2025年9月号の情報を含みます。
マリントイレ
――そりゃあ、そっからするしかねえだろ。
男が言った意地の悪すぎる台詞を思い出したアカバは、ぐうっと顔を顰めた。
ボートを揺らす波は穏やかで、憎たらしいほどの晴天だ。これが遭難中でなければ喜んで甲板に出ていただろう。しかし悲しいかな、アカバは絶賛遭難中で、しかも犯罪者と一緒にいる。その上、便意を堪えている状態だった。
前におしっこをしたくなった時、アカバはボートの端から用を足した。我慢の限界が来たときに、それを見透かしたように男から言われたのだ。「我慢しすぎると漏らすぞ」と。男は「執行猶予なしだ、しっこだけに」と寒すぎるダジャレを付け足すことも忘れなかった。
おしっこを我慢していることが他人にバレている恥ずかしさ。太陽がさんさんと降り注いでいる中でちんちんを丸出しにする恥ずかしさ。男が後ろを向いていると宣言したのは思いやりのつもりなのだろうが、アカバの負担は何一つ軽くならない。アカバは誘拐されたことで最初から頭のてっぺんまで来ている怒りを体力を失わないために堪えながら、漏れる一歩手前になっているおしっこを出すべくボートの端に立った。
そして、今度はアカバはうんこをしたくなっている。食べ物は飲み水よりもずっと手に入りにくく、固形物をほんの少ししか口に入れていないというのに、肛門がうるさいくらいに存在を訴えているのだ。出すためには尻を丸出しにしなければならず、おしっこをする時のように立ったままというわけにもいかない。
バランスを取るためだと言って、男は基本的にボートの逆端に座っている。男も、男の隣で飛んでいるスマートフォンも、座った位置から動かないくせに目だけはじっとアカバの方を見ていて、今この瞬間にもうんこがしたいことに気付かれているかもしれない。うんこがしたいと言うことと、気付いた男から切り出されること、どちらを選ぶのも嫌だった。しかし、便意はもうのっぴきならないところまで来ているのだ。漏らすのだけは絶対に嫌だった。
「なぁアカバ、うんこしてぇからそっから動くなよ」
「は!?」
男の発言は、アカバの心を読んだようなタイミングだった。
「言ったろ、バランス取る必要があるって。おまえの体重程度じゃどこ動いても影響ねぇけど、一応安全運行を心がけてぇんだよ、うんこだけに」
「遭難させといて安全も何もないじゃろ!」
「そうなんだよな」
前にも聞いたダジャレだ。頼れる人が誰もいない、犯罪者と二人きりの遭難という異常事態に投げ込まれ、朝も昼も夜も不安でいるアカバと違って、男はずっと余裕を見せている。ものごと全てが男の思う通りに進んでいるからだろう。それがまた腹立たしい。
「勝手にしろ! うんこ野郎!」
アカバは男に背を向けた。男のためにやったのではない。他人がうんこするところなんか見たくもなかった。
「小便よりすんの難しいぞ。どうやるか見とかなくていいか?」
「見るわけないじゃろ!」
「じゃ、道具だけ渡しとく。替えがねぇからこっち向け」
渋々振り向いた先で差し出されていたのは忘れもしない、非常用水のペットボトルだ。縦に真っ二つに切られていて、男の手にある側にはラベルが垂れ下がっている。
男が非常用水を独り占めしたせいで、アカバはわずかしか水を飲めていない。受け取る気になれないアカバがふつふつと蘇ってくる恨みと共にペットボトルを睨んでいると、差し出したまま待っている男は「手を切らねぇように気をつけろ」と付け加えた。
「この上にうんこを出して海に捨てる。ペットボトルは洗って繰り返し使う。プラスチックは分解されねぇから間違っても海に落とすんじゃねぇぞ」
「……紙はどうするんじゃ」
必要だと気付いて尋ねたのではない。どちらかと言えばツッコミだった。
「海水で洗浄するしかねぇな、船上だけに」
- 投稿日:2025年9月12日
- パドルホルダーに掴まって尻を海に突き出すパターンも考えましたが、やはりペットボトルの方が安全だと思います。