二度目の結婚
「あった」
玄関入ってすぐの廊下。古紙をまとめた束を横から覗き込んでいたクロノは、目当ての雑誌を抜き出すためにビニール紐を解いた。
表紙を飾る幸せそうな微笑み。ひなあられのようなふわふわした色の文字。結婚の実態を知ってしまった今となっては空々しく思えたが、別に結婚する前だってこんなパステルカラーの日常を思い描いていたわけではない。
話し合った末の、円満な離婚だった。
感情を高ぶらせることがないのはお互い様で、その性質が丁度よくて一緒になったはずなのに、別れたのも同じ理由だった。支え合い、補い合って暮らしていくには、二人は似た者同士過ぎたのだ。
一人でも二人でも変わらない生活。互いを必要としないのなら、一緒にいる必要もない。本物の「もう一人の自分」を知るクロノは、配偶者を使える頭数が増えたと割り切れるほどドライではなかった。
披露宴でぎこちなく行った「初めての共同作業」から一年と四か月。結婚生活は、途中から結論を出すための期間になっていたように思う。共に過ごしたなりに影響を与え合ってのいたのか、離婚が決まってからの家の片付けは、共同作業としては一番それらしく進んだ。
――力仕事だし、時間に自由がきくからおれがやっておくよ。
そう言って最後のゴミ捨てを買って出たくせに、まだ果たせていないことに気まずさはあったが、言い訳を聞いてくれる相手はもういない。クロノは自分が履いてきた靴しかない玄関を見て、それから雑誌に目を戻した。
床にあぐらをかき、クロノはどこまでが広告でどこからが記事なのか分からないページをぱらぱらとめくる。一緒に見た日の記憶を引き出してしまう前に、最初のページにあったことを思い出して、一度雑誌を閉じる。
改めて表紙から開いた中には、ピンク色をした婚姻届があった。
実際に提出した婚姻届は政府のポータルサイト経由で埋めたものを使ったから、付録の婚姻届は全ての欄が未記入だ。
クロノは証人を記入する欄を指でなぞり、離婚届の証人欄を、婚姻届の証人欄を書いたのと同じ人達に書いてもらったことを思い返す。クロノが頭を下げて詫びることを、負担と思わず受け入れてくれる人達だった。
そのときのことを思えば、きっと簡単にできるはずだった。
◇
「シライ、結婚しよう」
カレーうどんを食べていたシライは、目の前に置かれたビビットピンクの用紙に目を見張った。それが役所の届出用紙であることを理解すると、一気にすすり込むつもりだった麺を噛み切り器に戻す。
「座っていい?」
「ん」
食べながら返事をしたシライは、もごもごと口を動かしながら左上に打ち出された「婚姻届」の文字を確認し、ほぼ完全に埋まっている記入欄を目で追った。内容を確認するのは上司としての習性だ。付箋が貼られた空欄は、どうやらシライが記入すべき箇所らしい。
巻戻士の身分は政府が保証しているから、クロノがこの時代のシライの本籍を知っていることに不思議はない。現住所も同じくだ。生年は出身時代を秘匿するために本部の暦に合わされているが、シライはとっくに巻戻士としての人生の方が長くなっているから、こちらの年号の方が馴染みがあるくらいだ。
シライの記憶が正しければ、記載されている内容に誤りはない。
変わることのないクロノとの年の差。届出日の和暦からクロノの今の年齢を計算したシライは、十二を足した自分の年よりもクロノの年にショックを受けた。二十六歳。クロノが入隊したときのシライと同じ年齢だった。
「プロポーズの場所を選ばなかったことは謝る。シライは初めてなのに」
シライはしおらしい声で何やら言っているクロノに意識を残しつつ、それとなく周囲の様子を探った。
昼食時の賑わう食堂で、傍目には向かい合わせに座っているだけのクロノとシライを気にする者は誰もいない。クロノの声も、隣のテーブルにまでは聞こえていないだろう。
シライはコップから水を飲んだ。
第一声を間違えれば詰む。
根拠のない予感だったが、シライは自分の危機察知能力に自信があった。
「……汚しちまうと悪いから、一旦仕舞ってくれ」
「使える状態にしておいていいのか?」
完全な回避ではない。が、まだ決定的な状態ではない。
シライは「ああ」と短く答えて頷いた。
「……シライは、おれと暮らせるのは最高なんだろ」
婚姻届をクリアファイルに入れながらクロノが言った台詞に、シライは聞き覚えがあった。
一昨日だ。クロノが休みになる前日に、シライから飲みに誘った日だ。
長年独身貴族をやっているシライは、既婚者との付き合い方には詳しい。就業時間が不規則な仕事で、世間一般の帰宅時間に帰れる貴重な日に所帯持ちを連れ出すまずさは分かっていたから、シライがクロノと飲むのは実に一年ぶりのことだった。
腹を膨らせることに注力した一軒目、口を変えたくなって移った二軒目、居酒屋のデザートメニューの少なさを嘆きながらファミレスを挟んで、飲み足りないからとバーに入った。正確には一昨日ではなく昨日のことだ。
はじめの頃を思えば、クロノの表情には柔らかさが出たと思う。理由がCase999の攻略にあるのは確実で、けれども、それ以前から徐々に変化はしていた。アカバやレモンとの出会いは本当にいい出会いだったのだ、とシライは中学時代を懐かしく思い出す。
クロノが離婚したのを機に誘ったのだから、酔いに目元を染めたクロノに「おれが離婚するの待ってた?」と言われても否定しようがなかった。
シライは「おれは伴侶と無遠慮に無縁の男だからな」と返して、クロノが「おれも伴侶には無縁だったみたいだ」と自嘲したものだから、傷心の弟子を励ますつもりで言ったのだ。
「――言ったな。でもそれでおれと結婚するのは短絡的だろ」
「酔った勢いだった?」
「調子に乗ったわけじゃねえ。銚子は出てなかったろ。日本酒は飲んでねえから」
クリアファイルが視界から消えてから、シライは食事を再開した。
エイプリルフールは今日じゃない。
個人主義の時代と言っても、世間体というものは未だに存在する。クロノはまだ二十六、一回りも上の相手を視野に入れなければ結婚できない年ではない。
シライがクロノの結婚を祝う気持ちは本物だった。離婚してほしいなんて一度も思っていない。二人の末永い幸せを祈念したあの日の原稿はとっくに捨ててしまっているけれど、生憎の記憶力のよさで今でも一言一句違えずに言えてしまう。本心だった。
「バカなクロノ。もう二度と結婚したいなんて思わないよう、おれが独身の楽しさを教えてやるよ」
「いらない。シライ、おれと結婚して幸せになってくれ」
◇
「シライさんが『クロノを諦めさせる方法が知りたい』と言うてきたとき、わしはクロックハンズ再起の予兆かと思った」
「シライそんなこと言ってたのか」
「言った。職権を乱用して対策会議まで開こうとしていた」
「あったのう。結果は知っての通りクロノの粘り勝ちじゃが、一時は賭けまで始まっとったぞ」
アカバとレモンの声を聞きながら階段を下りきったクロノは、次の部屋を案内するべく二人が下りてくるのを待った。新築したものの寮で過ごすことも多く、馴染みきっていない家を自分の家として説明するのは、何も間違っていないのに何となく気恥ずかしさがある。
アカバとレモンから新築祝いに何が欲しいか聞かれたとき、そんなものはいいから遊びに来てほしい、とシライの許可を得る前に言ってしまった。シライからの承諾は何の問題もなく得られたが、四人全員の休みを揃えることは難しく、今日の案内はクロノ一人で務めている。
子供時代に友だちに恵まれなかったクロノは、人を自宅に招くということ自体が初めてだ。
「ここがトレーニングルーム。本部にいることの方が多いから使ってない」
「もったいないのう」
「……この部屋、酸素濃度の調整ができる?」
「よく気づいたな、さすがレモン」
「数値が整いすぎてる」
「シライ凝り性だから」
レモンの言葉を確かめるべく空調設備を見上げていたアカバは、にやりと笑ってクロノを見た。
「でもそこが好きなんじゃろ?」
「いや、別にそこも好きじゃない」
「ひどい男じゃのう。わしは一度もおまえからシライさんの好きなところを聞いとらんぞ」
呆れ返るアカバにクロノは苦笑いを返した。
結婚して最初のケンカは、シライが新居を現金一括払いで購入してしまったことだった。
ペアローンを組んで一緒に払っていくつもりだったクロノが抗議しても、シライは「どうせ死に金だ」と肩を竦めるばかりでまるで聞く耳を持たない。ついには十二年余分に働いていると年の差を持ち出したシライに、特級でいる長さなら自分の方が長いと言い返して、そこからは売り言葉に買い言葉だった。
最初の結婚ではしなかったことを、シライとはたくさんしている。シライにも前の配偶者にも悪いから比べないようにしているが、一緒にいるときもいないときも、シライとは人生を共にしている実感が強くあった。正しい手順に則った結婚は上手く行かなかったのに、当てこすりで叩きつけた婚姻届から始めた方がさまになってしまったのは、皮肉としては出来が悪い。
「具体的にいいところがあるわけじゃないんだ。一緒にいて、シライでよかったと思うことはよくあるんだけど」
一度目の結婚についてクロノが「おれは間違ったのかな」と漏らしたとき、シライは「その経験がなければおれとは一緒にならなかったろ。未だにバカみたいな回数を巻き戻しするくせに、たった一回のやり直しで何言ってる」と頭を撫でた。クロノの師匠をしていたときよりよっぽど師匠らしい対応で、悔しいけれど大人だと思った。
クロノは家にいるときにしか付けない結婚指輪をくるくると回した。今のエピソードは情けないから言えないし、指輪の内側に彫ったイニシャルは本部で呼ばれる名前とは違うから、アカバとレモンを前に大変な秘密を抱えているような気持ちになる。
「……ごちそうさま、クロノ。アカバ、もう聞かなくていい。このままじゃ胸焼けでご飯が食べられなくなる」
レモンの冷静な声を聞いて、クロノはハッと顔を上げた。
中抜けなのか退勤なのかははっきりしていないが、シライは食事は一緒にできると言っていた。シライはクロノが思うのと同じくらいアカバとレモンのことが好きで、今日のリスケジュールに奔走していたことは知っている。
「シライは出前取るって言ってたけど、食べたいものがあったら言ってくれ」
「肉がええのう」
「わたしはクロノが食べたいものがいい」
「おれも肉がいいな。……調べてみる。出前取って、肉だけ今から買いに行ってもいいし」
前にクロノが肉が食べたいと言ったとき、シライはなぜかケータリングを頼んだ。自宅で、コックコート着用の知らない人を横目に見ながらする食事は気詰まりで、シライも自分で呼んでおきながら怪訝な顔をしていた。
同じ失敗はしたくない。
クロノは部屋で寝かせているスマホンのことを思い浮かべた。
- 投稿日:2024年9月2日
- 8/31にクロノとシライの幸せを考えるスペースがありまして、そこで二人の結婚という宿題が出ました。やりましたよ私は!
ゼクシィ置いておきすぎだろという気もしましたが、内祝いのこととか載ってるみたいだし(未読)雑誌がある程度溜まったら捨てるつもりで全然溜まらなかったから捨ててないということで。