カスタマイズ
「なあ、ここに来るまでにスタバあったろ。限定のやつ今日までなんだよ。行って買ってきてくれねえ?」
いい声すぎる。もっと近ければヤバかった。
運転席の窓を叩かれ開けた〓は、たった今車から降ろしたばかりの、今から鉄砲玉として出ていくはずの男――シライの目を見返した。人間の目の色としては初めて見る色の瞳。緊張感がまるでない、安全圏にいる猫のように人を景色としか思っていない目だ。
「パシろうとすんな。おれのが先輩だかんな。おれはここで待ってなきゃいけねえんだよ」
「終わるまでに戻ってくりゃ待ってたのと同じだろ。……ああ、おれの見張り頼まれてんのか」
シライが察した通り、〓はシライの見張り番も兼ねている。
ボスがどこからか拾ってきたシライは、身元も経歴も何もかも不確か、腕っぷしの強さだけが確かという異質な男だ。単純な仕損じなら宣戦布告と言い換えられるが、敵方に寝返られでもしたら面倒なことになる。今回のヤマは、手っ取り早くシライの忠誠心を測るために用意されたものだった。
〓が身を置いている組織は今、昇り龍の勢いで拡大している。〓もその流れで入った口だが、漏れ聞こえてくる話はどれもがヤバい。ボスの手元には未来のことを書いた新聞が届くとか、シノギにタイムマシンを使っているとか、人生リセットボタンとか、眉唾にも程があるぶっ飛んだ話ばかりだ。
「どうすっかなー」
この男はおれが「はい」と答えるまで動かないつもりなのか。
シライが窓から離れ、顔の代わりに目に入ったのは腰に下がった日本刀だ。〓にはお飾りだとしか思えないものを、シライは実用品としてぶら下げている。
「じゃあ買ってから戻るか。おれが一緒なら文句ねえだろ」
再び窓から覗き込んできたシライは、自分に選択権があると疑っていない。車の前を回り込み、助手席側のドアを開けると、当然という顔でシートに収まった。
「灰皿借りるぞ」
シライは「失礼します」というのを魔法の言葉だと思っているのだろうか。
〓が止めるのも聞かず会合中のボスたちの中に入っていったシライは、ボスの目の前にあるガラスの灰皿を手元に引き寄せた。
話を中断された苛立ち。鉄砲玉として出ていったシライが傷一つ、汚れ一つなく戻ってきた驚き。静かながらも興奮した空気を押し潰した「どちゃり」という音は、シライが持ってきたカップの中身を灰皿に空けた音だった。
「タマ、取ってきたぜ」
矜持のなせる業で誰も声を立てなかったが、場の空気は明らかに揺れている。男なら当然の反応だった。
ナントカフラペチーノの残滓にまみれた肉塊を、シライは獲物を取ってきた猫よろしくボスの目の前にずいと寄せる。眉間に皺を寄せながらも目をそらさないボスは流石の貫禄だが、褒められるのを待っているように見えるシライの無邪気さの前では霞んで見えた。
沈黙の中で、兄貴たちの「おまえ説明しなかったのか」という視線が、戸口で突っ立っている〓に突き刺さる。〓は頭を下げた。何かしらの言い訳をしたかったが、この稼業に弁解というシステムがないことは、入って早々に体に教えられている。それに〓は車に戻ってきたシライが呟いた「物足りねえな」を、戦い足りないという意味とスタバの限定ドリンクの味、どちらの話なのか判断しかねている。
「……よくやった」
ボスが重々しく言うと、兄貴たちは一斉にボスに視線を戻した。〓もほっとして誰も見ていない礼をし直し、頭を上げる。
丁度、シライが居並ぶ皆々様に顔を向けたところだった。
◇
「シライの背中、きれいだよな」
シライが風呂場にやってきたのは、不寝番を終えた〓が誰もいない湯船で羽根を伸ばしているときだった。風呂場で他人の体をじろじろ見るのは失礼という常識は、ここには存在しない。
裸のシライの背中は、服を着た姿からは想像がつかないほどに筋骨たくましい。僧帽筋に広背筋、三角筋に上腕二頭筋、上腕三頭筋。それぞれの筋肉に肉札を貼り付けられるような出来栄えで、シライのことをひょろ長いあんちゃんと思っている面々が、風呂場でどよめいたのは胸のすく体験だった。
「……どういう意図だ?」
シライに肩越しの視線を向けられて、〓は答えた。
「褒めてんだよ。昨日は乱戦だったって聞いたぜ。傷一つ、青タン一つねえじゃねえか。背中の傷は剣士の恥だ――って知ってるか?」
「……知らねえ」
風呂場は声がよく響く。人がいればきっと聞き漏らしてしまうだろうシライの声も、高い天井に反響してよく聞こえた。〓のバイブルである『ONE PIECE』をシライが知らないことに残念さはあったが、だからといって気にすることではない。
拳一つで成り上がれる世界。
そう思って業界の門を叩いたのに、現実には誰の知り合いだ何だのくだらない上下関係やら駆け引きやらがあって、腐りかけていたときに出会ったのがシライだった。
ボスが拾ってきた謎の男。敬語が使えない無礼者だが、無頼漢と表現するには童顔で、ひとたび刀を握らせれば天下無双。愛想というものはないながら面倒見はよく、任侠とはかくあるべし、と〓が思う姿の体現者だ。
そこまで考えたところで、〓はシライが発言の意図を聞いてきた理由を掴んだ。シライの鍛え上げられた背中には、何の彫り物も入っていないのだ。他の人間も風呂にいたならすぐに分かったのに、と〓は自分の鈍さを棚に上げる。同時にシライも人目なんか気にするんだな、と意外に思った。
〓はまだ色を入れていない筋彫り状態の自分の二の腕を見ながら、シライの背中に勇猛な絵が踊る様を想像した。シライの背中ならどんな図柄だって似合うに違いない。不動明王を関取にする輩とは違うのだ。
「……あんま見んな、落ち着かねえ」
「悪い悪い」
シライの背に似合うのはどんな図柄かということを考え始めていた〓は、湯の中を泳ぐようにして向きを変えた。シャンプーをする姿というのは間抜けなものだが、シライの場合はそれすらも格好良く見える。陰日向で言われている猫背なところも、ヒョウとかジャガーのようでいいと思う。
こんなに存在感があるのに、目で見ていないといないような気がしてくる。
シャワーが床を叩く音が聞こえたのを機に、〓はもう一度シライの背中に目をやった。見ての通りの丸腰で、見る者を威圧するような図柄は何も入っていない。一度そう意識すると、纏うものが筋肉だけであることが、大きすぎる蛇が動くのを見るような嫌な気分にさせる。
「おれ先に出るわ」
湯の温度が下がったような気味の悪さを覚えて、〓は湯船から抜け出した。
◇
カチコミにしてもガサ入れにしても、静かすぎる訪問だった。
今は季節がいいから暑くも寒くもなかったが、和室の大広間は夏冬はまるで空調が効かなくて地獄だ。それでも誰一人として改装を言い出さないのは、急拡大した組織には、いつから続いているという伝統も重石の一つになり得るからか。
広間の外で番をしている〓とは違い、シライには席が与えられている。それも上座側、ボスに近い位置を。
「おれが出る。新参は雑用するもんらしいからな」
シライはボスに向き直ると畳に拳をついて頭を下げた。
こういう何気ない所作がきれいだと、中の様子を盗み見ながら〓は思う。
シライの当てこすりに苦虫を噛み潰したような顔をしている男はシライをよく思っていない古株で、その反応に小気味よさを感じていた〓は、するりと猫のように脇を通り抜けたシライの気配を遅れて追った。預かっていたはずの刀はいつの間にか取られている。
「おいシライ!」
「ついてくんなよ」
小声で呼びかけると、シライは肩越しに振り返った。退屈な集まりを出られるからか、心なしか嬉しそうに見える。〓が今見た表情をもう一度確かめる前にシライは前を向き、「ついてくるな」を念押しするように片手を上げて振った。
ほどなくして戻ってきたシライは見知らぬ子供を連れていた。
その隣には黄色いスマートフォンのようなものがふよふよと浮かんでいて、〓は場にそぐわない子供よりもスマートフォンの方を二度見した。スマートフォンにはおもちゃのような顔がついていて、〓が見ている間にぱちりと瞬きをした。
状況がおかしい。〓はない頭をひねって考える。そもそもキメッキメのスーツ姿だったはずのシライはなぜパーカーを着ているのか。反対にスーツを着ている子供は中庭を物珍しそうに見ていて、浮かぶスマートフォンも同じ方向を向いている。そこだけ社会見学のような和やかさだ。
闖入者ではあるものの子供が脅威とは感じられず、動転しながらも状況を見極めようとする〓の前で、シライはでかでかとした溜め息をついた。
「クロノ、おまえもっとラフな格好で来いよ。誰かの親戚みたいなやつ。会うやつ全員疑ってんじゃねーか」
「任務だから」
「嘘つけ。任務中に海パンはいてたの知ってるからな」
「任務だったから。シライもわざわざ着替えなくていいだろ」
「おれはこっちが任務用なんですー」
知らない。こんなシライは知らない。
〓は混乱しながらも二人の会話に割って入った。
「おいシライ! 今どういう状況だ! そのガキ誰だよ!」
子供とスマートフォンがこそこそと「シライだって」「偽名じゃないんですね」としゃべっている。そのスマホしゃべるのかよ、と〓は思った。〓のスマートフォンだってしゃべることはしゃべるが、黄色いスマートフォンの挙動は明らかにおかしい。
「お客さんのご案内。ボスにご用だとよ。御用だけに。ほらクロノ、令状」
「だめだ、見せていい範囲が限られてる」
「じゃあ仕方ねえな」
何がと思うよりも先に、シライが抜いた刀の切っ先が〓の首筋に添う。息を吸う、それだけで斬れてしまいそうな、ひやりとした冷たい金属の感触。令状ということは警察なのか。
「そこ開けたとこで会議中。好き勝手な出入りで意義を懐疑されねえよう、ちゃんと『失礼します』って言えよ」
「分かってる」
目だけで子供を追う〓に向かって、シライが「なあ」と話しかける。
「いつもはうるせえくらいおれのこと見んのに、今日はクロノが気になるか? 寂しいじゃねーか」
にぃ、と口角を上げて笑うシライの顔は〓の見慣れた顔だ。だが、纏う空気が全く違う。何と言うかゆるい。いつもの研ぎ澄まされた空気ではない。けれども間合いを見誤れば足元からずぶずぶと沈み込んでしまいそうな不穏さがある。
子供が襖を開けたところで、シライは突きつけていた刀を下ろした。拳を握ったところをちらと見られただけで体が竦んで動かなくなる。〓が拳を開いてもシライの空気は変わらない。興味を持ちも失くしもしない。今まで一度も〓に興味を持ったことがないというように、あくびでもしそうな雰囲気。
子供が襖を閉めた。示威行為としての怒号と、間の抜けた「うわっ」という子供の声。人はいるはずなのに、次の瞬間には何の音も聞こえなくなったのが奇妙だった。
「おー、本当に音聞こえねえな。すげー。知ってるか? 指向性スピーカーとマイクの改良らしいぜ。今回の件、どこまで知られてんのか分からなくて手間取ったんだよな」
「シライおまえ……裏切ったのか」
「裏切っちゃいねーよ。最初から仲間じゃねえんだから。ま、信じさせたのはおれだから、裏切られたってのは正しいのかもな」
◇
「飯ひとつ食うにも人がいるし、ちょっと外出るにも挨拶挨拶ご挨拶なんだよ。もう窮屈ったらねーの。おまえが令状取ってきてくれるまで、深窓の令嬢にでもなった気分だったぜ」
「あのひとには悪いことしたかな」
「仕方ねえだろ。出来損ないのタイムマシンのせいで発生した問題なんだ。せっかく与太話と思ってる連中にまで存在を知らせるわけにはいかねえ」
帰る前に期間限定商品が飲みたい、とシライが誘ったスターバックスでクロノはコーヒーフラペチーノを飲んでいる。おいしいともおいしくないとも思っていない、水分補給をしている顔だ。
シライのストレスの原因は、潜入捜査中、やたらシライの世話を焼きたがる人間たちがこぞって注文を間違えたことにもある。やはり自分で足を運ぶに限る。クロノはシライの注文に興味はなかったが、言ったことは覚えるから、オーツミルクとアーモンドミルクを間違えるということはない。記憶力が優れているおかげでブレベミルクにするときに視線が頬に突き刺さるようになったが、そのくらいで好きを諦めるシライではなかった。
事件の発端が発端だけに、万一の紛失に備えてクロホンは本部に置いてこざるを得なかった。完全に一人きりの任務というのはずっとなかったことで、シライはクロノやスマホンと話せるだけでひたすら嬉しい。オープンな環境の店を選んだのはシライだが、もっと二人きり(二人と一体きり)になれる場所を選べばよかったとも思う。
「なあクロノ、帰ったらおれの部屋来いよ。久しぶりに話そうぜ」
「隊長が帰ったら自分の部屋に来てほしいって言ってた」
「ぜってー朝まで説教コースじゃねえか!」
「おじさんからの連絡って二回だけだろ。おれどっちも読んでから来たけど、他にも何かしたのか?」
純粋なクロノの目を向けられて、シライはこの度の長期任務の思い出を順繰りに思い返す。器物破損も障害もある程度こっちの組織で片付けてあるが、証拠隠滅自体を怒られる可能性もあった。
「大目玉食らいそうなやつをちょっと。タマだけに」
- 投稿日:2024年9月22日
- 書きたいところだけ書いたので飛び飛び感あるかもですが満足です。時空犯罪の詳細は詰めていなくて、クロハンの末端が試作品のタイムマシンを売りつけたとか、ひょんなことから拾ったとか、そいういう感じで読み流してください。