日帰り旅行
貧乏暇なしという言葉を考えた人は、たぶんまともな人間なのだろう。
がら空きの車両を見るともなしに見渡して、カラ松は思った。真新しい座席は心地がいい。別に特別な列車というわけではなく、最近リニューアルされたというただの通勤列車だ。オリンピックを数年後に控え、近頃はあちこちが新しくなっている。かつて父が「生きているうちに二度もオリンピックが見られるとはなぁ」としみじみ呟いていたが、もし働いていたのなら数年の時を待たせずともオリンピックを見せてやれたのだろうか。
――いいや、違う。
カラ松は自らの思いつきを否定した。特売で買った煎茶を、二十年モノの急須で淹れて飲みながらテレビを見ている両親は、テレビでしか見たことがない空港に行き、飛行機に乗ってまでスポーツ観戦がしたいわけではないのだ。
それにしても、電車に乗るのはどれくらいぶりだろうか。ぱっと思い浮かんだのは両親に連れられて動物園に行ったときだが、それは流石に古すぎる。小中学校は徒歩圏内の公立だったし、高校は自転車だ。六つ子を分け隔てなく育ててくれた両親とはいえ、六台もの自転車を用意できるはずもなく、通学時は三台に分乗するという何とも無茶な格好で、寝坊でもしようものなら自転車で三十分かかる距離を自分の足で走らなければならなかった。
郷愁、ノスタルジー、それとも――自らの胸を占める想いに名前をつけようとしていたカラ松は、ふと見た正面の車窓に映る一松の顔が、「無」としか言いようのない表情をしていることに気がついた。
なぜそんな顔をしているのだ。
切なさにも似た気持ちから一転して、カラ松は焦りを覚えた。交通マナーに従い足は組んでいない。乗り過ごしてもいない。未だ正体は不明だが、兄弟たちがこぞって言う「イタい」ことも起きていないはずだ。カラ松は一松に焦りを悟られないよう、サングラスに手をかけた。大丈夫だ、ズレていない。冷静に、平静に。首を動かさないよう細心の注意を払いながら、横目で一松を見る。
見ている――!!
サングラスと顔の僅かな隙間にねじ込むように、一松の視線が眼球の奥まで突き刺さった。
「……!」
喉から滑り出ようとする驚愕を、唾を飲むことで押しとどめる。一体何が起きているのだ。ここまで大人しくついてきた姿は偽り――フェイク――だというのか。カラ松の脳裏を、こうして二人で外出するに至った経緯が走馬灯のように駆け巡った。
「…………」
「…………」
ふいと視線が逸らされると共に、威圧感から解放される。のそりと立ち上がった一松は、ポケットに手を入れたいつもの姿勢でドアに向かう。プシューと音を立てて開いたドアから降りる一松を見送りかけたカラ松は、乗り換え駅であることに気づいて慌てて立ち上がった。
じゃれつく猫をあやす一松の声は、自分には一生向けられることのないだろう甘さを含んでいる。すぐ脇に立ってそれを眺めながら、カラ松は手持ち無沙汰にしらすパンをかじった。一口で食べてしまえるサイズだったが、これを食べてしまえばやることがない。売店はすぐそこにあったが、時間と違って金は有限なのだ。
満ち足りた顔で立ち上がり、猫に手を振りながらこっちを向いた一松に、袋ごとしらすパンを渡す。「うまいぞ」と一言添えると、一松は何か言いたそうな顔をしながらも、パンを取り出した。しらすパンのおかげで、満足顔が見る間にしぼむという事態が避けられたことに、カラ松は安堵する。
参道のあちこちで気ままに過ごしている猫達は、猫島として話題になる以前からの観光地ということもあって人馴れしている。一松がテレビで見ていた「猫島」はここではない別の島で、今日時点のカラ松の財布で行ける距離ではなかったがゆえの選択だったが、一松の様子を見る限り失敗ではなさそうだった。とんびの声に誘われて見上げた空は、白みを帯びた青。この島のもう一つの名物である夕日までは、まだまだ時間がありそうだ。
「一松、お参りして行こうか」
「それはまずいんじゃないの」
どうしてだ。そう聞く前に、カラ松は一つのウワサに思い当たった。
カラ松ガールズと出かけるためのリサーチ中に目にした『デートでは要注意!? 別れるジンクスがある観光地!!』という特集記事だ。夕日・夜景の両方が楽しめる絶景スポットとして挙げられると共に、祀られている弁天様が嫉妬しカップルを別れさせてしまう――という悩ましい事柄が書かれていた。
まさか一松はそれを知って言っているのか。だが俺達はまだ……と、額に手を当て苦悩するカラ松に、一松は言った。
「猫と遊んだし、これ食べたし。ついで参りはよくないと思う」
結論から言うと、海に沈む夕日は見られなかった。参拝には行かずに島を散策し、砂浜まで出て波と戯れてはみたものの、夏に向けて日が長くなりつつあるこの時期に、日没までの時間を消費するには至らなかった。「せっかくここまで来たんだから夕日も見ていかないか」というカラ松の提案は、一松の「今から帰れば夕飯に間に合う」という提言に抗えるほどの力はなかった。
夕日を見たのは帰りの電車の中だった。帰宅ラッシュという日頃無縁のものに揉まれながら、車窓の縁に宿るオレンジ色の光を見る。なぁ、と一松に声をかけようとして、カラ松は思いとどまった。慣れない遠出をして疲れたのだろうか。吊革にぶら下がるように掴まっている一松の頬に、夕日のオレンジが差している。勘違いだとは分かっているが、その顔色は猫に向けていた以上に柔らかで、カラ松は軽く息を吸うと背筋を伸ばした。
- 投稿日:2017年5月28日