本日のケンカ
「だから、おれの方が好きだって言ってるだろ!」
「はぁ!? なぁにを調子こいとるんじゃ!」
いつも通りのケンカだった。諍いが起きるという異常事態に「いつも通り」があるというのもおかしな話だが、共用スペースで言い争いをしていても誰も仲裁に入らないくらい、アカバとクロノのケンカは日常茶飯事だ。しかし、二人とも痴話喧嘩を公共の場でしないくらいの分別はあるから、今回のケンカはクロノの部屋で起きていた。
当初の会話のテーマは「次のデートをどこに行くか」という、ごくごくカップルらしいものだった。ケンカが勃発するに至った端緒を求めて手繰っていけば、「わしは何が楽しくておまえと付き合っとるんじゃろうな」と、アカバが自嘲気味に言ったことにぶち当たる。クロノは自分が平均に比して大層おもしろい男だということを知らないから、アカバの疑問に返す言葉はただ一つ。「おれがアカバを好きだから」だ。
それが、アカバの逆鱗に触れた。アカバは、自らの選択でクロノと付き合っているつもりだったのだ。
一世一代の大決心とは言わないまでも、アカバがクロノと交際するまでには相当の葛藤があった。クロノに対する印象は「こんなノロマがシライさんの弟子なのは気に食わん」というマイナスからのスタートで、二級昇格試験を共に乗り越えるまで、好感度の目盛りはプラスに動かなかった。一度針が振れてしまえばクロノを認めるのは難しいことではなかったが、好意を抱いていると認めるには相応の時間が掛かったし、恋人として付き合っている今でも不定期に見直しが入る。デートの行き先の希望に限らず、アカバとクロノの意見は一答目で合致することの方が少なかった。
付き合った理由を、まるでクロノの熱意に負けたかのように言われるのはおもしろくない。流されたつもりはなかった。だから、アカバは「別に、わしの意思じゃ。おまえがどう思っとるかは関係ない」と、不機嫌に訂正した。確かに好意を言葉にするのはクロノの方が先立ったかもしれないが、アカバとて自分の気持ちには気づいていた。恥ずかしいという感情がないらしく、楽しいだの嬉しいだのをぬけぬけと口するクロノに、交際の決め手となる台詞を先に言われてしまったというのが、瞬速を謳うアカバの汚点だ。
アカバは信念を持って生きている。アカバの中にある「クロノが好き」という認識は、今やちょっとやそっとでは揺るがないのだ。自分がクロノと付き合いたいから付き合っているということを渋々明かして、くだらなさすぎて犬も食わない喧嘩は終わりになるはずだった。
だが、クロノはクロノで頑固なのだ。
「でも、おれが言わなければアカバはおれと付き合わなかったと思う!」
「そんなことはない! わしはおまえが行動せんでもいずれ決着をつけてやるつもりじゃった! ノロマのくせに辛抱が足らんのじゃ!」
誰がクロノを無表情だと言ったのか。ちょっとのことで激昂して、こんなにも分かりやすく表情を変えるというのに。
クロノから意気地なしのように言われたことに怒りつつ、アカバは他人の的外れなクロノ評にも怒りをぶつけた。有象無象から相談を持ちかけられるのは鬱陶しいが、相談するならアカバよりクロノの方がいい、と言われているのも、それはそれで腹が立つのだ。
クロノは今さら自分が怒っている自覚を持ったらしく、わざとらしく息を吸った。おれは冷静に話し合いをしようと思っています、アカバが怒ってるだけです、というアピールだ。鬱陶しいことこの上ない。
「我慢は足りなかったかもしれない。おれは、アカバのことが好きだって早く誰かに言いたかった」
悪いか、とばかりに睨みつけられる。
「誰かとは何じゃ」
「何がだ」
「今言うたじゃろ。誰かに言いたいって」
揚げ足取りをするつもりがなくともケンカ腰になってしまう。明らかに買う気でいるクロノに向かって、腕を組んだアカバは顎を上げた。
今のクロノの発言は矛盾している。ねじ伏せる好機だった。
「わしに好きじゃと言うなら分かるが、誰かにとはどういう意味じゃ」
反論のためか、口を開いたクロノが、自らの矛盾に気付いたらしく瞳を揺らがせた。勝利を確信したアカバだったが、続くクロノの言葉を聞いて、勝ち誇りかけた顔を屈辱に歪めることになった。
「……誰でもいいから話したかった。アカバはすごいやつで、一緒にいると楽しくて、それに、かっこいいんだって。口に出してしまわないと、頭の中がアカバのことばかりになるから。……でも、一番伝えたかったのは誰でもなくアカバにだったから、アカバに言った。アカバに言ったのが初めてだ」
ぐいと腕を組み、開き直った風に見えたクロノだったが、耳がわずかに赤い。表情が崩れそうになるのを堪えているのか、唇を真一文字に結んだ顔は怒っている風に見えた。その上で、来るなら来い、とばかりにアカバを見据えている。
クロノに恥ずかしいという感情があるらしい様子を、久しぶりに目にした気がする。
毒気を抜かれたアカバは組んだ腕を解きかけたが、収まりが悪く組み直した。鼻から吸った息を口から吐き出す。やはり、恥ずかしいやつだ。この、クロノという男は。
「さっきも言うたが、おまえと付き合っとるんはわしの意思じゃ。こんだけしょっちゅうケンカしとっても、別れる気がないことに自分でもほとほと呆れとる」
ここで言い終えてしまっては片手落ち。負けたくない一心で、アカバはもう一言を付け加えた。
「だから……わしはおまえのことが好きじゃから、付き合っとるんじゃ。デートだって、行かんとは言っとらんじゃろ」
パッと、クロノが表情を明るくした。捜していた落とし物を見つけたような顔だ。
その明け透けさにアカバは歯噛みする。だから言いたくなかったのだ。クロノは呆れるほどに強引な男だったが、人が芯から嫌だということを無理強いするような人間ではない。そして、人からの好意を割り引いて考える癖がある。やっかいな要素が相互に作用して、行動したから良い結果に辿り着けたのだという自信ありげな態度に繋がっているらしいが、肉眼に映らない結果は確信が持てないらしい。
「アカバが行きたい方にしよう。おれはアカバの好きなものをもっと知りたい」
クロノは手のひらを返すように譲歩した。勢いづいていたアカバはついあまのじゃくを言いたくなったが、ぐっと堪える。
「当たり前じゃ。おまえの興味はともかく、わしは最初からそのつもりじゃった」
「でも、おれの意見も聞いてくれ。おれはアカバに、おれと一緒でよかったって思ってほしい。協力すればきっともっといい一日にできる」
「聞くだけ聞いてやろうかのう。採用するかは気分次第じゃ」
アカバは腕を解いて、クロノのせいですっかり力の入っていた体をほぐすために首を回した。横目に見たクロノの部屋は相変わらず殺風景だ。言い合っている時を含めて、不思議と居心地が悪く感じたことはなかった。
「それでいい。アカバは納得できないときは譲らないだろ」
「わしが納得してないのに、おまえがねじ込むことも多いがの」
アカバが不満をたっぷり乗せた目でクロノを睨むと、クロノは悪びれた様子もなく笑った。何で好きなんじゃろうな、と、アカバは未だに答えが出ない疑問を溜め息に混ぜて吐き出した。
- 投稿日:2025年10月20日