#運命の巻戻士 元競走馬のシライ×動物園の飼育員のクロノ
旅行中に書いてたやつサイトに出してなかった。書きかけのまま放置しそうなので一度続き共々貼っておきます。
シライは雨の日が好きだ。嵐の日はもっと。
理由はない。
ただ何か、自分にとって大切なことが起こりそうな予感がするのだ。
目の前が弾けたように明るくなる。
号砲よりも大きな音が鳴り響く。他には何の音も聞こえない。
体に当たるのが雨粒か、騎手の体か、跳ねた泥なのか分からなくなる。
目の前に誰もいない、世界に自分しかいないような気がする瞬間。風雨が荒れ狂う日にやるレースは、その瞬間がずっと続くのが好きだった。
輝く視界。また音が鳴る。
ファンファーレよりも地響きよりもずっとずっと大きな音。
目も耳も鼻も役に立たない。
自分の体が存在するという、源の分からない感覚だけが頼りだ。
シライは雨の日が大好きだ。
「今日は雨だもんな。外に出るのはやめようか」
シライは柵の中に入ったクロノが近づいてくるのを待って鼻先を擦り寄せた。
前はクロノが来れば柵まで駆け寄っていたが、たまたま柵から離れた場所にいた日、シライを心配したクロノが柵の内側に入るのを見てからは、雨の日は奥の方で待つようにしている。
シライがこの小さな動物園で暮らすことになったのは、荒天下で催行したレース中の事故が原因だ。傷付いたシライの右目は失明こそ免れたものの、視力は今も完全には回復していない。並み足で歩いたり餌を食べたりするのに支障はないながら、他の馬と競い合って走るのは難しい状態だ。
競走馬として花開こうという年齢で引退を余儀なくされ、一時は安楽死まで検討されたわけだから、経緯を知るクロノがシライは雨が苦手だと誤解するのは無理からぬことだった。実際のところシライが雨の日に落ち着かなくなるのは、クロノが普段より頻回に顔を見せるからという理由だったが、そんなことを知らないクロノは、雨が苦手なシライを慰めるために顔を出している。
シライはクロノの認識の誤りを知らないし、クロノもまた真実を知らない。シライはウマで、クロノはヒト。種族が違うために、齟齬なく意思を交わす手段を持っていない。だからクロノはシライのために忙しい合間を縫って顔を見せるし、シライはクロノに嘘をついているという罪悪感を抱くことなく、雨の日はいつもよりたくさんクロノに会えるという状況を享受できる。
遠くの雷の音を聞きながらシライがクロノの頭に頭をくっつけると、クロノもシライと同じように目を細めて額を合わせた。
「今日は帽子はいいのか?」
シライの頭の位置からだと庇のついた帽子はクロノの顔を隠してしまうから、シライは毎朝部屋に来るクロノの帽子を取り上げるのを日課にしている。箒を片手に持ったクロノは離れた場所から見ているシライに視線をくれた。
クロノは自分と入れ替わりにシライに運動場に出てほしいらしいが、シライにはクロノの望みを聞いてやる義理はない。いや、シライの快適な生活はクロノによって保たれているのだから義理はあるが、一日数回しかないクロノと過ごせる時間を浪費する気はシライにはなかった。この動物園という場所はシライが前にいた場所ほど決まったスケジュールがない。運動場に出るのはクロノが去ってからでも十分だった。
今日は帽子の存在を許してやる。
シライは自ら帽子を取って見せたクロノに向かって鼻を鳴らした。今必要なのは屈んだクロノの腰の高さを確かめることだった。
クロノの前足はシライのそれと違って柔らかく、常に地面から離れている。交尾に適した体勢を取らせるには、できれば柵の上、クロノが自身の体重を無理なく支えられる場所に屈んでくれることが望ましい。
シライが初めてクロノに性的興奮を覚えたのは先週のことだ。
クロノではない、けれども見たことのある人間がシライの部屋にやってきて、その日を入れて丸二日、クロノの姿を見られなかった翌日の夕方。シライはクロノに会えない日があることは知っていて、それはクロノ曰く「休み」なのだが、その日は事情が違っていた。
「泊りがけの勉強会だったんだ」
クロノが差し出したのはご機嫌取りであることが丸分かりの角砂糖。食べてしまえば足掛け三日の不在を許さなくてはならなくなるから、シライとしては心を鬼にして無視するつもりだった。不意に吹いた風に乗って、クロノの体から抗いがたい匂いがしてくるまでは。
冷静さを取り戻したシライは、あの匂いが牝馬の匂いであることを知っている。子どもを産める牝馬の匂いだ。クロノの匂いではない。こうしてクロノがいつも通りに接してくれることからすると、シライはクロノに怪我をさせなかったのだろう。我を忘れて興奮した後の虚しさの中で、シライを見上げるクロノがホッとした顔をしていたのを覚えている。
シライの見境がなくなっていたあのとき、クロノは「だめだ」と言った。「おれじゃだめなんだ」と言ったのだ。目を負傷したシライに、風が強い日の葉擦れのように「もうだめだ」と言われ続けたシライに、居場所を与えてくれたクロノが、クロノ自身のことを「だめだ」と言ったのだ。
そんなことはない。
だめではない。
クロノはだめではないのだ。
シライは前脚で地面を掻いた。
クロノを孕ませて、クロノはだめではないと証明する。
それがシライにできる恩返しだった。
◇
「平気か、シライ?」
びしょ濡れのクロノは自分のことはそっちのけでシライの体を拭いていた。シライを洗った後すぐに拭くようにしているのは濡れたまま土の上に転がられて洗い直しになった経験からだったが、今回は事情が違う。
予報にない急な雷雨だった。雨宿りできる場所を求めて走る来園者に逆走する形でシライの元に急いだクロノは、運動場の中を速歩で駆けているシライの姿を見た。
シライはクロノの姿を見ると足を緩めて寄ってきて、甘えるように頭を擦り寄せる。その間に轟く雷の音を、シライの耳は落ち着きなく追っていた。
拭かれているシライとしては、自分よりクロノの体が濡れていることの方が気になっていた。シライは本能的に小さい生き物の方が体温を失いやすいことを知っている。邪魔な帽子を奪い取り、クロノの濡れ髪を舌で舐めるが、クロノからは制止の声しか上がらない。濡れそぼったクロノの外側、衣服の部分を甘噛みしても結果は同じだった。
雨の日は全てが遠くなる。日頃はそこかしこで聞こえている声も今はほとんど届かない。おまけに雨音を掻き消すように大きな音が轟くたび、クロノの方からシライに近づいてくるのだ。
今回こそいけるのではないか。
シライは頭を低く下げ、鼻先でクロノの体を探った。匂いは雨のせいで薄まっているが、内側からクロノの温かな気配がする。濡れている部分が邪魔っ気だ。
「おれの服は後でいいんだ」
シライはクロノの声を聞きながら頭を高く上げて、周囲に誰もいないことを確かめる。誰かがいるときよりもいないときの方が、クロノは長くシライに触れてくれる。シライの認識を肯定するように、クロノの手はまだシライの体に触れている。
「シライ?」
シライが気にする方向をクロノも見る。クロノの頭の位置では何も見えないだろうに、四角く切り取られた窓の外を見ようとする。
自分の動きにクロノが従うことが気持ちよくて、シライはそっと一歩踏み出してみる。クロノが合わせて足を進めたことで興奮が増した。今すぐ駆け出したいような、止まっているのに心臓が弾んでいるような心地をこらえながら、シライはクロノの肩に頭を擦り寄せた。
◇
二度あることは三度あるという格言の通り、一度目の発情以降、クロノはたびたびシライの求愛を受けることになった。
獣医師の診断では異常なし。いくら馬の嗅覚が優れているといっても嗅ぎつけられる範囲に牝馬はおらず、強いて挙げるのならばクロノの存在だったが、牝馬の発情に促されて起きる牡馬の発情のメカニズムを踏まえれば考えにくく、シライに威嚇されがちな同僚の下世話な冗談の範疇を出ない。
常識があると言うべきか、シライは来園者の目の届く場所ではクロノに迫らない。クロノが朝一番に体調チェックをしに行ったときや、閉園後に限って愛情を見せてくるのだ。興奮状態にあるシライのペニスは字義通りの〝馬並み〟で、「飼育員さんにメロメロ♡」というほのぼのニュースとして報道するには絵面が生々しすぎるために、クロノはその点について少しほっとしている。
シライの体調管理もクロノの仕事だから勃起したことは日誌に書いているものの、自分相手にだけ発情するということが分かってからは、記すのも見返すのも何やら気まずかった。
クロノが無口を外すのを待っていたシライは、離れようとするクロノを引き止めるようにクロノの肩口に鼻先を擦り寄せた。耳元で聞こえる鼻息と作業着越しに感じる体温。シライはそっとしているつもりなのだろうが、クロノにとってはなかなかに強い力で押されている。
「こら、シライ」
生理反応であるシライの興奮を止める手立てはないものの、クロノの方で学習したことはある。シライは「だめ」と言う言葉に過剰に反応するのだ。持ち回りで担当する子供向けの説明係を終えたばかりなために、言い換える言葉が子供に諭すようなものになったのは致し方なしだ。
短期間に何度も見たせいで、クロノはぬらりと包皮から姿を現すシライのペニスが空で思い描けるようになってしまった。青毛の被毛と同じ黒々とした肉茎。牝馬と交尾するには必要十分な、自分の肘から先と同等の長さのものを挿入する気で向けられても、受け入れる器官を有さないクロノとしては途方に暮れるしかない。
シライはクロノの顔に鼻面を押し付け、首筋の匂いを確かめるように嗅いでから、クロノの脇の下に頭を潜り込ませようとする。一方的に情動を押し付けられた一回目と違い、どうにかクロノをその気にさせようとしているらしいことが分かるだけに、クロノもシライの求愛を無下にはできない。
「おれが何とかするしかないか……」
古いながらも蜘蛛の巣一つない馬房の天井を見上げながら、クロノは決意した。
◇
「痛い痛い痛い! やめろシライ!」
シライはむしり取らんばかりの勢いで噛みついていたクロノの頭髪を吐き出した。憤懣やる方ない様子でそっぽを向き、あばよとばかりに尻尾を一振りする。
「そんなに怒ることないだろ……」
馬の視野は広い。クロノはわざとらしく明後日の方向を見ているシライを見ながら、寝る間を惜しんで制作した擬牝台の安定を確かめるように揺すった。
シライが乗りやすいよう擬牝台の高さと傾斜には気を配ったし、リサイクルショップで買った布団を巻きつけて、牝馬の感触に少しでも近づくよう、そしてシライが怪我をしないよう硬さを調整してある。見た目が生身の馬から程遠いのは、シライの認識を侮ったわけでも、クロノの工作の腕が悪いせいでもなく、擬牝台というのは馬でも牛でも豚でも、体操競技で使う鞍馬(あんば)のような形をしているものなのだ。
「いい案だと思ったんだけどな」
クロノは仕方なく擬牝台の片付けに取り掛かる。予算が割けないところを苦心した甲斐あって出来栄えこそ良かったが、安定を確かなものにするためにはアンカーを打って固定する必要がある。仮にシライが擬牝台を気に入っていたとしても、今の状態では転倒する危険があるから使えなかった。
クロノはまだそっぽを向いているシライを振り返り、正直すぎる耳の動きを見て苦笑した。シライはクロノなど知らないという素振りを見せているくせに、視界にクロノを収めているのはもちろんのこと、しっかり様子を窺っているのだ。
「悪かった。今日は散歩に行こう。園内を歩くのは久しぶりだろ」
運動場はある程度の広さを確保してあるとはいえ、シライの生まれ故郷の牧場と比べれば猫の額で、競馬場のように全力疾走する機会もない。現役時代のようにレースのために移動することもないから、代わり映えのない景色に退屈しているのかもしれない。
言葉がそのまま通じるとは思わない。だが、シライがひょいと尻尾を高く上げたのを見て、クロノはシライの機嫌が直ったらしいことを察した。畳む
旅行中に書いてたやつサイトに出してなかった。書きかけのまま放置しそうなので一度続き共々貼っておきます。
シライは雨の日が好きだ。嵐の日はもっと。
理由はない。
ただ何か、自分にとって大切なことが起こりそうな予感がするのだ。
目の前が弾けたように明るくなる。
号砲よりも大きな音が鳴り響く。他には何の音も聞こえない。
体に当たるのが雨粒か、騎手の体か、跳ねた泥なのか分からなくなる。
目の前に誰もいない、世界に自分しかいないような気がする瞬間。風雨が荒れ狂う日にやるレースは、その瞬間がずっと続くのが好きだった。
輝く視界。また音が鳴る。
ファンファーレよりも地響きよりもずっとずっと大きな音。
目も耳も鼻も役に立たない。
自分の体が存在するという、源の分からない感覚だけが頼りだ。
シライは雨の日が大好きだ。
「今日は雨だもんな。外に出るのはやめようか」
シライは柵の中に入ったクロノが近づいてくるのを待って鼻先を擦り寄せた。
前はクロノが来れば柵まで駆け寄っていたが、たまたま柵から離れた場所にいた日、シライを心配したクロノが柵の内側に入るのを見てからは、雨の日は奥の方で待つようにしている。
シライがこの小さな動物園で暮らすことになったのは、荒天下で催行したレース中の事故が原因だ。傷付いたシライの右目は失明こそ免れたものの、視力は今も完全には回復していない。並み足で歩いたり餌を食べたりするのに支障はないながら、他の馬と競い合って走るのは難しい状態だ。
競走馬として花開こうという年齢で引退を余儀なくされ、一時は安楽死まで検討されたわけだから、経緯を知るクロノがシライは雨が苦手だと誤解するのは無理からぬことだった。実際のところシライが雨の日に落ち着かなくなるのは、クロノが普段より頻回に顔を見せるからという理由だったが、そんなことを知らないクロノは、雨が苦手なシライを慰めるために顔を出している。
シライはクロノの認識の誤りを知らないし、クロノもまた真実を知らない。シライはウマで、クロノはヒト。種族が違うために、齟齬なく意思を交わす手段を持っていない。だからクロノはシライのために忙しい合間を縫って顔を見せるし、シライはクロノに嘘をついているという罪悪感を抱くことなく、雨の日はいつもよりたくさんクロノに会えるという状況を享受できる。
遠くの雷の音を聞きながらシライがクロノの頭に頭をくっつけると、クロノもシライと同じように目を細めて額を合わせた。
「今日は帽子はいいのか?」
シライの頭の位置からだと庇のついた帽子はクロノの顔を隠してしまうから、シライは毎朝部屋に来るクロノの帽子を取り上げるのを日課にしている。箒を片手に持ったクロノは離れた場所から見ているシライに視線をくれた。
クロノは自分と入れ替わりにシライに運動場に出てほしいらしいが、シライにはクロノの望みを聞いてやる義理はない。いや、シライの快適な生活はクロノによって保たれているのだから義理はあるが、一日数回しかないクロノと過ごせる時間を浪費する気はシライにはなかった。この動物園という場所はシライが前にいた場所ほど決まったスケジュールがない。運動場に出るのはクロノが去ってからでも十分だった。
今日は帽子の存在を許してやる。
シライは自ら帽子を取って見せたクロノに向かって鼻を鳴らした。今必要なのは屈んだクロノの腰の高さを確かめることだった。
クロノの前足はシライのそれと違って柔らかく、常に地面から離れている。交尾に適した体勢を取らせるには、できれば柵の上、クロノが自身の体重を無理なく支えられる場所に屈んでくれることが望ましい。
シライが初めてクロノに性的興奮を覚えたのは先週のことだ。
クロノではない、けれども見たことのある人間がシライの部屋にやってきて、その日を入れて丸二日、クロノの姿を見られなかった翌日の夕方。シライはクロノに会えない日があることは知っていて、それはクロノ曰く「休み」なのだが、その日は事情が違っていた。
「泊りがけの勉強会だったんだ」
クロノが差し出したのはご機嫌取りであることが丸分かりの角砂糖。食べてしまえば足掛け三日の不在を許さなくてはならなくなるから、シライとしては心を鬼にして無視するつもりだった。不意に吹いた風に乗って、クロノの体から抗いがたい匂いがしてくるまでは。
冷静さを取り戻したシライは、あの匂いが牝馬の匂いであることを知っている。子どもを産める牝馬の匂いだ。クロノの匂いではない。こうしてクロノがいつも通りに接してくれることからすると、シライはクロノに怪我をさせなかったのだろう。我を忘れて興奮した後の虚しさの中で、シライを見上げるクロノがホッとした顔をしていたのを覚えている。
シライの見境がなくなっていたあのとき、クロノは「だめだ」と言った。「おれじゃだめなんだ」と言ったのだ。目を負傷したシライに、風が強い日の葉擦れのように「もうだめだ」と言われ続けたシライに、居場所を与えてくれたクロノが、クロノ自身のことを「だめだ」と言ったのだ。
そんなことはない。
だめではない。
クロノはだめではないのだ。
シライは前脚で地面を掻いた。
クロノを孕ませて、クロノはだめではないと証明する。
それがシライにできる恩返しだった。
◇
「平気か、シライ?」
びしょ濡れのクロノは自分のことはそっちのけでシライの体を拭いていた。シライを洗った後すぐに拭くようにしているのは濡れたまま土の上に転がられて洗い直しになった経験からだったが、今回は事情が違う。
予報にない急な雷雨だった。雨宿りできる場所を求めて走る来園者に逆走する形でシライの元に急いだクロノは、運動場の中を速歩で駆けているシライの姿を見た。
シライはクロノの姿を見ると足を緩めて寄ってきて、甘えるように頭を擦り寄せる。その間に轟く雷の音を、シライの耳は落ち着きなく追っていた。
拭かれているシライとしては、自分よりクロノの体が濡れていることの方が気になっていた。シライは本能的に小さい生き物の方が体温を失いやすいことを知っている。邪魔な帽子を奪い取り、クロノの濡れ髪を舌で舐めるが、クロノからは制止の声しか上がらない。濡れそぼったクロノの外側、衣服の部分を甘噛みしても結果は同じだった。
雨の日は全てが遠くなる。日頃はそこかしこで聞こえている声も今はほとんど届かない。おまけに雨音を掻き消すように大きな音が轟くたび、クロノの方からシライに近づいてくるのだ。
今回こそいけるのではないか。
シライは頭を低く下げ、鼻先でクロノの体を探った。匂いは雨のせいで薄まっているが、内側からクロノの温かな気配がする。濡れている部分が邪魔っ気だ。
「おれの服は後でいいんだ」
シライはクロノの声を聞きながら頭を高く上げて、周囲に誰もいないことを確かめる。誰かがいるときよりもいないときの方が、クロノは長くシライに触れてくれる。シライの認識を肯定するように、クロノの手はまだシライの体に触れている。
「シライ?」
シライが気にする方向をクロノも見る。クロノの頭の位置では何も見えないだろうに、四角く切り取られた窓の外を見ようとする。
自分の動きにクロノが従うことが気持ちよくて、シライはそっと一歩踏み出してみる。クロノが合わせて足を進めたことで興奮が増した。今すぐ駆け出したいような、止まっているのに心臓が弾んでいるような心地をこらえながら、シライはクロノの肩に頭を擦り寄せた。
◇
二度あることは三度あるという格言の通り、一度目の発情以降、クロノはたびたびシライの求愛を受けることになった。
獣医師の診断では異常なし。いくら馬の嗅覚が優れているといっても嗅ぎつけられる範囲に牝馬はおらず、強いて挙げるのならばクロノの存在だったが、牝馬の発情に促されて起きる牡馬の発情のメカニズムを踏まえれば考えにくく、シライに威嚇されがちな同僚の下世話な冗談の範疇を出ない。
常識があると言うべきか、シライは来園者の目の届く場所ではクロノに迫らない。クロノが朝一番に体調チェックをしに行ったときや、閉園後に限って愛情を見せてくるのだ。興奮状態にあるシライのペニスは字義通りの〝馬並み〟で、「飼育員さんにメロメロ♡」というほのぼのニュースとして報道するには絵面が生々しすぎるために、クロノはその点について少しほっとしている。
シライの体調管理もクロノの仕事だから勃起したことは日誌に書いているものの、自分相手にだけ発情するということが分かってからは、記すのも見返すのも何やら気まずかった。
クロノが無口を外すのを待っていたシライは、離れようとするクロノを引き止めるようにクロノの肩口に鼻先を擦り寄せた。耳元で聞こえる鼻息と作業着越しに感じる体温。シライはそっとしているつもりなのだろうが、クロノにとってはなかなかに強い力で押されている。
「こら、シライ」
生理反応であるシライの興奮を止める手立てはないものの、クロノの方で学習したことはある。シライは「だめ」と言う言葉に過剰に反応するのだ。持ち回りで担当する子供向けの説明係を終えたばかりなために、言い換える言葉が子供に諭すようなものになったのは致し方なしだ。
短期間に何度も見たせいで、クロノはぬらりと包皮から姿を現すシライのペニスが空で思い描けるようになってしまった。青毛の被毛と同じ黒々とした肉茎。牝馬と交尾するには必要十分な、自分の肘から先と同等の長さのものを挿入する気で向けられても、受け入れる器官を有さないクロノとしては途方に暮れるしかない。
シライはクロノの顔に鼻面を押し付け、首筋の匂いを確かめるように嗅いでから、クロノの脇の下に頭を潜り込ませようとする。一方的に情動を押し付けられた一回目と違い、どうにかクロノをその気にさせようとしているらしいことが分かるだけに、クロノもシライの求愛を無下にはできない。
「おれが何とかするしかないか……」
古いながらも蜘蛛の巣一つない馬房の天井を見上げながら、クロノは決意した。
◇
「痛い痛い痛い! やめろシライ!」
シライはむしり取らんばかりの勢いで噛みついていたクロノの頭髪を吐き出した。憤懣やる方ない様子でそっぽを向き、あばよとばかりに尻尾を一振りする。
「そんなに怒ることないだろ……」
馬の視野は広い。クロノはわざとらしく明後日の方向を見ているシライを見ながら、寝る間を惜しんで制作した擬牝台の安定を確かめるように揺すった。
シライが乗りやすいよう擬牝台の高さと傾斜には気を配ったし、リサイクルショップで買った布団を巻きつけて、牝馬の感触に少しでも近づくよう、そしてシライが怪我をしないよう硬さを調整してある。見た目が生身の馬から程遠いのは、シライの認識を侮ったわけでも、クロノの工作の腕が悪いせいでもなく、擬牝台というのは馬でも牛でも豚でも、体操競技で使う鞍馬(あんば)のような形をしているものなのだ。
「いい案だと思ったんだけどな」
クロノは仕方なく擬牝台の片付けに取り掛かる。予算が割けないところを苦心した甲斐あって出来栄えこそ良かったが、安定を確かなものにするためにはアンカーを打って固定する必要がある。仮にシライが擬牝台を気に入っていたとしても、今の状態では転倒する危険があるから使えなかった。
クロノはまだそっぽを向いているシライを振り返り、正直すぎる耳の動きを見て苦笑した。シライはクロノなど知らないという素振りを見せているくせに、視界にクロノを収めているのはもちろんのこと、しっかり様子を窺っているのだ。
「悪かった。今日は散歩に行こう。園内を歩くのは久しぶりだろ」
運動場はある程度の広さを確保してあるとはいえ、シライの生まれ故郷の牧場と比べれば猫の額で、競馬場のように全力疾走する機会もない。現役時代のようにレースのために移動することもないから、代わり映えのない景色に退屈しているのかもしれない。
言葉がそのまま通じるとは思わない。だが、シライがひょいと尻尾を高く上げたのを見て、クロノはシライの機嫌が直ったらしいことを察した。畳む
#運命の巻戻士 YouTubeショートのカカポアカバくんよかったですね小ネタ。カカポの生息域に踏み入れるナイトツアーはありません。住んでる島にホテルもないです。
「すごい声だったな……」
宿舎の部屋に戻り、ベッドに横になったシライは、ジャングルの中で聞いたカカポの鳴き声を思い出していた。風に乗って五キロメートル先まで聞こえることがあるという声は間近で聞くには大きすぎて、今も隣で鳴いているような気がする。
巻戻士本部への帰還は翌朝だ。
カカポを見られるナイトツアーがあるらしいぞ、と勧めてきたのは、充電に入る前のクロホンだった。
任務が終われば本部にとんぼ返りして次に備えるのが常で、生活のすべてを本部の中で行うシライには、公私の区別などあってないようなものだ。たまの空き時間に有意義な変化を持たせようとするあたり、よくできた相棒を持ったとシライは思う。
「……匂いまでしてきやがった……」
カカポの鳴き声の余韻のせいだろうか。シライはカカポの体臭である甘い匂いを感じた。花のような、蜂蜜のような、匂いだけでは食欲をそそるとまではいかないが、何となく心惹かれる香りだ。
「いや、近すぎだろ!?」
寝返りを打ったシライは、明らかに近くでしている鳴き声と匂いに飛び起きた。
ベッドサイドの明かりをつけ、気配がしている壁際を見る。
果たしてそこには草色をした地上最弱の鳥――カカポがうずくまっていた。
「マジかよ……」
カカポの個体数は少ない。日本野鳥の会にカウントを頼るまでもなく、発見された個体すべてに名前が付けられているくらいに少ない。乱獲で数を減らした過去を鑑みずとも、部屋に連れ帰るなど許されるはずもない。
「元の場所に戻しに行かねえと、オウムだけに大目玉だぜ……!」
「……それで、なんでこんなとこに穴があるんだよ」
カカポのオスは繁殖期になると穴を掘る。遠くにいるメスに声を届かせるために反響板を作る感じだ。通常はカカポ一羽が入れるほどの穴だが、シライが落ちた穴はシライがすっぽり収まれるほどに大きかった。カカポのオスたちで形成するレックの出来損ないなのか、それとも天候等、別の事情でできた窪地なのか。
「カカポは無事か?」
落ちる直前、シライは抱えてきたカカポを手放した。木登りが得意で樹上から飛び降りることもできるカカポなら、シライの着地に巻き込むよりも自主性に任せた方が安全という判断で、それは実際正しい判断だった。
まだ尻餅をついているシライを尻目に、カカポはナイトツアーで見たときと同じダンスを踊っている。シライはカカポの個体識別ができていないため、目の前にいるカカポがナイトツアーで会ったカカポなのかそうではないのかは分からなかったが。
「こういう話あったよな。追いかけて行って穴に落ちて……おむすびころりんか」
体を起こして座り直したシライは、踊っているカカポを見ながら頬杖をついた。
カカポは鳴き声を立てず、翼を広げて体を揺すりながら、拍子を取るようにカチカチとくちばしを鳴らしている。窪地であるためか、野外であるにもかかわらず甘い匂いが充満している。
ふわふわの丸っこい目の前で鳥が踊る。あまりにも平和な光景だった。
暢気に考えているシライは知らない。
野生動物としては珍しく、カカポの交尾への挑戦が四十分にも及ぶことを。
「すごい声だったな……」
宿舎の部屋に戻り、ベッドに横になったシライは、ジャングルの中で聞いたカカポの鳴き声を思い出していた。風に乗って五キロメートル先まで聞こえることがあるという声は間近で聞くには大きすぎて、今も隣で鳴いているような気がする。
巻戻士本部への帰還は翌朝だ。
カカポを見られるナイトツアーがあるらしいぞ、と勧めてきたのは、充電に入る前のクロホンだった。
任務が終われば本部にとんぼ返りして次に備えるのが常で、生活のすべてを本部の中で行うシライには、公私の区別などあってないようなものだ。たまの空き時間に有意義な変化を持たせようとするあたり、よくできた相棒を持ったとシライは思う。
「……匂いまでしてきやがった……」
カカポの鳴き声の余韻のせいだろうか。シライはカカポの体臭である甘い匂いを感じた。花のような、蜂蜜のような、匂いだけでは食欲をそそるとまではいかないが、何となく心惹かれる香りだ。
「いや、近すぎだろ!?」
寝返りを打ったシライは、明らかに近くでしている鳴き声と匂いに飛び起きた。
ベッドサイドの明かりをつけ、気配がしている壁際を見る。
果たしてそこには草色をした地上最弱の鳥――カカポがうずくまっていた。
「マジかよ……」
カカポの個体数は少ない。日本野鳥の会にカウントを頼るまでもなく、発見された個体すべてに名前が付けられているくらいに少ない。乱獲で数を減らした過去を鑑みずとも、部屋に連れ帰るなど許されるはずもない。
「元の場所に戻しに行かねえと、オウムだけに大目玉だぜ……!」
「……それで、なんでこんなとこに穴があるんだよ」
カカポのオスは繁殖期になると穴を掘る。遠くにいるメスに声を届かせるために反響板を作る感じだ。通常はカカポ一羽が入れるほどの穴だが、シライが落ちた穴はシライがすっぽり収まれるほどに大きかった。カカポのオスたちで形成するレックの出来損ないなのか、それとも天候等、別の事情でできた窪地なのか。
「カカポは無事か?」
落ちる直前、シライは抱えてきたカカポを手放した。木登りが得意で樹上から飛び降りることもできるカカポなら、シライの着地に巻き込むよりも自主性に任せた方が安全という判断で、それは実際正しい判断だった。
まだ尻餅をついているシライを尻目に、カカポはナイトツアーで見たときと同じダンスを踊っている。シライはカカポの個体識別ができていないため、目の前にいるカカポがナイトツアーで会ったカカポなのかそうではないのかは分からなかったが。
「こういう話あったよな。追いかけて行って穴に落ちて……おむすびころりんか」
体を起こして座り直したシライは、踊っているカカポを見ながら頬杖をついた。
カカポは鳴き声を立てず、翼を広げて体を揺すりながら、拍子を取るようにカチカチとくちばしを鳴らしている。窪地であるためか、野外であるにもかかわらず甘い匂いが充満している。
ふわふわの丸っこい目の前で鳥が踊る。あまりにも平和な光景だった。
暢気に考えているシライは知らない。
野生動物としては珍しく、カカポの交尾への挑戦が四十分にも及ぶことを。
#運命の巻戻士 どうすんだよって感じの人間のシライ×メダカのクロノ。性的描写を含みます。
シライは青いメダカを一匹飼っている。
研究室にいたのを入れ物ごともらったから元手は掛からなかったが、あれもこれもと甘やかした今では、水槽に掛けた費用はそれなりの金額になっている。
メダカの名前はクロノ。シライの帰宅時間に合わせて水槽のライトをつけるから、クロノにとっては昼が夜、夜が昼だ。クロノは物音というほどの音を立てないから、シライは互いの食事の間という短い逢瀬を楽しんでから、エアレーションのモーター音を聞きながら眠りにつくのだ。シライはクロノが動く姿を見るたび、自分が電気がついていても寝られる性質でよかったと思う。
卵がある。
帰宅したシライは、青々と茂ったマツモに付いた透明な卵を角度を変えて見た。
クロノは正真正銘の一匹飼い。水も水道水をカルキ抜きして使っている。卵は見た感じはメダカの卵で、今のマツモを入れて一か月は経っているから、マツモについてきた可能性は限りなく低い。状況的にクロノが産んだとしか思えなかった。
メダカの雌雄は分かりやすい。シライは小学校の授業で習って以来、久しぶりにメダカの雌雄の判別方法をインターネットで調べてみるが、やはりクロノはオスだった。
シライは水道水をそのまま飲むことに抵抗がない。水が原因でオスが卵を産むくらいなら、今頃シライだって産卵しているはずだ。
シライは水面に浮かんだ餌を食べているクロノを見ながら、ちらちらとマツモについた卵を見る。
小鳥は飼い主を番と考えて産卵することがあるらしいが、メダカにもそれがあるのだろうか。
ほんの出来心だった。
シライは食べ終えたコンビニ弁当のフタの一角に、クロノの卵を取り上げた。一つ一つ、卵を潰してしまわないようマツモから取り外していく。
それから、シライは使ったことのある信頼の置ける動画を再生した。泳いでいるクロノの姿を時折見ながら、無心に自分の分身を扱く。
結果として出力されたのは小さな卵の集まりには多すぎる量の精液で、クロノの卵は完全に浸ってしまった。
「……はは」
ティッシュに手を伸ばしながら、バカみてえ、とシライは思った。
電子レンジというのは便利なもので、ボタン一つで加熱調理が可能だ。シライは引っ越した当時から使っている、温め機能しかないちゃちな電子レンジのピーッという電子音を合図にドアを開ける。独特の臭気に顔を顰めた。
クロノの水槽の水量は少ない。温かいものを入れるのは急な温度上昇が心配だった。都合のいいことに、食べ残しで水質が悪くならないよう、クロノが食べ切れるサイズに切り分けてやれば、〝餌〟はすぐに冷たくなった。
「大きくなれよ」
水面に浮かぶ白い塊をツンツンとつついているクロノの姿を見ながら、シライは満ち足りた気持ちで頬杖をついた。畳む
シライは青いメダカを一匹飼っている。
研究室にいたのを入れ物ごともらったから元手は掛からなかったが、あれもこれもと甘やかした今では、水槽に掛けた費用はそれなりの金額になっている。
メダカの名前はクロノ。シライの帰宅時間に合わせて水槽のライトをつけるから、クロノにとっては昼が夜、夜が昼だ。クロノは物音というほどの音を立てないから、シライは互いの食事の間という短い逢瀬を楽しんでから、エアレーションのモーター音を聞きながら眠りにつくのだ。シライはクロノが動く姿を見るたび、自分が電気がついていても寝られる性質でよかったと思う。
卵がある。
帰宅したシライは、青々と茂ったマツモに付いた透明な卵を角度を変えて見た。
クロノは正真正銘の一匹飼い。水も水道水をカルキ抜きして使っている。卵は見た感じはメダカの卵で、今のマツモを入れて一か月は経っているから、マツモについてきた可能性は限りなく低い。状況的にクロノが産んだとしか思えなかった。
メダカの雌雄は分かりやすい。シライは小学校の授業で習って以来、久しぶりにメダカの雌雄の判別方法をインターネットで調べてみるが、やはりクロノはオスだった。
シライは水道水をそのまま飲むことに抵抗がない。水が原因でオスが卵を産むくらいなら、今頃シライだって産卵しているはずだ。
シライは水面に浮かんだ餌を食べているクロノを見ながら、ちらちらとマツモについた卵を見る。
小鳥は飼い主を番と考えて産卵することがあるらしいが、メダカにもそれがあるのだろうか。
ほんの出来心だった。
シライは食べ終えたコンビニ弁当のフタの一角に、クロノの卵を取り上げた。一つ一つ、卵を潰してしまわないようマツモから取り外していく。
それから、シライは使ったことのある信頼の置ける動画を再生した。泳いでいるクロノの姿を時折見ながら、無心に自分の分身を扱く。
結果として出力されたのは小さな卵の集まりには多すぎる量の精液で、クロノの卵は完全に浸ってしまった。
「……はは」
ティッシュに手を伸ばしながら、バカみてえ、とシライは思った。
電子レンジというのは便利なもので、ボタン一つで加熱調理が可能だ。シライは引っ越した当時から使っている、温め機能しかないちゃちな電子レンジのピーッという電子音を合図にドアを開ける。独特の臭気に顔を顰めた。
クロノの水槽の水量は少ない。温かいものを入れるのは急な温度上昇が心配だった。都合のいいことに、食べ残しで水質が悪くならないよう、クロノが食べ切れるサイズに切り分けてやれば、〝餌〟はすぐに冷たくなった。
「大きくなれよ」
水面に浮かぶ白い塊をツンツンとつついているクロノの姿を見ながら、シライは満ち足りた気持ちで頬杖をついた。畳む
#ツイステ トレリドです。口調は小園さんにチェックしてもらいました✌️
「ボクはキミのことを長幼の序を持ち出すようなつまらない男ではないと思っていたんだけれど……」
皆まで言わずとも分かるだろうと言いたげなリドルの眼差しを受けて、トレイは浮かべた笑顔は消さないまま、密かに腹に力を入れた。相手はリドルだ。自分が抱く側をやりたい理由を述べるのに、半端に日和るべきではなかったのだ。
まるでそこが玉座でもあるかのようにトレイの部屋の椅子に腰掛けたリドルは、奥にあるベッドを流し見る。副寮長と言えども自室は何もかもを見渡せるワンルームだ。リドルを部屋に招くのは今までだって散々してきたことなのに、今日ばかりはベッドの存在感が大きかった。
「たかだが一歳差。学内のことならまだしも、プライベートのことにまで有効とは思えない。キミにボクを説得できるだけの用意はあるのかい?」
「……ないな」
トレイは肩の力を抜いた。これは遊びだ。前哨戦ですらない。猫が鼠を嬲るような様子ながら、猫であるリドルはその鼠が安全な檻に入っていることを知っている。
「俺がお前を抱きたい。理由はただそれだけだ」
「副寮長ともあろう者が随分と稚拙な物言いをするね」
「何とでも。俺は欲しいものを我慢できない性質だからな。お前と違って」
すっとリドルの片目が細まる。
リドルの前でリドルの過去に触れるのはずっとしてこなかったことだ。それはトレイの後悔でもあったが、今手札として使った理由はもっと単純。欲しいものを手に入れるためなら、どんな情けないことでもしてやろうという気になっているからだ。もちろん、リドルが傷つかないことに限ってだが。
トレイは一歩踏み出した。踵が床を叩く音が妙に大きく聞こえる。
「想像したこともなかったか? 俺がどんなにお前を好きで――」
一か八か。トレイはリドルの小さな顎の下に手を伸ばすが、指先が触れる寸前にぱしりと叩くように掴まれる。
しかし、その手が離されることはなかった。
トレイはリドルの指先の少し冷たいくらいな温度を感じながら、リドルをじっと見据える。
「この手に収めてみたいと思っていたかを」
口上を言い切ったトレイが誘うように口元を緩めて見せても、リドルの表情は変わらない。瞳の奥にある感情が不機嫌ではないことまでは分かったが、リドルが瞳を伏せてしまったためにそれ以上の追求は不可能だった。
「不遜だね。キミの手には余るんじゃないかい」
ダンスのリードを受けるような形になっていた手をそのままに、椅子から立ち上がったリドルは、手のひらをすいと返し、トレイの手を下から掬い上げるように持つ。彼我の身長差は二十一センチ。トレイの手は文字通り、リドルの手に余る状態だ。それでも頼りなさを感じさせないのは、リドルの放つ威厳が成せる業だろう。
「おいで、トレイ。口説き方を教えてあげる」
「ボクはキミのことを長幼の序を持ち出すようなつまらない男ではないと思っていたんだけれど……」
皆まで言わずとも分かるだろうと言いたげなリドルの眼差しを受けて、トレイは浮かべた笑顔は消さないまま、密かに腹に力を入れた。相手はリドルだ。自分が抱く側をやりたい理由を述べるのに、半端に日和るべきではなかったのだ。
まるでそこが玉座でもあるかのようにトレイの部屋の椅子に腰掛けたリドルは、奥にあるベッドを流し見る。副寮長と言えども自室は何もかもを見渡せるワンルームだ。リドルを部屋に招くのは今までだって散々してきたことなのに、今日ばかりはベッドの存在感が大きかった。
「たかだが一歳差。学内のことならまだしも、プライベートのことにまで有効とは思えない。キミにボクを説得できるだけの用意はあるのかい?」
「……ないな」
トレイは肩の力を抜いた。これは遊びだ。前哨戦ですらない。猫が鼠を嬲るような様子ながら、猫であるリドルはその鼠が安全な檻に入っていることを知っている。
「俺がお前を抱きたい。理由はただそれだけだ」
「副寮長ともあろう者が随分と稚拙な物言いをするね」
「何とでも。俺は欲しいものを我慢できない性質だからな。お前と違って」
すっとリドルの片目が細まる。
リドルの前でリドルの過去に触れるのはずっとしてこなかったことだ。それはトレイの後悔でもあったが、今手札として使った理由はもっと単純。欲しいものを手に入れるためなら、どんな情けないことでもしてやろうという気になっているからだ。もちろん、リドルが傷つかないことに限ってだが。
トレイは一歩踏み出した。踵が床を叩く音が妙に大きく聞こえる。
「想像したこともなかったか? 俺がどんなにお前を好きで――」
一か八か。トレイはリドルの小さな顎の下に手を伸ばすが、指先が触れる寸前にぱしりと叩くように掴まれる。
しかし、その手が離されることはなかった。
トレイはリドルの指先の少し冷たいくらいな温度を感じながら、リドルをじっと見据える。
「この手に収めてみたいと思っていたかを」
口上を言い切ったトレイが誘うように口元を緩めて見せても、リドルの表情は変わらない。瞳の奥にある感情が不機嫌ではないことまでは分かったが、リドルが瞳を伏せてしまったためにそれ以上の追求は不可能だった。
「不遜だね。キミの手には余るんじゃないかい」
ダンスのリードを受けるような形になっていた手をそのままに、椅子から立ち上がったリドルは、手のひらをすいと返し、トレイの手を下から掬い上げるように持つ。彼我の身長差は二十一センチ。トレイの手は文字通り、リドルの手に余る状態だ。それでも頼りなさを感じさせないのは、リドルの放つ威厳が成せる業だろう。
「おいで、トレイ。口説き方を教えてあげる」
#小説更新 運命の巻戻士のシラゴロ「トライ」をアップしました。シラゴロの習作です。
#ただの日記 先日花屋さんと芋餅さんと一緒に神戸どうぶつ王国に行きました。毛が生えた生き物をいっぱい見られて楽しかったです!うんこするとこも見られました!
そのときにスケブ書こうって話があったのですが、私が海を見に行きたがったので流れちゃったので、あとで電車で書いたやつを畳んでおきます。
#運命の巻戻士
「おはよ、隊長。たまにはおれが髭当たってやるよ」
朝一番。浮かれた様子でやってきたシライを見てゴローは顔をしかめた。
慣れというのは恐ろしいものだ。久しぶりに接するシライに新鮮さを感じられたのは一瞬で、ゴローは表舞台に戻って一月と経たないうちに他人と関わる煩雑さを感じるようになっていた。
かつて3時相手にしていたような腹の探り合いは必要ないし、若い自分から事あるごとに向けられた疑念混じりの目を向けられることもない。煩わしさの理由はただ一つ、ゴローにとってシライは傷つけていい相手ではなく、守るべき部下の一人だということだ。
「変な顔すんなよ。おれに髭の剃り方教えたの隊長じゃねえか。それにおれは刃物の扱いは得意だぜ」
シライの刃物の扱いに関する信用はまだしも、髭の剃り方など教えたことがあっただろうか。シライと全く関わっていなかった数十年を省略して記憶を辿りかけたゴローは、やけに大人しく待っているシライを再度見た。シライはわざとらしく目を眇める。
「隊長にも忘れることってあるんだな」
ゴローは溜め息をついた。
「朝から冗談に付き合う余裕はない。おれはおまえに髭の剃り方を教えたことはない」
「それこそ冗談だろ、余裕のない隊長なんか見たことねーよ。おれとしては今から教えてくれたって構わねえけど」
「それに何の意味がある」
「やることなすこと意味しかねえ人生送ってる隊長も、たまには無意味なことをしたいかと思って。他のことがやりてえなら、あの棚の本を全部出して元通りに並べ直すってのはどうだ? さび抜きの寿司頼んでわさび醤油で食うのもいいな」
「……髭も本棚も結構だ。自分でできる」
この会話を続けることこそが無意味だ。ゴローが向けた視線の意味を正確に取れているだろうシライは、ひょいと肩を竦めた。畳む
#ただの日記 先日花屋さんと芋餅さんと一緒に神戸どうぶつ王国に行きました。毛が生えた生き物をいっぱい見られて楽しかったです!うんこするとこも見られました!
そのときにスケブ書こうって話があったのですが、私が海を見に行きたがったので流れちゃったので、あとで電車で書いたやつを畳んでおきます。
#運命の巻戻士
「おはよ、隊長。たまにはおれが髭当たってやるよ」
朝一番。浮かれた様子でやってきたシライを見てゴローは顔をしかめた。
慣れというのは恐ろしいものだ。久しぶりに接するシライに新鮮さを感じられたのは一瞬で、ゴローは表舞台に戻って一月と経たないうちに他人と関わる煩雑さを感じるようになっていた。
かつて3時相手にしていたような腹の探り合いは必要ないし、若い自分から事あるごとに向けられた疑念混じりの目を向けられることもない。煩わしさの理由はただ一つ、ゴローにとってシライは傷つけていい相手ではなく、守るべき部下の一人だということだ。
「変な顔すんなよ。おれに髭の剃り方教えたの隊長じゃねえか。それにおれは刃物の扱いは得意だぜ」
シライの刃物の扱いに関する信用はまだしも、髭の剃り方など教えたことがあっただろうか。シライと全く関わっていなかった数十年を省略して記憶を辿りかけたゴローは、やけに大人しく待っているシライを再度見た。シライはわざとらしく目を眇める。
「隊長にも忘れることってあるんだな」
ゴローは溜め息をついた。
「朝から冗談に付き合う余裕はない。おれはおまえに髭の剃り方を教えたことはない」
「それこそ冗談だろ、余裕のない隊長なんか見たことねーよ。おれとしては今から教えてくれたって構わねえけど」
「それに何の意味がある」
「やることなすこと意味しかねえ人生送ってる隊長も、たまには無意味なことをしたいかと思って。他のことがやりてえなら、あの棚の本を全部出して元通りに並べ直すってのはどうだ? さび抜きの寿司頼んでわさび醤油で食うのもいいな」
「……髭も本棚も結構だ。自分でできる」
この会話を続けることこそが無意味だ。ゴローが向けた視線の意味を正確に取れているだろうシライは、ひょいと肩を竦めた。畳む
#運命の巻戻士 Twitter2024年8月10日 10:48に言った「事故で死ぬのがトキネじゃなくクロノな方の世界で、毎年ふらりと訪ねてくるシライと兄の死を悼み続けるために形だけの結婚をしたトキネが、初夜に儀式的にセックスしようとして勃たずに謝るシライのごめんがどうしても兄に対するものに聞こえてしまうやつ」を書こうとしたんですが、トキネが後ろ向きなん落ち着かんなぁ!ってなったから供養。
#追記 2024/08/14 9:42 結婚後の生活を足しました。
「わたしと結婚しませんか」
プロポーズはトキネからだった。
シライの人となりを十分に知っているとは言い難い。
なにせシライは年に一度、兄の命日に訪ねてくるだけの男だったから。
兄が命を落とした場所で待ち合わせて、トキネの家まで案内する。途中で買うお供えは、トキネの好みに合わせて買い求められる。最初に聞いた「知恵を貸してくれ、菓子だけに」というダジャレは全く上手くなかったけれど、買ってくれるお菓子はいつもおいしい。それだけに、兄の感想が聞けないことが寂しい。
家までの移動時間と、二つ折りにした線香が燃え尽きるまでを十二回分。
それが、トキネがシライと過ごした時間の全てだった。
兄の葬儀はこじんまりとしたものだった。
トキネが生まれるよりずっと前に流行した感染症の影響で、葬儀は身内だけで行われることが主流になっていたが、もし大々的にやったとしても、参列者は少なかったに違いない。トキネは兄が友達と遊んでいるところを見たことがなかったし、友達の話を聞いたこともなかった。
当時のトキネは小さくて、両親と兄の担任が話している内容は半分も理解できなかったけれど、家を出るときの担任が、どことなくホッとした様子だったことを覚えている。そのせいか、それとも違うのか、通夜も告別式も、子供はトキネだけだった。
棺に収められた兄の顔は穏やかで、暗い顔ばかり見ていたトキネには、知らない人であるように見えた。
去りどきが分からないでいるところを母に背中を押されて、元の席に戻る。
シライを見たのは、そのときが初めてだったと思う。
視線を感じて顔を上げて、知らない大人と目が合ったのだ。紫がかった黒髪の、黒猫みたいな黄色い目の人。今なら目礼でもして済ませるところを、トキネは驚き立ち止まってしまった。その日トキネに話しかける大人は一様に、トキネと目を合わせないようにしていたから。母が肩に手を添えてこなければ、そのまま立ち尽くしていたかもしれない。
焼香の列が切れ目なく続いて、両親に倣って頭を下げる。
シライの背中を見たトキネは「さっきのひとだ」と思ったけれど、その日はもう目が合わなかった。
命日は必ず平日になるわけではない。
一周忌、三回忌、七回忌。法事は先に延ばさないという、誰が始めたのか分からない慣例に則って、両親は年忌法要を仕事の都合がつく日に前倒しで執り行った。命日は命日で手を合わせるし、月命日だって朝晩にだって兄の写真を見ているから、法要は両親の言う通り「そういうもの」なのだとトキネは理解している。お宮参りと七五三に神社で撮った写真があるし、クリスマスには毎年ケーキを食べる。小さい頃にはハロウィンだってやっていた。
だから毎年きっちり命日に現れるシライは、トキネから見れば不思議な存在だった。
七月七日の、兄が死亡した時刻。
トキネは最初それを覚えていなかったが、毎年シライが同じ時刻に現れるものだから、逆に覚えてしまった。
七回忌を翌年に控えた頃にはトキネも中学生で、少しは物事が分かるようになっていたから、シライに七回忌法要があるらしいことを告げ、家族だけでするものだけどよければ、と誘ったのだ。一年先の話で、土日にやるということ以外、詳しいことは決まっていなかったけれど。
その時のシライの答えは否だった。
トキネの家のダイニングテーブルについたシライは、先ほど手を合わせたばかりの兄の写真を寂しそうな顔で見てから、「この時間以外来られねえんだ」と首を振った。シライは元々浮世離れした感のある人間だったが、そのときトキネは幽霊を見ているようだと思った。
驚いたときのシライは、急に人間に出会った猫のような顔をする。
トキネがプロポーズをしたのはこれが初めてだったが、シライが断ろうとしているということは分かった。後学のために断り文句を聞いてみたい気がしたが、反論を用意するのが面倒だ。
「おじさん結婚してる?」
「いや」
「だよね、指輪してないもん」
「……しない人もいるだろ」
「でもしてないんだよね」
「からかうのはよせ。トキネちゃんとおれじゃ年が離れすぎてる」
「お兄ちゃんならよかった?」
「……!」
分かりやすい反応だった。
シライはたぶん、トキネの――トキネの兄の前を、自分の感情を隠さなくていい場所だと思っている。十二年分の積み重ねを裏切るようで胸は傷むが、トキネとしては今決めてしまいたかった。
前を向きたくないわけじゃない。ただずっと、兄のことを思っていたかった。
◇
シライはトキネが実家から持ち出した写真を、一枚一枚、目に焼き付けるように見ていた。風呂から上がったトキネが続きは明日にしたらと言っても、もう少しだけと繰り返すばかりで、一向にモニターの前を離れない。
諦めたトキネが隣に座ると、シライはこれ幸いとばかりに、写真にまつわる思い出話をねだってきた。トキネとしても兄の話ができるのはやぶさかではないから、記憶を手繰り寄せて話をする。話の取り散らかり方は子供を相手にするのにも似ていて、これではどちらが年上だか分からない。
トキネが実家にいた頃、訪ねてきたシライにシライと兄の思い出を聞かせてほしいと言っても、シライは困った顔をするだけだった。「トキネちゃんに言えることじゃねえんだけど」という前置きと共に聞かされた「気持ちの整理がついていない」という言葉は、確かに肉親相手に言うには不適切だ。
それでもトキネがシライを兄の知り合いであると信じて疑わなかったのは、リビングに飾られた兄の遺影を見るシライの目が、懇意にした相手でなければありえないほどに柔らかかったからだ。トキネは兄のことをそんな風に愛しげに見る人間を、両親の他に知らなかった。
「おじさん、そろそろ寝ないと。明日も仕事でしょ?」
「トキネちゃんは?」
「わたしはお休み!」
「じゃあもう少しいいだろ」
「もー、知らないからね」
トキネはシライが何の仕事をしているのか知らない。毎朝ふらりと出て行って、夜に帰って来ることもあるし、日をまたぐことも珍しくない。弔問するシライがスーツを着ていたのは、仕事帰りだからではなくわざわざなのだと知ったのは、一緒に住むようになってからだ。
目の下の隈の濃さを見れば、シライが眠れていないのは明らかだった。
トキネがシライの寝顔を見たのは結婚初夜。「そういうものだから」という理由でしようとしたセックスに失敗して、裸で抱き合って眠ったその日だけだ。
シライの体を抱いて、同時に抱かれているとき、トキネは自分が兄に向けている感情に、珍しくもない名前が付いていることを知った。畳む
#追記 2024/08/14 9:42 結婚後の生活を足しました。
「わたしと結婚しませんか」
プロポーズはトキネからだった。
シライの人となりを十分に知っているとは言い難い。
なにせシライは年に一度、兄の命日に訪ねてくるだけの男だったから。
兄が命を落とした場所で待ち合わせて、トキネの家まで案内する。途中で買うお供えは、トキネの好みに合わせて買い求められる。最初に聞いた「知恵を貸してくれ、菓子だけに」というダジャレは全く上手くなかったけれど、買ってくれるお菓子はいつもおいしい。それだけに、兄の感想が聞けないことが寂しい。
家までの移動時間と、二つ折りにした線香が燃え尽きるまでを十二回分。
それが、トキネがシライと過ごした時間の全てだった。
兄の葬儀はこじんまりとしたものだった。
トキネが生まれるよりずっと前に流行した感染症の影響で、葬儀は身内だけで行われることが主流になっていたが、もし大々的にやったとしても、参列者は少なかったに違いない。トキネは兄が友達と遊んでいるところを見たことがなかったし、友達の話を聞いたこともなかった。
当時のトキネは小さくて、両親と兄の担任が話している内容は半分も理解できなかったけれど、家を出るときの担任が、どことなくホッとした様子だったことを覚えている。そのせいか、それとも違うのか、通夜も告別式も、子供はトキネだけだった。
棺に収められた兄の顔は穏やかで、暗い顔ばかり見ていたトキネには、知らない人であるように見えた。
去りどきが分からないでいるところを母に背中を押されて、元の席に戻る。
シライを見たのは、そのときが初めてだったと思う。
視線を感じて顔を上げて、知らない大人と目が合ったのだ。紫がかった黒髪の、黒猫みたいな黄色い目の人。今なら目礼でもして済ませるところを、トキネは驚き立ち止まってしまった。その日トキネに話しかける大人は一様に、トキネと目を合わせないようにしていたから。母が肩に手を添えてこなければ、そのまま立ち尽くしていたかもしれない。
焼香の列が切れ目なく続いて、両親に倣って頭を下げる。
シライの背中を見たトキネは「さっきのひとだ」と思ったけれど、その日はもう目が合わなかった。
命日は必ず平日になるわけではない。
一周忌、三回忌、七回忌。法事は先に延ばさないという、誰が始めたのか分からない慣例に則って、両親は年忌法要を仕事の都合がつく日に前倒しで執り行った。命日は命日で手を合わせるし、月命日だって朝晩にだって兄の写真を見ているから、法要は両親の言う通り「そういうもの」なのだとトキネは理解している。お宮参りと七五三に神社で撮った写真があるし、クリスマスには毎年ケーキを食べる。小さい頃にはハロウィンだってやっていた。
だから毎年きっちり命日に現れるシライは、トキネから見れば不思議な存在だった。
七月七日の、兄が死亡した時刻。
トキネは最初それを覚えていなかったが、毎年シライが同じ時刻に現れるものだから、逆に覚えてしまった。
七回忌を翌年に控えた頃にはトキネも中学生で、少しは物事が分かるようになっていたから、シライに七回忌法要があるらしいことを告げ、家族だけでするものだけどよければ、と誘ったのだ。一年先の話で、土日にやるということ以外、詳しいことは決まっていなかったけれど。
その時のシライの答えは否だった。
トキネの家のダイニングテーブルについたシライは、先ほど手を合わせたばかりの兄の写真を寂しそうな顔で見てから、「この時間以外来られねえんだ」と首を振った。シライは元々浮世離れした感のある人間だったが、そのときトキネは幽霊を見ているようだと思った。
驚いたときのシライは、急に人間に出会った猫のような顔をする。
トキネがプロポーズをしたのはこれが初めてだったが、シライが断ろうとしているということは分かった。後学のために断り文句を聞いてみたい気がしたが、反論を用意するのが面倒だ。
「おじさん結婚してる?」
「いや」
「だよね、指輪してないもん」
「……しない人もいるだろ」
「でもしてないんだよね」
「からかうのはよせ。トキネちゃんとおれじゃ年が離れすぎてる」
「お兄ちゃんならよかった?」
「……!」
分かりやすい反応だった。
シライはたぶん、トキネの――トキネの兄の前を、自分の感情を隠さなくていい場所だと思っている。十二年分の積み重ねを裏切るようで胸は傷むが、トキネとしては今決めてしまいたかった。
前を向きたくないわけじゃない。ただずっと、兄のことを思っていたかった。
◇
シライはトキネが実家から持ち出した写真を、一枚一枚、目に焼き付けるように見ていた。風呂から上がったトキネが続きは明日にしたらと言っても、もう少しだけと繰り返すばかりで、一向にモニターの前を離れない。
諦めたトキネが隣に座ると、シライはこれ幸いとばかりに、写真にまつわる思い出話をねだってきた。トキネとしても兄の話ができるのはやぶさかではないから、記憶を手繰り寄せて話をする。話の取り散らかり方は子供を相手にするのにも似ていて、これではどちらが年上だか分からない。
トキネが実家にいた頃、訪ねてきたシライにシライと兄の思い出を聞かせてほしいと言っても、シライは困った顔をするだけだった。「トキネちゃんに言えることじゃねえんだけど」という前置きと共に聞かされた「気持ちの整理がついていない」という言葉は、確かに肉親相手に言うには不適切だ。
それでもトキネがシライを兄の知り合いであると信じて疑わなかったのは、リビングに飾られた兄の遺影を見るシライの目が、懇意にした相手でなければありえないほどに柔らかかったからだ。トキネは兄のことをそんな風に愛しげに見る人間を、両親の他に知らなかった。
「おじさん、そろそろ寝ないと。明日も仕事でしょ?」
「トキネちゃんは?」
「わたしはお休み!」
「じゃあもう少しいいだろ」
「もー、知らないからね」
トキネはシライが何の仕事をしているのか知らない。毎朝ふらりと出て行って、夜に帰って来ることもあるし、日をまたぐことも珍しくない。弔問するシライがスーツを着ていたのは、仕事帰りだからではなくわざわざなのだと知ったのは、一緒に住むようになってからだ。
目の下の隈の濃さを見れば、シライが眠れていないのは明らかだった。
トキネがシライの寝顔を見たのは結婚初夜。「そういうものだから」という理由でしようとしたセックスに失敗して、裸で抱き合って眠ったその日だけだ。
シライの体を抱いて、同時に抱かれているとき、トキネは自分が兄に向けている感情に、珍しくもない名前が付いていることを知った。畳む
#運命の巻戻士 スマホンとクロノ
「スマホンは通話できるのか?」
「できますよ。誰にかけますか?」
スマホンが問い返すと、クロノは問いかけた口の形をしたまま動かなくなった。
待ち時間の間、親しみやすさを与えるためだけに用意されたまばたきのアニメーションを再生していたスマホンは、長過ぎる沈黙に不自然さを感じて密かに探知機能を作動させる。ここはクロノの部屋の中だ。厳重なセキュリティに守られた本部の中でもある。クロックハンズの手が入っているとは考えられないが、万が一ということがある。
「聞いただけだ」
クロノからあっけらかんと言われたのはその時だった。
「そうでしたか。クロノさんが動かなくなるから、何かあったのかと驚きました」
スマホンはホッとした顔を画面に表示させた。
クロノはベッドマットの側面に背中を預けている。一度断られてから提案していないが、床に座るのならラグや座布団を使う方が体にいい。求められればすぐに出せるよう、作成したリストは今もバックグラウンドで更新を続けている。
クロノの部屋の家具は入居した日から増えていない。任務で弁償したものが一時的に置かれることはあるものの、基本的には初期状態が保たれていて、あとは机の上に図書室の本が出現するくらいか。
動物図鑑に植物図鑑、地図帳に鉱物の本。本部の図書室に子供向けの本がほとんどないことを差し引いても、クロノの興味はヒト以外のことを書いた書物に向かっている。唯一私蔵している本は辞典で、クロノがそれを開くたび、スマホンは自分に聞いてくれればいいのにと思っている。
「誰の連絡先も知らないからかけられないだろ。あ、おじさんのは知ってるか」
「連絡先の閲覧について、クロノさんの権限を調べましょうか?」
「ううん、いいんだ。本当に聞いてみただけだから」
スマホンが食い下がったのには理由がある。
クロノは休日の大半をぼんやりして過ごしている。野生動物は餌を探している時と食べている時以外はほとんど寝ていると言うが、健康なヒトが同じ状態というのは少々心配になる状況だ。クロノの人生に巻戻士としての時間以外が存在しないことの危うさを、スマホンは新人教育AIとして、当事者であるクロノよりも理解していた。
「クロノさん……」
一人でゆっくりと過ごしたいと言うのなら止めはしない。それもまた一つの休息の形だ。だが、通話機能の有無を確かめたということは、誰かと話したいということではないのだろうか。
「……トレーニングルームに行きますか? 誰かいるかもしれませんよ」
「うん」
意識が向いているのだから生返事とは言わないが、同意と判断することはできない応答だ。スマホンはもう一度まばたきをして、判断を補強する材料の表出を待つ。蓄積されたデータを元にすると、クロノが今からトレーニングルームに行く可能性は限りなく低い。
果たして立ち上がらなかったクロノは、分かりにくいなりに口角を上げた。
「スマホンと話したかったんだ」
「そうでしたか!」
スマホンはぱっと画面の輝度を上げた。
「何の話をしますか? 本日のニュースから、クロノさんが興味を持ちそうな話題をピックアップします」
スマホンは張り切って検索を始めた。任務後に充電したからバッテリーは満タンだ。CPUの温度も適正。クロノの役に立つために、何の不安もなかった。畳む
スマホンもモデルAみたいに一個の人格があってほしい気持ちと、感情を持ったアンドロイドが存在する世界であえてのAIなんだから感情を模しただけの別物であってほしい気持ちの両方がある。この話は後者です。
「スマホンは通話できるのか?」
「できますよ。誰にかけますか?」
スマホンが問い返すと、クロノは問いかけた口の形をしたまま動かなくなった。
待ち時間の間、親しみやすさを与えるためだけに用意されたまばたきのアニメーションを再生していたスマホンは、長過ぎる沈黙に不自然さを感じて密かに探知機能を作動させる。ここはクロノの部屋の中だ。厳重なセキュリティに守られた本部の中でもある。クロックハンズの手が入っているとは考えられないが、万が一ということがある。
「聞いただけだ」
クロノからあっけらかんと言われたのはその時だった。
「そうでしたか。クロノさんが動かなくなるから、何かあったのかと驚きました」
スマホンはホッとした顔を画面に表示させた。
クロノはベッドマットの側面に背中を預けている。一度断られてから提案していないが、床に座るのならラグや座布団を使う方が体にいい。求められればすぐに出せるよう、作成したリストは今もバックグラウンドで更新を続けている。
クロノの部屋の家具は入居した日から増えていない。任務で弁償したものが一時的に置かれることはあるものの、基本的には初期状態が保たれていて、あとは机の上に図書室の本が出現するくらいか。
動物図鑑に植物図鑑、地図帳に鉱物の本。本部の図書室に子供向けの本がほとんどないことを差し引いても、クロノの興味はヒト以外のことを書いた書物に向かっている。唯一私蔵している本は辞典で、クロノがそれを開くたび、スマホンは自分に聞いてくれればいいのにと思っている。
「誰の連絡先も知らないからかけられないだろ。あ、おじさんのは知ってるか」
「連絡先の閲覧について、クロノさんの権限を調べましょうか?」
「ううん、いいんだ。本当に聞いてみただけだから」
スマホンが食い下がったのには理由がある。
クロノは休日の大半をぼんやりして過ごしている。野生動物は餌を探している時と食べている時以外はほとんど寝ていると言うが、健康なヒトが同じ状態というのは少々心配になる状況だ。クロノの人生に巻戻士としての時間以外が存在しないことの危うさを、スマホンは新人教育AIとして、当事者であるクロノよりも理解していた。
「クロノさん……」
一人でゆっくりと過ごしたいと言うのなら止めはしない。それもまた一つの休息の形だ。だが、通話機能の有無を確かめたということは、誰かと話したいということではないのだろうか。
「……トレーニングルームに行きますか? 誰かいるかもしれませんよ」
「うん」
意識が向いているのだから生返事とは言わないが、同意と判断することはできない応答だ。スマホンはもう一度まばたきをして、判断を補強する材料の表出を待つ。蓄積されたデータを元にすると、クロノが今からトレーニングルームに行く可能性は限りなく低い。
果たして立ち上がらなかったクロノは、分かりにくいなりに口角を上げた。
「スマホンと話したかったんだ」
「そうでしたか!」
スマホンはぱっと画面の輝度を上げた。
「何の話をしますか? 本日のニュースから、クロノさんが興味を持ちそうな話題をピックアップします」
スマホンは張り切って検索を始めた。任務後に充電したからバッテリーは満タンだ。CPUの温度も適正。クロノの役に立つために、何の不安もなかった。畳む
スマホンもモデルAみたいに一個の人格があってほしい気持ちと、感情を持ったアンドロイドが存在する世界であえてのAIなんだから感情を模しただけの別物であってほしい気持ちの両方がある。この話は後者です。
#運命の巻戻士 習作的なもの。シライとクロノ。
カフェスペースの奥、壁面に据え付けられたカウンターに珍しい姿を見つけて、通り過ぎようとしていたシライは足を止めた。
昼間ならば休憩や気分転換を兼ねた作業場として活気に満ちているこの場所も、夜に近づくにつれて静けさが幅を利かせだす。施設内の温度は巻戻士たちを万全の状態で送り出せるよう常に一定に保たれていたが、誰もいないというだけで体感温度は一、二度低くなる。
「クロノ」
「おじさん」
「お兄さんだ。どうした、こんなところで」
任務終了後、次の任務を与えられるまでのインターバルの中に、高負荷のトレーニングが禁止されている期間がある。生憎シライは特級巻戻士を冠していた間、インターバル制度の恩恵にあずかれたことはなかったが、高負荷トレーニング禁止期間の存在は知っていた。
肉体を追い込むことで精神的な傷から目をそらしても、その先に待つのは破滅以外にない。適切なカウンセリングを受けた結果の休職と、それに伴う慢性的な人手不足。シライに付けられた管理監督者に準ずる役職は、労務部門の小言をかわすための方便で、シライは現場に出る以外の仕事をしたことはなかった。
「疲れていないと寝付かれないか?」
「……」
初任務はつつがなく終わったと聞いている。クロノの手元にあるドリンクは、館内の自動販売機ではなく、外で買ってきたものだ。本部を出て左に進んだ先の角にある店のロゴが入った蓋付きカップ。カップの外見からホットドリンクだと推察できるものの、何を飲んでいるのかまでは分からない。
平時のクロノの表情に覇気がないのは今に始まったことではないし、自分も人のことは言えない。シライはじっと見てくるクロノの瞳を見つめ返しながら、不調の兆しがないかを探った。精神の強さは贔屓目なしに折り紙付き。それでも、クロノが子供なのだということを忘れる気はなかった。
「別に、いつでも寝られる」
「そうか」
先に目をそらしたのはクロノの方だった。
事実として、クロノの寝付きは驚くほどにいい。巻戻士に必要な、後付けで身に付けることが難しい技能だ。クロノの持つそれが生来のものか後天的なものなのかは、巻戻士を目指す前のクロノを知らないシライには分からない。
「何を飲んでいるんだ?」
「コーヒー」
「へえ、大人だな。おれは飲めない」
本当かという目を向けてきたクロノに、シライは軽く頷いた。
「嘘をつく意味がないだろう。おまえ相手に取りつくろう必要もない」
「おじさん結構抜けてるもんな」
春の日差しのようにうららかで、悪意のない眼差しだった。あまり見る機会のない和やかな表情に気を取られ、ツッコミが遅れたシライを尻目に、クロノはカップに手を添える。
「ミルクと砂糖が入ってる。なしだとまだ飲めなかった」
悔しさも何も含まない、課したトレーニングの進捗報告じみた口調だった。
「この時間にコーヒーは眠れなくなるぞ。怖い夢でも見たか?」
「……いい夢だった」
嘘ではないと言うように、クロノは下手くそな笑顔をシライに向けた。
夢は記憶のデフラグだという。いい夢と言いつつ眠ることを躊躇うクロノの記憶に、シライには一つしか心当たりがない。
シライは不得手な自覚のある慰めを口にする代わりに、巣立ったばかりの弟子の頭をひと撫でした。寝る子は育つと言える空気ではない。
撫でられているクロノは全くうれしそうではなかったが、嫌がられていないことだけは確かだった。畳む
タイトルを付けるなら「寝る子は巣立つ」かな。何がつらいってシライのだじゃれノルマですよ。
カフェスペースの奥、壁面に据え付けられたカウンターに珍しい姿を見つけて、通り過ぎようとしていたシライは足を止めた。
昼間ならば休憩や気分転換を兼ねた作業場として活気に満ちているこの場所も、夜に近づくにつれて静けさが幅を利かせだす。施設内の温度は巻戻士たちを万全の状態で送り出せるよう常に一定に保たれていたが、誰もいないというだけで体感温度は一、二度低くなる。
「クロノ」
「おじさん」
「お兄さんだ。どうした、こんなところで」
任務終了後、次の任務を与えられるまでのインターバルの中に、高負荷のトレーニングが禁止されている期間がある。生憎シライは特級巻戻士を冠していた間、インターバル制度の恩恵にあずかれたことはなかったが、高負荷トレーニング禁止期間の存在は知っていた。
肉体を追い込むことで精神的な傷から目をそらしても、その先に待つのは破滅以外にない。適切なカウンセリングを受けた結果の休職と、それに伴う慢性的な人手不足。シライに付けられた管理監督者に準ずる役職は、労務部門の小言をかわすための方便で、シライは現場に出る以外の仕事をしたことはなかった。
「疲れていないと寝付かれないか?」
「……」
初任務はつつがなく終わったと聞いている。クロノの手元にあるドリンクは、館内の自動販売機ではなく、外で買ってきたものだ。本部を出て左に進んだ先の角にある店のロゴが入った蓋付きカップ。カップの外見からホットドリンクだと推察できるものの、何を飲んでいるのかまでは分からない。
平時のクロノの表情に覇気がないのは今に始まったことではないし、自分も人のことは言えない。シライはじっと見てくるクロノの瞳を見つめ返しながら、不調の兆しがないかを探った。精神の強さは贔屓目なしに折り紙付き。それでも、クロノが子供なのだということを忘れる気はなかった。
「別に、いつでも寝られる」
「そうか」
先に目をそらしたのはクロノの方だった。
事実として、クロノの寝付きは驚くほどにいい。巻戻士に必要な、後付けで身に付けることが難しい技能だ。クロノの持つそれが生来のものか後天的なものなのかは、巻戻士を目指す前のクロノを知らないシライには分からない。
「何を飲んでいるんだ?」
「コーヒー」
「へえ、大人だな。おれは飲めない」
本当かという目を向けてきたクロノに、シライは軽く頷いた。
「嘘をつく意味がないだろう。おまえ相手に取りつくろう必要もない」
「おじさん結構抜けてるもんな」
春の日差しのようにうららかで、悪意のない眼差しだった。あまり見る機会のない和やかな表情に気を取られ、ツッコミが遅れたシライを尻目に、クロノはカップに手を添える。
「ミルクと砂糖が入ってる。なしだとまだ飲めなかった」
悔しさも何も含まない、課したトレーニングの進捗報告じみた口調だった。
「この時間にコーヒーは眠れなくなるぞ。怖い夢でも見たか?」
「……いい夢だった」
嘘ではないと言うように、クロノは下手くそな笑顔をシライに向けた。
夢は記憶のデフラグだという。いい夢と言いつつ眠ることを躊躇うクロノの記憶に、シライには一つしか心当たりがない。
シライは不得手な自覚のある慰めを口にする代わりに、巣立ったばかりの弟子の頭をひと撫でした。寝る子は育つと言える空気ではない。
撫でられているクロノは全くうれしそうではなかったが、嫌がられていないことだけは確かだった。畳む
タイトルを付けるなら「寝る子は巣立つ」かな。何がつらいってシライのだじゃれノルマですよ。
#BLEACH 前に書いた一斬よしよし筆おろしセックスの導入(これ )の続き。導入部分の尻尾を少し変えて常識人&ストッパー役として白一護を投入たので導入部から再投稿です。
「経験がないことは恥ではない」
「何も言ってねえだろ!」
いつも通りの断定系で言った斬月を一護は睨んだ。
精神世界の中。斬月はビルの最上階に近い位置で、まるで生き物のようになびく裳裾の中心に立っている。
信頼関係と呼べるものを築けた今でも、斬月が最初に現れる場所までの距離は、出会った当初と変わっていない。
余人のいない空間といえども声を張って話したい内容ではなく、一護は斬月にもう少し近くに来てほしいと思った。しかし一護のことを文字通り生まれてからずっと見守り続けていた斬月を相手に、女性経験がないことを取り繕う意味はない。一護はそれ以上言うことを諦めて、苛立ち紛れに大きく息を吐いた。
久しぶりの学び舎、久しぶりの馬鹿騒ぎ。
尸魂界の面々とも馬鹿げた掛け合いはやっていたが、日常そのものである友人らと話すのは格別の楽しさだ。数々の特異な事象を経てもなお変わらず接してくる面々にもみくちゃにされ、一護の抱えていたわだかまりは一瞬で彼方へと押し流された。
――が、日常に身を置く仲だからこそ、重大事も変わってくる。
現世や尸魂界、果てはこの世界そのものまで担ったことのある一護の両肩には、今は「童貞」の二文字が重く伸し掛かっていた。
「ならば私とするか」
「は?」
「経験がないことが不安なのだろう。一護、お前が曇ることを私は望まぬ」
斬月の言葉を正しく聞き取った一護は、現実逃避から無意識に空を見上げた。
心情はさておき曇る気配はなく、ところどころに白い綿雲が浮かんだ穏やかな青空が広がっている。
いや、違う。
「そういうことじゃねえだろ! そうやってするもんじゃねえし!」
「果たすあてがあるのか?」
「ねえけど、でもそれは、ほら」
好きなやつとするもんだろ、とごにょごにょと言った声は、臨戦時の一護しか知らない者ならば驚くような歯切れの悪さだ。
言ったものの具体的に思い浮かぶ「好きなやつ」のない一護は、学校で言われたからかいを頭の中で反復し、うるせえという文句を声に出さないまま眉間に皺を刻んだ。
「それならば私の方は問題ない」
「なん……でだよ」
一護の眉間に刻まれた皺に困惑が加わる。
「私はお前のことを好いている。ずっとだ。問題があるとすれば一護、お前の方にある。私が相手に適さぬと言うのならば身を引こう」
「適すも適さないも、斬月のおっさんはおっさんだろうが」
「若い方がいいか」
瞬間、二人の脳裏をよぎったのは天鎖斬月の姿だ。
一護は刃を交えていない時にまで相手の思考が読めるわけではなかったが、サングラス越しに合わせた目から斬月が同じことを考えていると察する。
「違う!」
そして、思わず吠えた。姿が若ければいいというわけではないし、ついでに言うなら自分によく似た容姿をした斬月もごめんだった。体を乗っ取ろうとしているという認識こそ改まっているが、今までの経験を踏まえると、白い死覇装を纏う斬月がどんな教え方をするか想像は容易い。容易すぎるあまり脳裏に浮かんできた映像を一護は手を振って打ち払う。
「そりゃあ、俺だっておっさんのことは嫌いじゃねえよ」
考えていることは元から筒抜けだ。一護はぐちゃぐちゃと言い訳するのが馬鹿らしくなり、眉間に深々と皺を寄せたまま、ひとまず斬月からの好意に好意を返した。何年も共に歩み、導いてくれた相手を嫌うわけがなかった。
「ならば決まりだ」
そう言った斬月の声からは、滲み出すような安堵が感じられた。合わせられた瞳の穏やかさ。まるで与えられた役目をようやっと果たせるとでも言うような様子に、一護は喉まで出掛かっていた抗弁を飲み込む。
「――待てよ、斬月さん」
「ッ!」
背後で膨れ上がる気配。振り返った先に抜き身の刀を引っ提げたもう一人の斬月を見た一護は目を見張った。一体いつからいたのか。目の前の斬月に意識を注いでいたばかりにまるで気が付かなかった。
「お前……っ! いるなら最初からいろよ!」
「うるせえ。俺も出る気はなかった」
決まりの悪さからつい大声になった一護の抗議を、白い斬月はしかめ面で受け流す。見据えているのは一護を挟んだ向こう側、黒い斬月だ。
「言ってたことと違うじゃねえか。元はこいつが流されて変なことにならないよう釘を刺すって話だったろ。あんたが流してどうすんだ」
「…………」
「だんまりか?」
「……欲は初めから備わっているが、交わり方は学ばなければ身に付かない」
「いきなり過ぎんだよ。そもそもやる前提で進めんな」
「……一護」
しばらくの沈黙の後、一護の肩越しに斬月と見合っていた斬月が、再び一護の方を向く。身構えた一護が後退しなかったのは二人の教育の賜物だ。
「いついかなる時でも中断できる。一度受けたからといって気負う必要はない。私からお前への信頼は、そんなことで損なわれるものではないのだから」
微動だにしない斬月とは反対に、すたすたと軽い足取りで一護の斜め前まで歩み出た斬月は、そうじゃねえんだよ、とばかりに溜め息を吐いた。
「好きだからってやらなきゃなんねえ道理はねえ」
「それが本能でもか?」
「俺たちの王はひとりだけだ。当代限りで何の不足がある」
かつて自分が一護に向けた単語を向けられた斬月は、当て擦りとも取れそうなそれを気にした風もなく即答する。
「おい」
「てめえは黙ってろ」
一護の不服の声を聞いた斬月が、声と背中に不機嫌を纏わせる。
しかしそれに怯む一護ではない。
斬月の声の調子から真面目な回答であることは察せられたが、一生童貞で構わないと言われるのは違う。一護は死覇装の背中に文句を投げつける。
「つったって俺の話だろうが」
「今ここで答えを出すことじゃねえって言ってんだ。てめえがやりてえのは分かった。だが今すぐにする必要はどこにある?」
「いや……それは、そう……だけどよ……」
「分かったなら帰れ」
振り返らないまま追い払おうとしてくる斬月をとりあえずそのままに、一護は先にいた方の斬月を見た。
助けを求めたわけではない。兄としての習い性だ。妹二人を持つ身としては、いくら納得がいったからといって、片方だけの言い分を聞くわけにはいかない。
「私は結論を急ぎすぎた。ここは一度引いてくれ。お前の望むようにすることが私の望みだ」
おっさんそれはずりぃだろ、と思いながら一護が瞬くと、目の前の景色は自室の壁に変わっていた。
◇
意を決して入った精神世界の中で、一護は黒い斬月を見据えた。
「おっさん自身はどうなんだよ」
セックスに興味がある。
いずれはしたいと思っている。
するなら相手は女だと思っていたが、斬月を相手にするのが嫌だということはない。
それが刃禅ではなく、坐禅の真似事をしながら考えた一護が出した答えだった。
経験の有無などどうでもいいと開き直れない自分と違って、斬月は見てくれ通りに大人なのだから、セックスに対して一護のような考え方をしているわけではないだろう。例えば遊子に求められた一護が買い物に付いていくように、何の気負いもなく日常の一端としてできるものなのかもしれない。
だが仮にそうだとしても、きちんと意志を確認しておきたかった。
「俺のためとかそういうんじゃなくて、斬月がどうしたいかを聞きたい」
一護はかつてない緊張感を覚えながら、自分を見ている斬月が静かに瞬くのを見つめる。気を利かせたのか、探ってみてももう一人の斬月の気配は感じられなかった。
「私はお前と交合したい」
明瞭すぎる答えに一護は呻いた。
一護はいつも通りの立ち位置から動く様子のない斬月を見ながら、きゅっと嫌な縮み方をした心臓が、年齢に似合わない不整脈のような打ち方をするのをなだめる。
あまり負荷を掛けすぎると、白い斬月が一護の危機と判断して出てきてしまうかもしれない。前回はさておき今回は完全に自分の責任だ。姿を見せないだけで思考も会話も筒抜けだろうが、今この場で顔を合わせたくなかった。
「一護、お前は思い違いをしている。私は、私が望むことしかしていない。お前の望みを何でも叶えてやりたいというのは、ただの私のわがままだ」
「そうかよ……」
会話を終えても逸らされることのない斬月の目に、他に聞きたいことがあると見透かされているのを感じて、一護はすいと目を逸らした。
斬月から提案を受けた日からずっと、男同士でどうやってするのだという疑問、もとい興味が、心の中にドーンと腰を据えている。男女の性交ですら児童向けの絵本でなぞっただけの曖昧な知識なのだ。男同士の方法など、斬月に尋ねる以外に知る術を思いつかなかった。
一護は気づいていなかったが、今や一護の興味は童貞を捨てることではなく、斬月とセックスすることに主軸を移しつつあった。コウノトリだとかキャベツ畑だとかの子供だましを言うこともないだろう、という信頼もある。
一護はもう一度斬月を見た。
「……最初に言ったけどよ、俺もおっさんも男だろ。どうやってやるんだ?」
「性交の方法は一つに限らないが、感覚を膣性交に近づけるのならば肛門を使う。膣口に見立てた肛門に、勃起した陰茎を挿入するということだ。この場合は直腸が膣の役割を担う」
説明を聞いているうちにどんどん顔色を変えていく一護をどう思ったか、斬月は心得ているとばかりに頷いた。
「安心するといい。私は食事を摂らない。排泄もしない。私の肛門は今――お前のためにある器官だ」畳む
「経験がないことは恥ではない」
「何も言ってねえだろ!」
いつも通りの断定系で言った斬月を一護は睨んだ。
精神世界の中。斬月はビルの最上階に近い位置で、まるで生き物のようになびく裳裾の中心に立っている。
信頼関係と呼べるものを築けた今でも、斬月が最初に現れる場所までの距離は、出会った当初と変わっていない。
余人のいない空間といえども声を張って話したい内容ではなく、一護は斬月にもう少し近くに来てほしいと思った。しかし一護のことを文字通り生まれてからずっと見守り続けていた斬月を相手に、女性経験がないことを取り繕う意味はない。一護はそれ以上言うことを諦めて、苛立ち紛れに大きく息を吐いた。
久しぶりの学び舎、久しぶりの馬鹿騒ぎ。
尸魂界の面々とも馬鹿げた掛け合いはやっていたが、日常そのものである友人らと話すのは格別の楽しさだ。数々の特異な事象を経てもなお変わらず接してくる面々にもみくちゃにされ、一護の抱えていたわだかまりは一瞬で彼方へと押し流された。
――が、日常に身を置く仲だからこそ、重大事も変わってくる。
現世や尸魂界、果てはこの世界そのものまで担ったことのある一護の両肩には、今は「童貞」の二文字が重く伸し掛かっていた。
「ならば私とするか」
「は?」
「経験がないことが不安なのだろう。一護、お前が曇ることを私は望まぬ」
斬月の言葉を正しく聞き取った一護は、現実逃避から無意識に空を見上げた。
心情はさておき曇る気配はなく、ところどころに白い綿雲が浮かんだ穏やかな青空が広がっている。
いや、違う。
「そういうことじゃねえだろ! そうやってするもんじゃねえし!」
「果たすあてがあるのか?」
「ねえけど、でもそれは、ほら」
好きなやつとするもんだろ、とごにょごにょと言った声は、臨戦時の一護しか知らない者ならば驚くような歯切れの悪さだ。
言ったものの具体的に思い浮かぶ「好きなやつ」のない一護は、学校で言われたからかいを頭の中で反復し、うるせえという文句を声に出さないまま眉間に皺を刻んだ。
「それならば私の方は問題ない」
「なん……でだよ」
一護の眉間に刻まれた皺に困惑が加わる。
「私はお前のことを好いている。ずっとだ。問題があるとすれば一護、お前の方にある。私が相手に適さぬと言うのならば身を引こう」
「適すも適さないも、斬月のおっさんはおっさんだろうが」
「若い方がいいか」
瞬間、二人の脳裏をよぎったのは天鎖斬月の姿だ。
一護は刃を交えていない時にまで相手の思考が読めるわけではなかったが、サングラス越しに合わせた目から斬月が同じことを考えていると察する。
「違う!」
そして、思わず吠えた。姿が若ければいいというわけではないし、ついでに言うなら自分によく似た容姿をした斬月もごめんだった。体を乗っ取ろうとしているという認識こそ改まっているが、今までの経験を踏まえると、白い死覇装を纏う斬月がどんな教え方をするか想像は容易い。容易すぎるあまり脳裏に浮かんできた映像を一護は手を振って打ち払う。
「そりゃあ、俺だっておっさんのことは嫌いじゃねえよ」
考えていることは元から筒抜けだ。一護はぐちゃぐちゃと言い訳するのが馬鹿らしくなり、眉間に深々と皺を寄せたまま、ひとまず斬月からの好意に好意を返した。何年も共に歩み、導いてくれた相手を嫌うわけがなかった。
「ならば決まりだ」
そう言った斬月の声からは、滲み出すような安堵が感じられた。合わせられた瞳の穏やかさ。まるで与えられた役目をようやっと果たせるとでも言うような様子に、一護は喉まで出掛かっていた抗弁を飲み込む。
「――待てよ、斬月さん」
「ッ!」
背後で膨れ上がる気配。振り返った先に抜き身の刀を引っ提げたもう一人の斬月を見た一護は目を見張った。一体いつからいたのか。目の前の斬月に意識を注いでいたばかりにまるで気が付かなかった。
「お前……っ! いるなら最初からいろよ!」
「うるせえ。俺も出る気はなかった」
決まりの悪さからつい大声になった一護の抗議を、白い斬月はしかめ面で受け流す。見据えているのは一護を挟んだ向こう側、黒い斬月だ。
「言ってたことと違うじゃねえか。元はこいつが流されて変なことにならないよう釘を刺すって話だったろ。あんたが流してどうすんだ」
「…………」
「だんまりか?」
「……欲は初めから備わっているが、交わり方は学ばなければ身に付かない」
「いきなり過ぎんだよ。そもそもやる前提で進めんな」
「……一護」
しばらくの沈黙の後、一護の肩越しに斬月と見合っていた斬月が、再び一護の方を向く。身構えた一護が後退しなかったのは二人の教育の賜物だ。
「いついかなる時でも中断できる。一度受けたからといって気負う必要はない。私からお前への信頼は、そんなことで損なわれるものではないのだから」
微動だにしない斬月とは反対に、すたすたと軽い足取りで一護の斜め前まで歩み出た斬月は、そうじゃねえんだよ、とばかりに溜め息を吐いた。
「好きだからってやらなきゃなんねえ道理はねえ」
「それが本能でもか?」
「俺たちの王はひとりだけだ。当代限りで何の不足がある」
かつて自分が一護に向けた単語を向けられた斬月は、当て擦りとも取れそうなそれを気にした風もなく即答する。
「おい」
「てめえは黙ってろ」
一護の不服の声を聞いた斬月が、声と背中に不機嫌を纏わせる。
しかしそれに怯む一護ではない。
斬月の声の調子から真面目な回答であることは察せられたが、一生童貞で構わないと言われるのは違う。一護は死覇装の背中に文句を投げつける。
「つったって俺の話だろうが」
「今ここで答えを出すことじゃねえって言ってんだ。てめえがやりてえのは分かった。だが今すぐにする必要はどこにある?」
「いや……それは、そう……だけどよ……」
「分かったなら帰れ」
振り返らないまま追い払おうとしてくる斬月をとりあえずそのままに、一護は先にいた方の斬月を見た。
助けを求めたわけではない。兄としての習い性だ。妹二人を持つ身としては、いくら納得がいったからといって、片方だけの言い分を聞くわけにはいかない。
「私は結論を急ぎすぎた。ここは一度引いてくれ。お前の望むようにすることが私の望みだ」
おっさんそれはずりぃだろ、と思いながら一護が瞬くと、目の前の景色は自室の壁に変わっていた。
◇
意を決して入った精神世界の中で、一護は黒い斬月を見据えた。
「おっさん自身はどうなんだよ」
セックスに興味がある。
いずれはしたいと思っている。
するなら相手は女だと思っていたが、斬月を相手にするのが嫌だということはない。
それが刃禅ではなく、坐禅の真似事をしながら考えた一護が出した答えだった。
経験の有無などどうでもいいと開き直れない自分と違って、斬月は見てくれ通りに大人なのだから、セックスに対して一護のような考え方をしているわけではないだろう。例えば遊子に求められた一護が買い物に付いていくように、何の気負いもなく日常の一端としてできるものなのかもしれない。
だが仮にそうだとしても、きちんと意志を確認しておきたかった。
「俺のためとかそういうんじゃなくて、斬月がどうしたいかを聞きたい」
一護はかつてない緊張感を覚えながら、自分を見ている斬月が静かに瞬くのを見つめる。気を利かせたのか、探ってみてももう一人の斬月の気配は感じられなかった。
「私はお前と交合したい」
明瞭すぎる答えに一護は呻いた。
一護はいつも通りの立ち位置から動く様子のない斬月を見ながら、きゅっと嫌な縮み方をした心臓が、年齢に似合わない不整脈のような打ち方をするのをなだめる。
あまり負荷を掛けすぎると、白い斬月が一護の危機と判断して出てきてしまうかもしれない。前回はさておき今回は完全に自分の責任だ。姿を見せないだけで思考も会話も筒抜けだろうが、今この場で顔を合わせたくなかった。
「一護、お前は思い違いをしている。私は、私が望むことしかしていない。お前の望みを何でも叶えてやりたいというのは、ただの私のわがままだ」
「そうかよ……」
会話を終えても逸らされることのない斬月の目に、他に聞きたいことがあると見透かされているのを感じて、一護はすいと目を逸らした。
斬月から提案を受けた日からずっと、男同士でどうやってするのだという疑問、もとい興味が、心の中にドーンと腰を据えている。男女の性交ですら児童向けの絵本でなぞっただけの曖昧な知識なのだ。男同士の方法など、斬月に尋ねる以外に知る術を思いつかなかった。
一護は気づいていなかったが、今や一護の興味は童貞を捨てることではなく、斬月とセックスすることに主軸を移しつつあった。コウノトリだとかキャベツ畑だとかの子供だましを言うこともないだろう、という信頼もある。
一護はもう一度斬月を見た。
「……最初に言ったけどよ、俺もおっさんも男だろ。どうやってやるんだ?」
「性交の方法は一つに限らないが、感覚を膣性交に近づけるのならば肛門を使う。膣口に見立てた肛門に、勃起した陰茎を挿入するということだ。この場合は直腸が膣の役割を担う」
説明を聞いているうちにどんどん顔色を変えていく一護をどう思ったか、斬月は心得ているとばかりに頷いた。
「安心するといい。私は食事を摂らない。排泄もしない。私の肛門は今――お前のためにある器官だ」畳む
#BLEACH 導入だけ書いた一護×斬月のおっさんの筆おろしよしよしセックス
「経験がないことは恥ではない」
「何も言ってねえだろ!」
真正面。いつも通りの断定系で言った斬月を一護は睨んだ。
信頼関係と呼べるものを築けた今でも、現れた斬月が最初に立つ位置は出会った当初から変わっていない。
余人のいない空間といえども声を張って話したい内容ではなく、もう少し近くに来てほしいと思ったが、一護のことを文字通り生まれてからずっと見守り続けていた斬月に改めて言い訳をする意味はない。一護はそれ以上言うことを諦めて、苛立ち紛れに大きく息を吐いた。
久しぶりの学校、久しぶりの馬鹿騒ぎ。
尸魂界の面々とも馬鹿げた掛け合いはいくらでもやっていたが、死線などというものを意識したことがない頃からの相手と話すのはまた別の楽しさがある。変わらず接してくる面々にもみくちゃにされ、一護の抱えていたわだかまりは一瞬で彼方へと押し流された。
――が、生死を意識したことがない仲だからこそ、重大事も変わってくる。
現世や尸魂界、果ては世界そのものまで背負ったことのある一護の両肩には、今は「童貞」の二文字が重く伸し掛かっていた。
「ならば私とするか」
「は?」
「経験がないことが不安なのだろう。一護、お前が曇ることを私は望まぬ」
一護は現実逃避から無意識に空を見上げた。心情はさておき曇る気配はなく、ところどころに白い綿雲が浮かんだ穏やかな青空が広がっている。
いや違う。
「そういうことじゃねえだろ! そうやってするもんじゃねえし!」
「では誰とする」
「それは、ほら」
好きなやつと、とごにょごにょと言った声は、臨戦時の一護しか知らない者ならば驚くような歯切れの悪さだった。
好きなやつとは言ったものの具体的に思い浮かぶ顔のない一護は、学校で言われた「子供だ」というからかいを頭の中で反復し、うるせえと声に出さないまま眉間に皺を刻んだ。
「ならば私の方は問題ない」
「は?」
「私はお前が好きだ。問題があるとすれば一護、お前の方にある。私が相手に適さぬと言うのならば身を引こう」
「適すも適さないも、斬月のおっさんはおっさんだろうが」
「若い方がいいか」
瞬間、二人の脳裏をよぎったのは天鎖斬月の姿だ。一護は刃を交えていない時にまで相手の思考が読めるわけではなかったが、サングラス越しに合わせた目からそれを察する。
「違う!」
一護は思わず吠えた。姿が若ければいいというわけではないし、ついでに言うなら自分によく似た容姿の虚の力を宿した方の斬月もごめんだった。斬魄刀の打ち直しを経て体を乗っ取ろうとしているという認識こそ改まっているが、あちらの斬月がどんな教え方をするか想像したくもない。
「……そりゃあ、俺だっておっさんのことは嫌いじゃねえよ」
考えていることは元から筒抜けだ。一護はぐちゃぐちゃと言い訳するのが馬鹿らしくなり、眉間に深々と皺を寄せたまま、ひとまず斬月からの好意に好意を返した。何年も共に歩み導いてくれた相手を嫌うわけがなかった。
「ならば決まりだ」
そう言った斬月の声からは、どことなく安堵が感じられた。表情は相変わらずの無表情。それでも伝わってくるまるで己の役目を果たせるとでもいうような様子に、毒気を抜かれた一護はついに抗弁の機会を逃した。畳む
「経験がないことは恥ではない」
「何も言ってねえだろ!」
真正面。いつも通りの断定系で言った斬月を一護は睨んだ。
信頼関係と呼べるものを築けた今でも、現れた斬月が最初に立つ位置は出会った当初から変わっていない。
余人のいない空間といえども声を張って話したい内容ではなく、もう少し近くに来てほしいと思ったが、一護のことを文字通り生まれてからずっと見守り続けていた斬月に改めて言い訳をする意味はない。一護はそれ以上言うことを諦めて、苛立ち紛れに大きく息を吐いた。
久しぶりの学校、久しぶりの馬鹿騒ぎ。
尸魂界の面々とも馬鹿げた掛け合いはいくらでもやっていたが、死線などというものを意識したことがない頃からの相手と話すのはまた別の楽しさがある。変わらず接してくる面々にもみくちゃにされ、一護の抱えていたわだかまりは一瞬で彼方へと押し流された。
――が、生死を意識したことがない仲だからこそ、重大事も変わってくる。
現世や尸魂界、果ては世界そのものまで背負ったことのある一護の両肩には、今は「童貞」の二文字が重く伸し掛かっていた。
「ならば私とするか」
「は?」
「経験がないことが不安なのだろう。一護、お前が曇ることを私は望まぬ」
一護は現実逃避から無意識に空を見上げた。心情はさておき曇る気配はなく、ところどころに白い綿雲が浮かんだ穏やかな青空が広がっている。
いや違う。
「そういうことじゃねえだろ! そうやってするもんじゃねえし!」
「では誰とする」
「それは、ほら」
好きなやつと、とごにょごにょと言った声は、臨戦時の一護しか知らない者ならば驚くような歯切れの悪さだった。
好きなやつとは言ったものの具体的に思い浮かぶ顔のない一護は、学校で言われた「子供だ」というからかいを頭の中で反復し、うるせえと声に出さないまま眉間に皺を刻んだ。
「ならば私の方は問題ない」
「は?」
「私はお前が好きだ。問題があるとすれば一護、お前の方にある。私が相手に適さぬと言うのならば身を引こう」
「適すも適さないも、斬月のおっさんはおっさんだろうが」
「若い方がいいか」
瞬間、二人の脳裏をよぎったのは天鎖斬月の姿だ。一護は刃を交えていない時にまで相手の思考が読めるわけではなかったが、サングラス越しに合わせた目からそれを察する。
「違う!」
一護は思わず吠えた。姿が若ければいいというわけではないし、ついでに言うなら自分によく似た容姿の虚の力を宿した方の斬月もごめんだった。斬魄刀の打ち直しを経て体を乗っ取ろうとしているという認識こそ改まっているが、あちらの斬月がどんな教え方をするか想像したくもない。
「……そりゃあ、俺だっておっさんのことは嫌いじゃねえよ」
考えていることは元から筒抜けだ。一護はぐちゃぐちゃと言い訳するのが馬鹿らしくなり、眉間に深々と皺を寄せたまま、ひとまず斬月からの好意に好意を返した。何年も共に歩み導いてくれた相手を嫌うわけがなかった。
「ならば決まりだ」
そう言った斬月の声からは、どことなく安堵が感じられた。表情は相変わらずの無表情。それでも伝わってくるまるで己の役目を果たせるとでもいうような様子に、毒気を抜かれた一護はついに抗弁の機会を逃した。畳む
「おじさんのウンコはおれのよりも大きいのか?」
クロノの手にあるのは動物のうんこに関する本だ。聞かれたシライは手にしていたペンをくるりと回し、にやりと笑った。
「本部にはおれよりデカいヤツがいるだろ。聞きに行こうぜ」
シライに連れられる形で隊長室に入ったクロノは、物珍しげにあたりを見回すのを我慢して、巻戻士隊長であるゴローの顔を見た。
クロノの側に立ったシライが、励ますように肩を叩く。それで、クロノはシライにしたのと同じ質問をした。もちろん、シライにするよりも丁寧に、なぜそう思ったのか――彼我の体の大きさの違いと、読んでいた本の内容を付け加える。
「……大便の量は食べた量に左右される。おれのほうが胃が大きく、食べられる量も多いから、最大値としてはそうなるだろうな」
クロノの緊張した面持ちを一瞥したゴローは眉間に皺を寄せたまま答えた。クロノはゆっくりと一度頷き、持ってきていた本を抱きしめる。
「ありがとうございます、隊長」
「いや」
「答えがわかってよかったな、クロノ」
「うん」
「じゃあ帰るわ。急に来たのにサンキュー隊長」
「シライはここに残れ」