残り香
突然年を取ったという大きすぎる違和感の前には、ささやかすぎる変化だった。
ゴローのデスクの前に立って報告をしていたシライは、ふと嗅いだゴローの香りが記憶と異なることに気付いて、自然、もう一度息を吸った。
屋内であっても肩から離れることのないトレンチコートが、失った腕と落ちた筋肉を隠すためにあるのは知っている。刻まれた皺に増えた傷跡。見覚えがない、なのに当人にすっかり馴染んでいる笑い方。巻き戻ることのない三十年という年月の重み。
悲しいかな、ゴローの引き継ぎは完璧で、シライは逡巡する時間を許されなかった。日々の業務は遅滞なく進み、何も変わっていないはずの自分ばかりが取り残されている。
「香水変えたのか?」
他の隊員が相手なら気を遣うべき話題も、ゴロー相手には躊躇う必要がない。立場も年齢もゴローより下だという甘えを存分に生かして尋ねたシライは、質問を受けて自分を見やったゴローの表情の変化から、聞かされる前に答えを悟った。
こちらのゴローが愛用している香水は、長らく変わっていないのだ。
シライが口から出た言葉を取り消す前に、ゴローは椅子から立ち上がり、存在だけは知っていた、けれども開くところを見たことがない、ゴローの私室へと続くドアの向こうに消える。プライベートなどあってないような男の私的な空間。老いた自分を隠れ住まわせる部屋がその向こうにあったのか、シライは未だに聞けないでいる。
執務室に戻ってきたゴローが机の上に置いたのは、角張ったデザインの香水瓶だった。よく見れば光を透かすことが分かる黒く艷やかなガラス瓶。透けて見えた水面は瓶の肩すれすれにあり、使った形跡はほとんど見られない。
意図を測りかねたシライはゴローの顔を見る。椅子に腰を下ろしたゴローは、穏やかな眼差しをシライに向けてから、シライの側にある香水瓶に視線を戻した。
「先週封を切ったばかりだ。まさかこんなに長く留守にすると思っていなかったからな」
香水瓶の胴体に貼られたラベルの上、太めのゴシック体で印字されたブランドは、シライも名前だけは知っている。初めて聞いたときは人の名前のようだと思ったが、ポルシェだって人の名前だ。ゴローが何という香水を使っているのかを知るのは、これが初めてだった。
「嫌いじゃないならもらってくれ」
「……自分で使えばいいじゃねぇか」
「人の好みは変わるものだ。それに、もう使う必要もない」
かつてのゴローが使っていた香水は、甘さと苦さを併せ持つ香りだった。ゴローが煙草を吸っているところは見たことがなかったが、どことなく、そういう匂いがした。古い映画の一幕を思わせる、知りもしない懐かしさと緊張感を想起させる香り。シライは、ゴローの纏うその香りが嫌いではなかった。
「おれが使うには渋すぎるだろ」
「香りは付ける人によって変わるものだ」
「再現度に限度があろうと、全くの別物にはならねぇよ」
シライは人の肉体の動きに聡い。動きとして表に出るより先に、相手がどう動こうとしているのかが分かる。予備動作すらないうちに反応することは、巻戻士本部において多少の親しみを伴いながら気味悪がられていて、何もないところを見つめる猫に重ねられたこともあるが、生憎と幽霊は見えなかった。
シライは目の前のゴローがシライに手を伸ばそうとしたことを、読み違いでなければ頭を撫でようとして、そして、やめたことを知る。
上司が部下の頭を撫でるなんてとんでもないことだ。シライは今までゴローにそんなことをされたことはなかったし、しようという素振りを見せられたこともなかった。
「年を取ると涙脆くなるって言うだろ。隠すの下手になったんじゃねぇの」
シライが気付いていることにゴローは驚かない。緩められた頬に乗ったのは、気まずさでも皮肉でもなかった。
「隠す必要がなくなったとは考えないか?」
「冗談だろ」
シライは笑いながら、ひょいと香水瓶を手に取った。ガラスの冷たい感触と重み。香りがしなければ感慨も薄い。
シライから見たゴローは、年上の、威厳のある男だった。特級巻戻士の看板を下ろし、隣に立つことが多くなる前から、他の隊員が言うような緊張をゴローに対して覚えたことはなかったが、ゴローがいることの重みは間違いなく感じていた。
スーツを着る意味を耳にタコができるほど聞かされても、シライはパーカーを着るのをやめないし、革靴だって年に数回しか履かない。注意を受けたシライが動きやすさというメリットを嘯いても、スーツを隙なく着こなしたゴローが見せる運動能力の前では説得力が足りなかった。
「……シライ、言いたいことがあるなら今のうちに言っておけ」
「言い逃げされて苦ぇ思いをする前に?」
機械的に地盤を固めるのではなく、地層が形成されるように生きた年月と共に築き上げられた自信。ゴローの物腰が変化したのと同じように、木陰に身を委ねるような穏やかさの方が印象に残るようになった香り。
「そっちが隊長の本当の好みか?」
「言ったろう。好みは変わるものだ」
「なるほどな。じゃ、今度はおれが待つ側をやってもいいな」
スーツのポケットに入れるには嵩張るサイズだろうが、パーカーのポケットならば難なく入る。香水瓶をポケットにしまったシライは、中途になっている報告を続けるためにクロホンに目配せした。
自分の部屋に戻ったシライは、受け取ったきりポケットに入れたままだった香水瓶を取り出した。ゴローの部屋を出てから取り出す機会がなかったために、冷たかったガラス瓶は微妙に温もってしまっている。そっと置いたつもりだったが、硬い音は大きく響いた。
香水の概要をクロホンに尋ねようとして、シライは口を噤んだ。一通りの情報を出したあとのクロホンに「試してみようぜ!」と勧められたときに、自分が理由をつけて使わないことが分かっていたからだ。
ゴローに言った通り、自分に似合わない香りだろうというのが一つ。他の人間にとってもゴローの印象が残っているだろう香りを使う気まずさがもう一つ。
シライが思いつくようなことを、ゴローが把握していないはずはない。それならば、自分が使っていた香水と見せかけて別のものを渡したとも考えられたが、ゴローにそこまでされる理由が見当たらない。シライが香水のことを話題に出したのは偶然だった。
シライは香水瓶の蓋に手をかけて、やめる。
香りを確かめられる気がしなかった。
- 投稿日:2025年9月3日