生存IF

崩壊後の暮らし

「甚壱さん、お仕事もらえましたよ」
 提げていた買い物袋を置いた蘭太は、甚壱の前まで来ると、家でよくやっていたようにきちんと正座した。座ってから、あっと気づいた顔をする。この家の畳は病気の鼠のようにあちこち毛羽立っていて、ただ歩くだけでも抜けた藺草が付く。直に座るのはやめるように言ったところだった。
 建物とはこうも老朽化するものなのだろうか、と甚壱はつい最近まで住んでいた、今では廃墟同然になってしまった生家のことを思い起こす。畳を替えていないのはいいとしても、天井のたわみや建て付けの悪さは普請自体に問題があるとしか思えない。
「それにしても、資料は書面でなくてもいいと思いませんか? その場で破棄させることだってあるくせに」
「破棄した書類などないだろう」
「ふふ、そうでした」
 郵送ではなく、わざわざ受け取りに行った茶封筒を開いて書類を取り出しながら、蘭太は呪霊の発生場所と、現時点で分かっている現象の説明をする。協会規定の様式に貼付された地図に、オンライン地図サービスの名前が入っているのを見るとやるせない気持ちになる。
 契約書にある蘭太の名前には、馴染みのない苗字が並んでいる。蘭太はこの生活になった時、遠縁の親戚の養子になることで姓を変えた。ずっと長かった髪を切り、日常生活も、呪霊に対する時も洋服を身にまとい、禪院家とは無関係のような顔で過ごす。協会から仕事を請ける時ももちろん禪院の名は出さない。任務に赴く前、蘭太は玄関で靴紐を締めながら、まだちょっと慣れませんと苦笑いしていた。
「甚壱さん、そんな顔しないでくださいよ」
 甚壱の目がどこを見ているのかに気づいて、蘭太は隠すように書類を封筒に戻した。呪霊の発生範囲も、等級も、蘭太を当てるには惜しい水準のものだ。たとえ廃絶扱いになった家であっても、禪院の名前を出したほうが確実に報酬はいい。だが、蘭太はそれをよしとはしなかった。
 名前を安売りしたくない。扱いや報酬がよかろうと、それでも禪院家が盤石であった時よりは下に見られている。それが嫌だ――主筋に近い甚壱よりも、蘭太の方が禪院の名にこだわった。そのくせ、名前を手放したのだ。
「俺がんばります。甚壱さんに一緒に来てくださいって言えるような仕事が取れるようになるまで、実績を作り続けます」
 蘭太は畳に手をついてから、真剣そのものの顔で甚壱を仰いだ。間に合わせのカーテンを吊した窓から差し込んだ西日が、蘭太の瞳をきらきらと輝かせた。
「生活が安定したら、俺を甚壱さんの養子にしてください」

銭湯帰り

「いいお湯でしたね」
「ああ」
 外暖簾をくぐった途端に冷たい風が吹き付ける。行きならば首を竦めていたが、火照った体にはむしろ心地よく感じる。甚壱に言われる前に上着の前を閉めた蘭太は、甚壱が半歩前に踏み出したのを見て苦笑した。強風に煽られたたらを踏んだ小さい頃を未だに引きずる、甚壱の困った癖だった。
 ぽつりぽつりと灯る街灯が無駄に思えるほど、道には人っ子一人いない。民家の窓から漏れる明かりだけが、ここが人の住む町であることを示している。
「貸し切りだったのは嬉しいですけど、経営は大丈夫なんでしょうか」
「さあな。うちですら風呂が付いているくらいなんだ、客がいないのも仕方ないだろう」
 甚壱が「うち」と呼んだのは、今住んでいる文化住宅の生き残りのようなアパートのことだ。洗面所とトイレしかないような外観ながら風呂が付いていることと、見た目通りに空き部屋ばかりで騒音の不安がないことには大いに助けられている。今日銭湯に足を向けたのは、久しぶりに広い風呂に入りたくなったからだ。
「潰れたら困りますね。調べてみたけど銭湯って全然ないんですよ」
「金が動かせるようになったら買い取るか?」
「掃除してお湯を沸かして……他に何するんでしょう? 俺、呪術師以外の仕事するのって初めてです」
 上層部からの監視が解かれれば、いくらでも宿替えられる。冗談だと分かった上で、蘭太は話に乗った。禪院家がなくなっても細々と呪術師を続けている身だ。他の仕事に就くというビジョンは子供のごっこ遊びのようにおぼろげだったが、甚壱と二人でするというだけでどんな仕事も悪くないように思える。
「呪術師以外になりたいとは思わなかったのか?」
「えぇ? それ甚壱さんが言います?」
 蘭太に呪術師としてのいろはを仕込み、鍛え上げたのは甚壱だ。暗示のように語られる将来の展望を聞き続けた結果今の蘭太があるというのに、他の未来を考えろというのは無責任というものだ。
「俺はある」
「……初耳です」
「昔の話だ。無理だったろうがな。家を出た甚爾ですら、この業界から完全に離れることはなかった」
 カタリと石鹸箱を揺らし、洗面器を逆側に持ち替えた甚壱の意図を察して、蘭太は甚壱の手を取った。温かく乾いた、触れ慣れた手だ。視界を掠めた違和感を目で追うと、路地の奥で、スナックらしい店の看板がぼんやりとした光を放っていた。禪院家でない人間の暮らしをここまで長い期間、近くに感じるのは初めてのことだった。
「……甚壱さんに教わらなくても、禪院家に呪術師以外の道があっても、やっぱり呪術師を目指していたと思います。甚壱さんが声を掛けてくださる前から、俺は甚壱さんのことを知っていたので」
「俺みたいになりたいと言われた時は驚いた」
「俺は驚かれたことに驚きましたよ。憧れの人によく言う台詞でしょう? 今でも覚えています。真剣な顔で『俺ができることは俺がやるから、お前は違う人間でいろ』って……子供に言うことじゃないですよ」
「素直に聞いてくれたおかげで今も助かっている」
「どういたしまして」
 地図を頼りに来た往路ほどの距離は感じないものの、家に着くのはまだ先だ。蘭太はわざと息を吐いて、白くなるのを確かめる。もうすっかり冬だった。前から来た自転車が一台、通り過ぎて行った。
 肩を寄せ合うように建つ小作りな家々の隙間に、ぽつんと空いた空き地からは真っ暗な空が覗いている。どれだけ寂れていようと町中は町中だ。光にかき消され、数えられるほどしか星は見えない。
 あの家は星が見えるほうだったのだ。
 何度もやり過ごしてきたはずの失った実感が押し寄せてきて、蘭太は甚壱の手を握る手に力を込めた。天体観測になど興味はなく、帳で作る夜空に星がないことも、甚壱に言われるまで気にしたことはなかった。
「……甚壱さん、今度プラネタリウムに行きませんか?」
 プラネタリウムは子供の頃に一度、甚壱に連れられて行ったきりだ。物珍しさに明かりが消える前からドーム状の天井を見回して、なのに隣の席で座る、見慣れた甚壱の顔を見上げることに一番胸が高鳴った記憶がある。呪術師になるのも今も共にいるのも、自分で選択した結果だった。
「いいぞ。どっちがいい?」
「え」
「二回、別のところに連れて行った」
「……すみません」
 忘れていることを見越していたのだろう。落胆した様子はなく、ただおもしろがっている気配がする。
「一緒に調べるか。そうすれば忘れないだろう」

投稿日:2021年6月20日
崩壊後の暮らし
投稿日:2021年7月27日
銭湯帰り
更新日:2023年3月1日
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