聞いていない。この老いた男が創設から関わっていると言うのならば、クロホンの検知に掛からなかった理由は付けられるが、シライの探知能力をもってしても感じる気配は目の前にいたゴロー一人分。思い返してみても、ゴローの言動に人を騙しているような不自然さは感じられなかった。
「おい、何か言うことねえのかよ」
「おれについての説明ならさっきしたもので全部だ」
「それでおれが納得するとでも?」
「思っている」
 そうだろう? と口に出さないままの思考を匂わせる微笑み。シライの知るゴローなら絶対にしない表情だ。いつものゴローの自己完結とは違う身勝手さに苛立ったシライは、再度ゴローに呼びかけようとして言葉を飲んだ。
 説明された内容に矛盾はなかった。目の前の男がゴローであるということは疑うべくもなく、シライはクロノや他の隊員たちの前でもそれを通した。だが、まだ、シライの中にある「隊長」という言葉は別の男の姿を象っている。
 シライの逡巡を見透かしたようなゴローの眼差しをシライが睨み返すと、ゴローは読んでいた本に視線を戻すように穏かに視線を外した。この沈黙を打破すべき静けさと思っているのは答えが欲しいシライだけで、ゴローの方には楽しんでいる気配さえある。
「そうだな……ひとつ、おまえだけに伝えられることはある」
 人がはけたばかりの部屋には、煮え立とうとする腹に注げるだけの水がない。シライはゴローを睨みながら続く言葉を待った。この「待ち」の時点で負けなのだと分かっていたが、シライには他にできることがなかった。
「こうなる前におまえと別れておくべきだった。おれはおまえが相手なら、責任を持てると思っていた」
「……!」
 驚きのままに目を見張るシライを見るゴローの表情は凪いでいて、ことの発端であるスパイの一件を忘れてしまったようにすら見える。
 シライは遅れて湧き上がる感情を抑えつけた。取り乱しても、聞き分けよくしても、どちらにしてもゴローは対応するだろう。それならばマシな方を選ぶだけだ。シライは怒りで焼き切れそうな神経を撚り合わせて、一矢報いてやりたいという衝動を腹の底に繋ぎ止める。
「……それ、いつ考えた?」
3時スリーオクロックといた頃だ」
「えらく昔の話じゃねえか」
 シライからすればついさっき。しかしゴローにとっては最低でも十五年、長ければ三十年も前のことだ。それはシライの人生全てを飲み込んでしまえる長さで、シライが今のゴローの気持ちを理解できるようになるだけの時間を過ごした先に、きっとゴローはいない。
 間合いを詰めようとする自分の足をシライはその場に縫い留める。巻戻士になってから、意識せずともできるようにした様々なこと。ゴローはシライの成長過程の全てを知る唯一の人間だったが、そのゴローの前だからこそ、自分のコントロールを失う無様を晒したくなかった。
「隊長が出先でおれのことを考えるとは思わなかった」
「考えるに決まっているだろう」
「そりゃそうか、おれは手の掛かる部下だからな」
「おまえの思うおれは随分薄情なんだな」
 笑みを含んだ諭すような声が、シライの目を真実に向けさせようとする。シライは自分がいつゴローから目を逸らしてしまったのか分からないまま床を見た。目で見なくとも、ゴローが自分を見ているということは肌で感じられる。
「シライ」
 ゴローの声に意識が引かれるのは習い性だ。記憶と違いを探してもゴローはゴローで、ここで意地を張っても無意味だということは分かっている。
 もっと早くに別れておくべきだったのだ。
 シライはいつかのゴローに同意した。

投稿日:2024年11月7日
隊長帰還前に書いてたネタなのですが最初どうするつもりだったのかを完全に忘れました。