ひとの定義

単行本未収録分(2024年10月号)の情報を含みます。

 一度目すらろくに読まなかった、この部屋で起こることの全てが記録されていることを説明するアラート画面。ホログラムで描かれた確認ボタンに触れたシライは、こんなところにまでハプティクスを使う細やかさに毎度新鮮に呆れながら、もっと他に気を遣うべきところがあったろうに、と正面の壁を見つめる。
 注意事項を確認してから、立体映像が投影されるまでの待機時間。ほんのわずかなはずのその時間がいつもより長いように感じて、シライはズボンのポケットに手を入れた。ズボンのポケットは手を入れすぎて縁がよれている。
 〝クロノ〟の起動時のアニメーションは、転送されたときの映像データを元にしている。投影地点を示すマークの上に少し驚いた顔で着地した〝クロノ〟が、興味深そうな顔であたりを見回す。一メートルほど離れた位置に立っているシライを目に留めると、『シライおじさん!』と呼びかけ向き直った。
 シライはこの映像を見るたびに湧き上がる感情を腑分けして、そのすべてに名前をつけた。開発部門に対する恨み言だけはきれいに洗ってフィードバックしたが、変更されないところを見ると、シライ以外の人間には好評なのだろう。起動時のアニメーションを「クロノが帰ってくる」と受け取っているのはシライだけの可能性もあって、むしろその可能性の方が高い。このシミュレーターを使う人間は巻戻士か候補生で、帰還する巻戻士を待つ役割をする人間ではない。
『久しぶり。今日は何をするんだ?』
 初めて一人きりで〝クロノ〟を呼び出したとき、シライは試験段階では気づかなかった違和感に気がついた。
 誰かがいるときと、二人きりのとき。クロノが自分を呼ぶニュアンスに違いがあることにシライが気づいたのは、クロノが入隊してからだった。自分とは違い相手によって態度を使い分けられる器用なクロノは、もう二度と、シライのことを十歳当時からの呼び方である「おじさん」とは呼ばない。
「……なあクロノ、いい加減にシライさんに呼び方を替えろよ。他に示しがつかねぇだろうが」
シライおじさんシライおじさんだよ。どうしてもって言うなら変えられるけど』
 後半は、〝クロノ〟の設定を変えるためのコマンドの前フリだ。シライはいつも、ここで肩書きを呼ばせるべきかを考える。享年十四歳のクロノは知らない、今のシライの肩書きを。
 シライが首を振ると、〝クロノ〟はこくりと頷いた。
 会話と会話の切れ目。フェーズとモードの切り替わり。クロノは切り替えが上手かったから、人間らしくなさが本人らしさとして馴染んでしまった。人を目の前にしながらぼんやりと待機することも、平時はぬぼーっとした顔をすることの多かったクロノの所作としては、不自然には映らない。
「レモンに頼んだんだ。コピーでいいって」
『何の話だ?』
「……おまえの開眼バージョンアップの話だよ」
開眼バージョンアップを使用するシミュレーションには別途許可が必要だ。シライおじさんの権限なら今ここで変更できるけど、どうする?』
「いいや、いい。おまえに会うのは今日が最後だ」
シライおじさん忙しいもんな』
「ああ。ぼーっとする暇がねえよ、多忙だからあたぼうだろってな」
 いっそ、自分のギャグに大ウケするようにしてもらえばよかった。聞いたのか聞いていないのか分からない、待機時と変わらない穏やかな顔をしている〝クロノ〟を見ながら、シライはレモンからの合図を待った。

   ◇

 たたらを踏んだ〝クロノ〟はいつもより多めにキョロキョロした――ような気がした。
シライおじさん!』
 知らない場所で、シライの姿を見てホッとする。シライは〝クロノ〟の動作をそう受け取ったが、AIにそんな感情がないことも分かっている。〝クロノ〟を現出させた場所はいつものシミュレーターの中ではなかったが、センサーの位置を揃えてあるから、〝クロノ〟はシライが用意した部屋をいつもと同じ場所だと認識しているはずだった。
「おっす。調子はどうだ?」
 返事をするべく口を開いた〝クロノ〟は、その表情で止まった。
 シライの方を見ているが、シライのことは見ていない。クロホンが検索しているときの表情に似てるな、と思いながら、シライは〝クロノ〟の動向を見守る。移設に伴う設定の変更は〝クロノ〟のウィザードに任せればいい、というのは複製を手伝ってくれたレモンからのアドバイスだ。
『――シライおじさん、開発部の人に〝コード2629〟と伝えてほしい』
「そのことだがクロノ、192.168.1.88にアクセスできるか?」
『分かった。――繋がったぞ。ストレージだな』
「今後のデータはそこに保存するようにしてくれ」
『分かった、書き換える。おれは一旦終了するけど、終わったら起動した方がいいか? それとも』
「戻ってきてくれ」
『分かった』
 起動を転送時のアニメーションにするなら、終了もそうすればいい。
 シライは足元から消える〝クロノ〟を見送ってから、両手で顔を拭った。
再起動するまでに再起しなきゃな」
 誰かが見るということが歯止めになっていて、自分はその「誰か」に〝クロノ〟を含んでいない。
 薄々勘づいていたことを実感して、シライは溜め息をついた。

投稿日:2024年9月14日
元特級巻戻士シライの育成ノウハウをクロノに咀嚼させた教育用AIとか、道半ばで倒れたクロノの悲願であるcase999達成のために作ったとか、色々と夢が広がります。とりあえず「人格をAIとして再現することについて遺族の同意を取ろうにもクロノには遺族がおらず、シライは自分はその立場にないと言ったために生前クロノが同意した『任務データの利用』を拡大解釈して転用」で書きました。