安心毛布の本分

「待って、先に報告書書かないと」
 部屋のドアを閉めた直後、クロノは待ちきれないように抱きすくめてくるシライを押し留めた。驚いた顔をするシライを見る間に、ロックが掛かったことを示す電子音が鳴る。
 シライの卓越した運動能力により巻き戻しリトライ回数は二人が組んだときの中央値に収まったものの、今日の任務は二人体制で挑むことが納得の難度だった。報告書を書くために記憶を辿るだけでも脳が焼き切れそうな気がする。記憶力には自信があるが、余計な補正が入る前に要点だけでも書き出しておいたほうがいい。
 シライはクロノを壁に押し付けた姿勢から動かず、任務で埃っぽくなっているクロノの頭を撫でた。うなじを撫でてくる指に誘われ口を開けそうになったクロノは、慌てて唇を真一文字に引き結んだ。愉快そうに細まるシライの目を睨みつける。
「こんなごちゃついた頭で書けるかよ」
「書くのおれだよ」
「だから言ってる。一回頭空にしようぜ。そもそも部屋に入れておいて、今さら待てはないだろ野暮天」
 任務後にシライがクロノの部屋に上がり込んでくるのは今日が初めてではない。学年と同じく一年先輩であるシライの部屋はクロノの住まう部屋と階を同じくしているものの、部屋に面した通路は異なる。クロノと同じ道を行くはずのないシライと共に歩くとき、クロノはニホンオオカミの習性を思い出すのだ。その先でどうなるか分かっているのに追い返さないおかしさを、クロノは自分で分かっている。
「……せめて部屋の中にしてほしい。玄関は嫌だ」
「りょーかい」
「床も嫌だ。腰が痛くなる」
「注文が多いな。おれが下になればいいだろ」
「おれは上に乗るのが好きじゃない」
「へぇ」
 シライのからかうような相槌を聞いたクロノは目を逸らした。好きじゃないと言ったものの、前に上に乗せられたときに常にない盛り上がり方をしてしまったことは覚えているから、きっと忘れていないだろうシライの顔を見るのはまあまあ気まずい。眉間に皺を寄せて、顎の下を撫でてくるシライの手を無視しながら、恥ずかしさの波が過ぎ去るのを待つ。
 クロノの頑固さを知るシライは、何も言わずにぱっと両手を離した。
 部屋の主であるクロノを置いて靴を脱ぐと、自分の部屋かのように短い廊下を歩き出す。
「おれはまたやりてえな。考えといてくれ。おれの誕生日とか」
「今何月だと思ってるんだ。気が早すぎる」
辛抱できない卑しん坊ってか。信望を損ねるとは分かっちゃいるが、おれは目の前の肉を食わずにいられるほどお行儀よくできねえ。気が早いんじゃなくて気が逸るんだよ、おまえといると」
 そうは言うが、シライはいつだって涼しい顔をしている。ベッドの上で余裕を崩さないのはもちろんのこと、任務で作戦の立案を担うクロノが今回こそはまずいかもしれないと思っても、難なくこなしてしまうのだ。言葉遊びを繰り返すシライの本心は掴みどころがない。
「クロノ?」
「今行く」
 数歩も歩けば終わる廊下だ。入ってこないクロノを不審に思ったか、先に入った部屋から顔を覗かせたシライにクロノは返事をした。

 出たときと寸分変わらないどころか一か月前とも変わらない部屋の真ん中で、シライは料理が出てくるのを待つような顔でクロノを待って立っていた。部屋の間取りはシライの部屋と同じで、シライはクロノが予備のコンドームをどこに仕舞っているかも知っている。
 ベッドに腰を下ろすやいなや伸し掛かられて、上体をベッドに沈められたクロノは、ぎゅうとシライの体を抱き返した。クロノが足をベッドに上げると、シライもベッドに上がり切る。抱き締める腕を緩めると、逆光だというのに光って見えるシライの目と目が合った。
「もういいか?」
「いいよ。おれもしたい」
「ありがとな。いただきます」
 シライ本人と周囲からすっかりシライの相棒扱いを受けているクロノだったが、シライは自分ではなく実力が伯仲する人間と組んだ方がもっと成果を上げられるのではないか、と思ったことがある。業務の改善を思うだけで済ませるクロノではないから、思った翌日にゴローに打診した。
 直してほしいところがあるなら言ってくれ、と神妙な顔をしたシライがクロノの部屋を訪ねてきたのは更にその翌日だ。あの頃のシライはまだ、クロノが招き入れるまで部屋に入らなかった。
 ゴローへの相談はシライが単独任務でいない隙を狙ったわけではなかったが、結果的にそうなってしまった。やましいことは何もなかったから、言い訳はしなかった。ゴローに説明したのと同じように思っていたことを順を追って伝えて、なだめすかして慰めて、シングルベッドよりいくらかだけ小さい男を子供みたいに抱いて眠った。合宿以来の雑魚寝だった。
 シライとの思い出は人に言えないものばかりだ。この後に報告書を書く気でいるクロノを気遣ってか、初っ端から入ってきた舌を受け入れながら、クロノはシライの背中を撫でる。なだめるためではなく、高めるために。
 学生時代の思い出は健全なものだったが、職業柄出身時代が推定できる話はできないから、クロノはシライについて他人に話せることがない。クロノとシライが組んでいる理由が本部の七不思議に数えられようと、クロノにはどうすることもできないのだ。
「クロノ、何考えてる?」
「先輩のことだよ」
「おまえがそんな陳腐なごまかしをするとは思わなかった」
「ごまかしてない。本当のことだ」
 クロノは口を尖らせているシライのネクタイに手を掛けた。おまえの手がすげえ好き、と言われたときに、おれの体で好きじゃないところどこ、と尋ねて饒舌なシライを沈黙させたことがある。おかげで銃の手入れは捗ったが、倍以上の時間を掛けて「好きじゃないところ探し」をされて、休息のための時間は大いに無駄になった。
「おれとおまえのリトライアイを交換したら、考えてることも全部伝わんのかな」
「……先輩は何が知りたいんだ?」
 クロノがサイドチェストに置くつもりだったネクタイを、シライは床に落としてしまう。目で追ってさらした首筋を舐められて、やっぱり先に風呂のほうがよかった、とクロノは思った。先に休みたいと言ったのはシライで、乗った結果がこの体たらくだ。
「おれじゃねえよ。おれはちゃんと分かってる。分かってねえのはおまえだよ、クロノ。任務じゃあんなにおれのこと分かってるくせに、他は全然だ」
「おれは見て聞いたことしか分からないよ。先輩とは違う」
 片手でクロノのシャツのボタンを外していたシライは、埋めていたクロノの首筋から顔を上げた。シャツの前立てから離した手をクロノの脇につき、クロノを真正面から見据える。
「おれはおまえが好きだ」
「知ってるよ。もう何度も聞いてる。おれもシライ先輩が好きだ」
 やっぱりな、とシライは諦念を含んだ笑みを唇に刷いた。
 クロノとの対話を面倒くさがらず、意見がぶつかることを面白がっている気配すらあるシライが、この件についてだけはうやむやのままに済ませる。
「おれ分からないよ。先輩はおれにどう答えてほしいの」
「別に何も。ただ知ってほしいだけだ」
 巻戻士として一年間活動したとき、クロノは入隊からたった一年で組織にとって不可欠な人間になったシライの異質さを理解した。学校という数歳差の人間がひしめいた環境を離れ、年齢に幅のある粒ぞろいの組織に身を置いてもなお抜きん出る才質は、弛みない努力によって一層磨きが掛かっている。
 クロノと過ごした二年間の中学校生活を、シライは今でも宝物のように言う。子供の一年と大人の一年は長さの感覚が違うなどと理屈をこねずとも、クロノにとっても特別な二年間だったから、そのことに異論はない。
 誰もが知りたがる、シライがクロノを傍らに置きたがる理由は怠慢だ。シライは自分の得手不得手をはっきり理解していて、始末書の作成のように苦手なことをやりたがらない。相応しい相棒を探すことを、一から人間関係を構築をすることを、シライはやりたくないのだ。あれだけ大事に持っていた竹刀はしばらく見ない間に刀に持ち替えていたくせに、一時は放置していたクロノをいつまでも連れていようとするのは、人間には対話が必要だからだ。ゲームをしないシライは、後の方がいい装備が手に入ることを知らない。
「シライ先輩、続きをしよう。頭を空にさせてくれるんだろ」
 待っていても続きを始めそうにないシライを急かすべく、クロノは体を起こしてシライに口づけた。これがシライの作戦ではないことを祈るばかりだった。

投稿日:2024年8月31日
書き始めたときは明るい話だったはずなのに雲行きが怪しくなってしまった。ひなべさんの1歳差の先輩後輩、入隊時期が同期な方のカラー絵のシライの顔が好きです。